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    <title>【津川診療所ブログ】福島県 福島市  精神科/カウンセリング/心理療法</title>
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    <updated>2025-02-18T01:33:20Z</updated>
    <subtitle>豊島区目白駅の津川診療所のブログです。診療科目は精神科/カウンセリング/心理療法/精神療法/精神分析です。</subtitle>
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    <title>孤独を引き受けることと共感との関係</title>
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    <published>2025-01-31T03:05:00Z</published>
    <updated>2025-02-18T01:33:20Z</updated>

    <summary>　その人のいるところに自分の身を置いて、その人の感じていることを感じ取ろうとして...</summary>
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        <![CDATA[　その人のいるところに自分の身を置いて、その人の感じていることを感じ取ろうとしている。<div><br /><div>　堀田クリニックのカンファランスの場で、ある発表者から、クライエントに対してどういう心構えで臨んでいるのか、との質問があり、こう答えました。正確には「そのつもりでいる」と言ったと思います。答えたその瞬間も、実際にそれが実行されているかどうかに自信が持てていなかったんだろうと思います。言ってみた後から、その疑いがはっきりしてきました。</div><div><br /></div><div>　つもりではいても、ちゃんとはそうなっていない。できていない。</div><div><br /></div><div>　特に、クライエントから怒りを向けられている時、その人のいるところに自分の身を置くのが難しい。いや、身を置けていない事実が露呈しやすい。</div><div><br /></div><div>　長い間、僕に怒りを向け続けているクライエントがいます。その人との最近の出来事を思い出します。その日のセッションは久しぶりに穏やかなやりとりが続いていました。それが突然「先生は私を攻撃している」と怒り出したのです。「全然そんなことはない」と応じると、さらに「私を批判していることに無自覚なだけだ。大体いつも口調が偉そうだ」と言い出します。</div><div><br /></div><div>　その時に本人を批判していないことには確信がありました。本人の錯覚であることは間違いありません。</div><div><br /></div><div>　これまでは、本人が怒りだした時、内なる動揺を自覚しつつ、怒りの大袈裟さや主観性を指摘する方向に動きがちだったんだと思います。その怒りに客観性があるかもしれないとの自分自身へのチェックを怠らないようにとの気持ちとともに、怒りの元にある本人の思い込みについての理解を深めようとはしてきました。その積み重ねで、その発生がどこにあるかを含めて、全体的な理解が増してきているとは言えると思います。</div><div><br /></div><div>　この時は、先の疑いがはっきりしてきたちょうど真っ最中でした。本人が怒り出したのがあまりにも唐突だと感じていたことも関係していたかもしれません。「さっき突然怒り出した時、僕の態度のどこを自分への批判と感じたのか？」との質問が出てきたのです。</div><div><br /></div><div>　こう書いてみると、ごく当たり前の質問だなあ、と感じます。でも、この質問を発しながら、ちょっと新鮮な感じがしたのです。クライエントのいるところに身を置いてクライエントが感じていることを感じ取ろうとする、それが出来ていたら間違いなくするであろう質問をして、新鮮な感じがした。こういう心境になれていなかったなあ、との感じが浮かびました。つもりだけでやっぱりちっとも出来ていなかった。</div><div><br /></div><div>　今回僕が一番言いたいことはここからです。「こういう心境」を、「孤独を引き受ける程度が増した心境」だと言い換えることができないでしょうか？自分ではなんだかそんな気がするのです。クライエントが錯覚しているんだということをわからせたい、そうすることで孤独から逃れたい、そんな気持ちに囚われていた気がするのです。その囚われから離れた感じ。</div><div><br /></div><div>　その質問ができた後、まだ数回ではありますが、なんだか今までとセッションの様子が違います。僕への攻撃の元にある思い込みについての、僕の理解を伝える言葉への反発が減り、うなづく場面が増してきた感じがあります。</div><div><br /></div><div>　これらの感じが間違っていないとの前提の上で、考察を加えたいと思います。僕が孤独を引き受けると、クライエントのいるところに自分の身を置くのがやりやすくなる、そうするとクライエントの側の"共感され感"が増す。そうなると今度は、こちらにとっても通じた感じが増えてくる。大雑把に言ってしまえば、孤独を引き受ける度合いが増すことイコール共感のレベルが深まること。</div><div><br /></div><div>　これって、これまでこのブログで書いてきた、煩悩即菩提とか不安即安心とか、そういう感じとそっくりです。</div><div><br /></div><div>　ここまで書いて、先ほどの質問が出てきた時の新鮮な感じについて、もう少し表現できそうな気がしてきました。</div><div><br /></div><div>　わからないという感覚を手掛かりに、その感覚が減っていくことを目指す、つまりは体感的な相手理解を深めようとする立場と、本人の立場に立とうとする気持ち。その二つがバラバラな感じ、距離がある感じ、があった。その距離が一気になくなった感じ。</div><div><br /></div><div>　前者の立場には我の要素が多分にある、本当に本人の立場に立つということは、我なくなるということだ。そう考えると腑に落ちる気がします。攻撃された時に生じる内なる動揺も、我が脅かされていると捉えるとぴったりします。</div><div>　</div><div>　</div><div>　</div></div>]]>
        
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    <title>自己観察力　その二</title>
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    <published>2024-01-11T04:23:00Z</published>
    <updated>2024-01-11T04:23:21Z</updated>

    <summary>　自己観察力が増すことと感じる力を育てること。　この二つが密接不可分な関係にある...</summary>
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        <![CDATA[　自己観察力が増すことと感じる力を育てること。<div><br /></div><div>　この二つが密接不可分な関係にあるとの感じは以前から抱いていました。今から思うと、その密接不可分な関係を、感じる力を育てるために自己観察力を高める訓練をする、というように捉えていた気がします。</div><div><br /></div><div>　その捉え方はちょっと違う、正確ではない、因果関係的に捉え過ぎている、浅いと言ってもいいかもしれない、実は、その二つは全く同じ事象を別な角度から表現したものだ、そう感じさせられる出来事があったので、書いてみたくなりました。</div><div><br /></div><div>　孤立型の男性です。引きこもりが続いています。僕のところに通ってくる以外ほぼ外出をしませんが、比較的最近、近所のスポーツジムに週一で通うようになりました。担当の女性トレーナーがついています。ある日その人がたまたまいなかった。急な用事が発生したらしい。それを知った時の気持ちを「こんなにがっかりするとは思わなかった」と表現したのです。</div><div><br /></div><div>　僕はこの発言に注目しました。新鮮なものに感じました。実感がこもっていると同時に、がっかりする自分を見ている態度があると感じたからです。この人にこの態度が育ってくることを待ち望んでいたからです。</div><div><br /></div><div>　僕は「自分が感じたことを見られるようになってきたみたいだ、今までこういう言い方をすることがなかった」と話しました。それへの本人のレスポンスが「自分としては、自分を見られるようになってきたかどうかはわからない。以前だったら仮に同じようなことがあってもこれほどはがっかりしなかった気がする。そう言いたかった」というものだったのです。</div><div><br /></div><div>　このやり取りが僕には面白かった。貴重なもののように思えました。自己観察力が増すことと感じ方が増すこととは同じことだったんだ、それをこの人が証明してくれた。僕の直観がそう言っていると感じ、発見した気分になりました。</div><div><br /></div><div>　この人とは30年の治療関係が続いています。治療意欲が強く、熱心に通ってきます。感じていることを表現しようとの努力も怠りません。表現力もかなり豊かなものがあります。であるにもかかわらず、自己観察力がなかなか育ちません。</div><div><br /></div><div>　自己観察を巡って、この発見の少し前にも、僕にとってはやはり発見と呼びたくなる出来事が起きていました。</div><div><br /></div><div>　自己観察的態度が育つためには不安との付き合い方が問題になります。不安を引き受けることができるかどうか、僕の表現だと、不安と友達になれるかどうか、そこが重要なステップだと考えています。</div><div><br /></div><div>　その点について、この人とは同じやり取りがほぼ30年間ずっと繰り返されています。「先生のその考えは不安の強くない人にしか通用しない。僕には無理だ。そんな余裕はとてもない」というものです。</div><div><br /></div><div>　不安を引き受け不安を観察する態度を取ることはできないと頑なに主張しますが、不安を回避するためのこの人なりの方法について、セッションの場で、振り返っての話し合いは可能です。むしろ積極的、協力的です。二人の間での共通認識が蓄えられています。そのうちの一つ、相手の考えや気持ちに一致させようとするという傾向について話しあっている時のことでした。僕が、それをやっているその最中にそこを見ようとしてほしい、と言ったんだと思います。彼のレスポンスが「それが怖いんです。見ることは離れること。離れることは何かが壊れること。多分見捨てられること」というものでした。</div><div><br /></div><div>　この発言が僕を強く刺激しました。そして以下の言葉が浮かんできました。「そうか、呪いはその正体をみられたら効力を失ってしまうっていうことか」</div><div><br /></div><div>　不安を回避するために相手の気持ちに一致させようとする心の動きは、僕に言わせると、いわば呪いです。幼少時期の環境の中で、本人からすると、そうするしか安心を得る手段がなかった。他に選択肢がない。好きでそのやり方を選んだわけではない。洗脳と言ってもいい。呪いや洗脳の側からすると、そうだと見抜かれないためには、見られる事を拒絶したくなるに違いありません。この人の場合、その拒絶の程度が強い。そう考えると、この人の自己観察力の育たなさが説明できそうな気がしたのです。</div><div><br /></div><div>　それがあったすぐ後の「こんなにがっかりするとは思わなかった」との発言でした。僕に特別意味のあるもの、発見、との感じが生じたのは、この経緯の関与も大きいに違いありません。</div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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    <title>孤独　その三</title>
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    <published>2023-08-15T06:55:00Z</published>
    <updated>2023-08-15T06:58:48Z</updated>

    <summary>　「孤独　その二」で、看取りについて触れたところからの連想です。　ペットの看取り...</summary>
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        <![CDATA[　「孤独　その二」で、看取りについて触れたところからの連想です。<div><br /></div><div>　ペットの看取りについて、非常に似た感情、強い罪責感、を表現したクライエント達のことを思い出します。さっと4人の顔が浮かびます。年齢は様々ですが、全員女性です。</div><div><br /></div><div>　愛するペットの死の瞬間に立ち会うことができなかった自分を責める責め方が、まさに異口同音との言葉がぴったりな感じなのです。</div><div><br /></div><div>　睡魔に負けてつい眠ってしまった。一人のまま逝かせてしまった。さみしい思いをさせてしまった。可哀想だった。自分はなんてひどい飼い主なんだ。そこから更に、看取りから遡って、あの時こうしていれば良かった、もっとやれることがあったのにしてあげられなかった、との後悔の言葉が続く。</div><div><br /></div><div>　本人たちにとってのペットの存在の意味、重要性、そこも大いに共通していました。唯一無二、かけがえのない大事な存在。気持ちが通じ、応えてくれる感じのする存在。一緒にいて最も安心できる存在。彼女たちにとってのペットは、お母さんでありまた自分自身でもある、僕の中にそういう連想が浮かんでくるという点でも共通していました。依存対象であると同時に、付き合い方に、母からこのように接してほしかったとの願いが込められている。</div><div><br /></div><div>　彼女たちの表明する罪責感に接した当時も、自分を責めすぎている、ペットの方には死の瞬間に立ち会えなかったあなたを責める気持ちがあるとは思えない、というようなことを言っていたはずですが、自分自身が一人での死を迎えたいとの気持ちが固まって来た最近になると、その自分の発言への確信が深まってきました。彼女たちの罪責感の過剰さへの確信、そして過剰な罪責感を生じさせるところにあるはずの幻想の存在への確信です。</div><div><br /></div><div>　夜爪を切ると親の死に目に会えないという迷信があります。これが迷信だというのはおおよそ共通認識になっていると思いますが、親の死に目に会えないことを良しとしない感覚もまた多くの人に共有されているのではないでしょうか。臨終に間に合うために急いで病院に駆けつけた、間に合った、間に合わなかった、という話は何度も聞いた記憶があります。医療者側も、家族が臨終に間に合うかどうかを意識して、不必要な延命措置を講じたり、偽って臨終に間に合ったことにしたり、といったことがあるに違いないと想像します。</div><div><br /></div><div>　ここにも同じ幻想がある、と言っていいと思います。とすると、この幻想はかなり一般的なものだということになると思うのです。一般的な幻想、言葉を換えれば共同幻想。</div><div><br /></div><div>　彼女たちとの経験がこの共同幻想を理解するために役に立つということはないだろうか？罪責感の強さが際立っているからこそ、そこにある幻想の姿がくっきり見えやすくなるのではないだろうか？また、全員女性だというところにも偶然ではないものがあるかもしれない。女性がペットを可愛がるところに母性が深くかかわっている。これは恐らく誰にも異論のないところだと思います。とすると、この共同幻想は母性の幻想性に通じているのではないだろうか？</div><div><br /></div><div>　この問題意識に現段階でどこまで答えられるか？試みてみたいと思います。</div><div><br /></div><div>　彼女達のペット愛は人間不信と強く結びついている。人間は裏切るがペットは裏切らない、との感覚が強い。そして、彼女達の人間不信が母子関係に根ざしている。母親との依存関係が強いと同時に、決して母親に心を許していない。母親とのセンスのずれが激しい。母親は、世間的には成功者、主婦としての場合もあるし職業人の場合もあるが、いずれにしても周囲から一定の評価を得ている。本人は、目に見えないもの、自然や人の気持ち、への感性に優れたものを持っている。その本人の特性が、母親に評価されていないどころか、ほとんど感じ取られていない。それなのに、彼女達自身は、母親との感受性のズレをあまり感じていない。</div><div><br /></div><div>　先に述べたことに加えて僕が彼女たちに共通して感じたことを列挙してみました。これらから、僕は、彼女達が潜在的孤独感（このブログの『仮説』を参照して下さい、僕の造語です）をペット達に投影しているのは間違いない、と言いたくなるのです。実は彼女たちの秘められた孤独感こそがこの幻想を作り出している。</div><div><br /></div><div>　お母さんは私に孤独感という傷を与えた。あまりにも無力でお母さんに守ってもらうしか生きるすべのない私はその事実をそのまま受け止めることができなかった。痛みを封印することで必死にお母さんとの一体感を得、保ってきた。でもこの一体感にはどこか満たされなさがある。何か物足りない。命あるものの世話ができるようになった今、愛らしい動物の姿を見ると、ペットとの交流でその物足りなさを埋められそうな気がしてならない。飼って世話をせずにはいられない。お母さんが私を世話したやり方に改善を加えたい。こんな叫びが聴こえてくる気がするのです。</div><div><br /></div><div>　ここで、この幻想を理解するキーワードが孤独だ、と言えそうな気がしてきます。彼女たちは、ペットたちに孤独を感じさせたくなかった。死の瞬間、ここぞという瞬間、にこそ自分が居合わせて孤独の苦痛を少しでもやわらげたかった。この幻想を、良い母性があれば愛する相手に孤独を感じさせないことができるはずだ、と表現してみたらどうだろう？</div><div><br /></div><div>　こう表現してみると、それは幻想ではない、母性とはそういうものだ、との主張もありそうな気がしてきます。主張はしないにしても、漠然とそんなイメージを抱いている人は結構いそうな気がします。共同幻想たり得るに十分だという気がします。</div><div><br /></div><div>　僕としては、だからこそ、これが幻想であると認識することの重要性を強調したい気持ちです。幻想であるとの認識がはっきりすれば、余計な罪責感から解放されるからです。</div><div><br /></div><div>　孤独を感じさせないことがより良い母性だとは言えない。これは僕にとっては疑いようのない事実です。そもそも、どんなに母性的な愛情を注いでも孤独を感じさせないことは難しい、いや不可能だと言っていい。仮にそれに成功した状態をを想定したとしても、それを真の愛情と呼ぶのは大いに疑わしい。むしろ、孤独を感じることが成長のための契機になることは少なくない。何らかの縁があって更に孤独を引き受けることが出来る方向に進んでいければ、それはイコール成熟への歩みだ。『孤独　その二』で述べた、「親父は死の直前に孤独を引き受けて仏になったんだなあ」との直観。あれは孤独を引き受けることの難しさと大切さを僕に教えてくれた体験だったのではないか。</div><div><br /></div><div>　そしてこの考えの上に立つと、いろいろと辻褄が合ってくる気がします。まずは、僕にこんなことを考えさせるきっかけになったクライエント達が全員女性だったこと。やっぱり決して偶然でなかったのではないだろうか。母性との関係で生じた傷を、自らの母性で癒そうとする。そりゃあ女性の方がチャレンジしやすい。更に、この幻想が共同幻想になることの説明も難しくなさそうな気がします。潜在的孤独感はもちろん男性にもある。男性はそこからの回復の試みに自らの母性を使うほどそもそも母性に恵まれていない。だから母性を使ったチャレンジには進んでいきにくい。でも、だからこそ、良い母性への憧れが強くなる。</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>&nbsp;</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><div><br /></div><div>　</div></div>]]>
        
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    <title>孤独　その二</title>
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    <published>2023-01-11T06:55:00Z</published>
    <updated>2023-01-11T06:55:48Z</updated>

    <summary>　以前に「孤独とつながり」という題で、孤独について少し書いたので、それを「孤独　...</summary>
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        <![CDATA[　以前に「孤独とつながり」という題で、孤独について少し書いたので、それを「孤独　その一」とみなし、今回のタイトルを「孤独　その二」とします。<div><br /></div><div>　僕の母は1987年に65歳で亡くなりました。僕は38歳でした。子宮癌の術後数年経過し、癌細胞が全身に転移、最後の数か月は父の経営する内科医院兼自宅で療養していました。直後に、まだ元気だった遠方の母の母、祖母、に電話をし、母の死を伝えました。娘である僕の母が、僕の父や僕に見守られながら亡くなったことが何よりだ、看取って貰って娘は幸せだ、という意味のことを言われた記憶があります。慰められ、救われたたような気持になったことを憶えています。</div><div><br /></div><div>　母が亡くなるまでの1週間ほど、ほぼ付きっきりで看病するという経験をしました。祖母との電話の後、今度は自分の分析の時間に、そこで感じたことを近藤先生に話す事になりました。そのやり取りの中で記憶に残っていることがあります。がんの末期の痛みに対してモルヒネを使い、その眠りから覚めた時、母が、見守っている僕にはほとんど目もくれず、吐いて捨てるように「まだ生きてる」と言った、その言葉にショックを受けた、との僕の発言。先生のレスポンスが、「立派なお母さんだね」というものだったのです。その先生の言葉に違和感を覚えたと言うか、戸惑ったと言うか、ピンとこない感じがしたと言うか、その感覚がはっきり残っています。</div><div><br /></div><div>　今は、先生のあの言葉の意味はこういうことではなかったか、という気がしています。母は看取って貰うことなど望んでいなかった、一人で死んでいくことを良しとしていた、近藤先生は、僕の話から母のその覚悟を察して、立派だと評したのではないか。祖母とはほぼ正反対のことを言っていたのではないか。</div><div><br /></div><div>　父の死は2009年、93歳でした。僕はちょうど60歳です。死の直前、1、2日前、に面会した時の印象が強く残っています。　胃がんの手術後数週間経過していたのですが、その日までは、面会時、僕を認めて嬉しそうな様子を見せるのが常でした。ところがその日は、僕を見た時の態度がそれまでとは明らかに違っていたのです。「おまえなんでここにいるんだ」だったか、正確な文言は忘れてしまいましたが、そんな意味の言葉を発し、その父の佇まいから、拒絶された感じと言おうか、一線を引かれた感じ、近づけない感じを受けました。畏怖の感情を呼びさまされた、との表現も近いと思います。僕の中に「親父は死の直前になって真に孤独を受け入れたんだなあ。死ぬと仏になるっていうのはこういうことなのかもしれないなあ」との感慨が浮かびました。</div><div><br /></div><div>　実は、この文を書き進めるまで、死の直前の母の態度と父の態度がかなり似ていることに気が付いていませんでした。今、「なんだ、そっくりだったんだなあ」と、びっくりしています。ここがまさに言いたいことのポイントなのに、そして明らかに似ているのに、なんでそう認識していなかったかが不思議な気がします。その理由は、母への理解がまだ体感的なものになっていないところにあるのかもしれません。母への感情が十分に整理しきれていないと言っても同じでしょう。当時の近藤先生の言葉を上記のように受け取るようにはなったものの、まだその理解が知的段階に留まっていると考えれば、説明がつきそうです。</div><div><br /></div><div>　まあでも、35年前（1987年）と比べると、僕の死生観にかなりの変化が生じていることは確かです。</div><div><br /></div><div>　昔から、ある種の動物が、死期が近づくと普段の住環境から離れて死に場所を求めてどこかに去っていく、との話が気になっていました。そろそろ自分自身の死が近づき、死を意識することが増えてきた最近になって、その死に方に強く魅力を感じるようになってきました。どこでどのように死ぬかの予測はできません。ですが、一人で誰にも看取られずに逝く可能性は相当低いと思われます。看取ってくれる人は近親者の可能性もありますし、看護師とかヘルパーさんとか専門職の人になるのかもしれません。それを積極的に拒絶しようとは思いませんが、でも、心の中では、動物と同じように、自分の死期を直観し、一人の死を迎えたい。人間にとっても、それが本来の自然な死に方であるような気がして仕方がない。そして母も父も、僕にそのようなメッセージを残して死んでいったのではないか、そう考えるとなんだか腑に落ちる気がするのです。</div><div><br /></div><div>　</div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　<br /><div><div><br /></div><div>　</div></div></div>]]>
        
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    <title> 精神分析は宗教か　その四</title>
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    <published>2021-06-07T01:10:00Z</published>
    <updated>2021-09-27T13:42:44Z</updated>

    <summary>　この題のもとで何か書き残しているものがある感じがしています。　精神分析的な人間...</summary>
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        <![CDATA[　この題のもとで何か書き残しているものがある感じがしています。<div><br /><div><div>　精神分析的な人間理解を地図として自己観察を続け、気づきが積み重なり、変化していくと、その行き着く先には、我々を超えたものによって生かされているとの体験がある。そのような体験の存在を信じ、その体験が自分に訪れ、確信の度が十分なものになるのを願う。と同時に、そのような体験の実現があらゆる人に開かれているとの可能性を信じる。</div><div><br /></div><div>　この信念が僕の日々の臨床の支えになっています。クライエントのいる場所に自分の身を置き、体感的にその人を理解しようとする時、共にその体験に開かれているもの同士だとの信念を必要とする感じがあります。</div></div><div><br /></div><div>　信念と書きましたが、これを信仰と呼びたいという気分があります。そう呼んだ方がスッキリする感じがします。宗教性という表現があるとしたら、この僕の信念（信仰）は、それがまさに色濃く顕れたものである気がして仕方がありません。</div><div><br /></div><div>　ここまで書くと、勢いのついた感じが出てきました。むしろ、先ほどの僕のスッキリする感覚こそが宗教の本質を正しく捉えたものなのではないだろうか？と言いたくなりました。</div><div><br /></div><div>　神や教義を信じるのが信仰の本質ではない。この世の真実を体験できる可能性を信じること、それが信仰の本質だ。その体験が十分なものであることを信仰の深まりとか、宗教的境地の完成と呼ぶ。その体験の深まりを目指して生きていく生活を本当の信仰生活、真に宗教的な生活と呼ぶ。科学が実証的に、知的に、この世の真実を探求するものであるとするなら、宗教は、体験的に、直観的に、この世の真実を探求するものだ。前者は意識性に重きを置き、後者な無意識的なものに重きを置く。</div><div><br /></div><div>　人間にとっての深く根源的なニーズにリンクしているのは間違いのない宗教という言葉。その意味は本来そういうことなのではないのだろうか？もしその理解が間違っていないなら、精神分析よりずっと歴史が古い"宗教"という言葉に敬意を表する意味でも、精神分析は宗教そのものであると言いたい。</div><div>　</div><div>　この題のもとで書き残した感じがあったもののうちの一部は表現した気がします。まだ残っている部分としてはっきり自覚できるのは、我々を超えたものに生かされているとの体験に至る道筋です。自分自身の体験が十分なものになってから書こうとの気持ちがありましたが、それでは書かないままになってしまいそうな気がしてきました。体験が不十分でも、想像を交えて書くことは出来そうです。キーワードは孤独です。が、稿を改めることにします。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div></div>]]>
        
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    <title>不安と完全癖</title>
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    <published>2020-05-19T06:02:00Z</published>
    <updated>2020-05-24T16:23:28Z</updated>

    <summary>　自分のものにしろ、クライエントのものにしろ、不安に注目し続けてきました。「不安...</summary>
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        <![CDATA[　自分のものにしろ、クライエントのものにしろ、不安に注目し続けてきました。「不安と友達になれ」と自分にもクライエントにも言い聞かせてきました。そして、クライエントとの間でクライエントの不安がテーマになり、どうもその不安が僕にはピンとこないなあと感じた場合、そこにはたいていクライエントの主観性（思い込み）が存在している。『不安は裏切らない』では、そのように書きました。<div><br /></div><div>　現在、日本中、いや世界中の少なくない人数の方々が感じているらしい不安。毎日のニュースからそう感じるわけですが、今回のコロナに関するその不安が、僕にはどうもピンとこないのです。このピンとこなさが、直接クライエントと不安について話し合っている時に感じるピンとこなさと似ている気がするのです。</div><div><br /></div><div>　その観点から、思いつくことを書いてみたくなりました。</div><div><br /></div><div>　多くの人々が感じている不安に過剰さがある、思い込みの存在がその過剰さを促している。どのような思い込みか？それは完全主義心性だ、僕が言いたいことはこの一点に尽きる気がします。</div><div><br /></div><div>　完全主義心性が即思い込みだ、と言い切るのは無理があるかもしれません。完全主義心性がどのように思い込みにつながるか、完全主義心性の幻想性と言ってもいいと思いますが、まずはそこに焦点を当ててみます。</div><div><br /></div><div>　以前と同様に、床から本を積み上げるという行動を喩えとして使おうと思います。高く積めるならその方がいい。高さを競う気持ちがあるとする。競ってやっているうちに天井まで届く例が出てきた。今度は、天井に届くことを目標にしようとの気持ちが生じる。そのうち、目標を達成しないと意味がない、そのための努力ならおしまない、という気持ちになってくる。天井に届いていなければ積み上げていないも同然だという気持ちすら生じてくる。ついには、天井に届いているかどうかだけを問題にするようになり、ある程度積みあがっても、全くなっていないと感じる。</div><div><br /></div><div>　完全主義心性の思い込み（主観性、歪み）をある程度説明していると思います。本来はスタートラインから見てどの程度実現したかを評価すべき時に、視点が目標の方に移ることによって生じる歪み。どうしても結果から見てしまう、結果にとらわれてしまう、などの表現も可能でしょう。　</div><div><br /></div><div>　しかしこの例は、完全主義心性の幻想性を十分に説明しきれているとは言えません。今の例では、目標、到達点、ゴールが、目に見えるものでした。完璧であることの喩えとして天井という目に見えるものを使いましたが、現実に存在する完全主義心性では、その目標である完璧さは目に見えるものではありません。はっきりしていないと言うか、具体的な何かではない。完璧であるようなイメージと言うのが近い。また、完璧を目指しているという感覚がほとんどない場合も珍しくない。はっきりとして具体的で目に見えるものではないからこそ、そして無意識的であればあるほど、完璧であるとの思い込みが成立しやすく、幻想の存在やその持続が許される、とも言えると思います。それはともかくとして、意識的無意識的に何か完璧なものを目指している心理であることは間違いないのですが、ここで、そもそも人間の力で、なんであれ、完璧を達成、実現するということが可能なのだろうか？との問題にぶつからざるを得ません。</div><div><br /></div><div>　人間には完璧を実現することは出来ない。それなのに、それが可能であると思い込んでしまう。思い上がりと言ってもいい。完璧主義心性の幻想性の本質はここにあると思うのです。</div><div><br /></div><div>　東日本大震災の時の記憶が蘇ります。特に原発事故に関して、あの事故はこうすれば防げたはずだ、安全のためには最悪の事態を想定するのが常道だが、その想定が足りなかった。津波についても、過去の歴史をさかのぼれば今回の事態の想定は出来たはずだ。そして備えが出来ていたはずだ。そのようなコメントにメディアが占領されていたという印象が残っています。僕はそれを聞きながら、強烈な違和感を感じていました。</div><div><br /></div><div>　ここで僕は、このブログに頻出している"強迫性"の替わりに、"自力性"という言葉を使いたくなりました。吟味はしていませんが、言葉の意味する中身はほぼ同じだという気がします。でもここではこの言葉、自力性、の方がぴったりする。原発事故を防ぐために、津波の被害を逃れるために、ああすればよかった、こうするべきだった。そうしていれば防ぐことができていたはずだ。そう話しているテレビの中の出演者の多くに感じるもの。自力性の権化。万能感。</div><div><br /></div><div>　この世の中に完璧はない。今回の事故や天災被害を参考にして、そこから何かを学び、次に備えよう、完璧に近づける努力をしよう。この態度と完璧があると思い込んでいる態度との違いを問題にしています。あの頃のテレビの出演者たち、原子力や防災の専門家たち、に問いただせば、前者のような答えが返ってくるのかもしれません。意識的にはそうかもしれない。本当にそうなら何の問題もないのですが、僕にはとてもそう感じられなかった。</div><div><br /></div><div>　最近のテレビ報道やその他のニュースを見ていて、全く同じものを感じるのです。マスメディアの住人達、更には政府や自治体の首長たち、感染症が専門だという医者たち、それぞれにそれぞれの自力性を感じます。「ウイルスと戦う」という表現がまさにそのことを象徴していると言いたくなります。それぞれがそれぞれの自力性を垂れ流し、結果として、寄ってたかって国民の完全主義心性を強化している。国民を神経症的なつまりは不健康な心理状態に誘導している。国民全体が呪いにかかっているようなものだと言ってもいい 、僕にはそんな風に感じられます。</div><div><br /></div><div>　呪いの効力が失われるのは呪いの正体を見極めることです。呪いの正体は完全主義心性です。自分の中にいかに完全主義心性が巣食っているか、そこを感じれば感じるほどその幻想性にも目が向き、幻想性の実感が増せば増すほど完全主義の程度が緩む、ピリピリしなくなる。そういう循環が生じると思います。</div><div><br /></div><div>　自分の事を書いてみます。コロナの問題が出始めた当初から、僕の直観は、早く感染して免疫をつけるのが一番いいと言っていました。ほとんど不安を感じなかった。その後の感染状況を冷静に見れば、その直観が間違っていないことが証明されているように思えます。死者数を取れば、危険度はインフルエンザよりかなり低い、交通事故より低いかもしれない。感染して発症する確率もそんなに高くなさそうだし、ましてや重症化する可能性は相当低い。ところが最近、その直観とは相反する反応をする自分に気づかされることが重なりました。スーパーで並んでいた時、後ろの二人連れが盛んに何か話している。距離もそんなにあけていない。「もっと距離をあけて黙っていろ」と言いたい気持ち、怒りの気持ちが湧きました。また、買い物して自宅に帰った時、手を洗うだけでなく、買ったものとか買い物袋、着ていた服とかを除菌処理せずにいられなくなっている自分がいたのです。この二つの例はともに、不安の存在と完全主義心性が巣食っていることの証明です。認めざるを得ない。同時に、ああ呪われているんだなあ、という感慨が生じました。そして、この不安に向き合ってみると、感染して発症して死ぬのが怖いとか、家人や同僚にうつすのを怖れているというのではない。発症してそれがわかると周囲の人に煩わしい思いや不利益を生じさせるのを怖れている。と言うより、その結果自分が批判されることを怖れている。要は他者評価を気にしている。</div><div><br /></div><div>　このように自分の完全主義心性に気づかされ、そこに向き合うことで、改めて自分の傾向を確認したと感じます。保身であり自己中心性です。そうはっきりしてしまえば、力が抜けます。感染防止策をやめることは出来ないにしても、少なくても、他人の努力不足に怒りを感じるのは減りそうな気がします。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div id="UMS_TOOLTIP" style="position: absolute; cursor: pointer; z-index: 2147483647; background: transparent; top: -100000px; left: -100000px;"></div>]]>
        
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    <title>依存支配型　その四</title>
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    <published>2020-02-27T07:32:00Z</published>
    <updated>2025-07-11T06:33:58Z</updated>

    <summary>　依存支配型については、&quot;優等生性&quot;の亜型と位置付けている&quot;奴隷性&quot;について書こ...</summary>
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        <![CDATA[　依存支配型については、"優等生性"の亜型と位置付けている"奴隷性"について書こうと試みたところで止まっています。再度、"奴隷性"についての記述にチャレンジします。<div><br /></div><div>　依存する相手に忠誠を尽くす。相手の言うことを絶対的に正しいものとして逆らわない。自己主張しない。文句も言わない。愚痴もこぼさない。仮に、相手の要求が理不尽なものだとの感じがどこかで微かに生じても、自分はそれに従い耐えるしかないと決まっていて、理不尽さを指摘しようとか反抗するとかの発想自体が浮かばない。何も言われていなくても、自分への期待を察知しようとのアンテナを張り、その期待を実現するべく行動する。相手の期待、基準から外れていないかを常に自分でチェックする。相手の下に自分を位置づけ、従属的な態度を取り続ける。</div><div><br /></div><div>　この人のメインの防衛は奴隷性だなあと感じる方々の立ち居振る舞いは、控えめで大人しい。その雰囲気も加わって、この人は謙虚な方だなあとの第一印象を抱きます。実際に謙虚なところがあると言えないこともない。劣っていてダメな人間だから社会の下層に置かれ虐げられ傷つけられるのが当然だというような自己イメージが存在している。自己評価が低いと言ってもいい。しかし話を聴いているうちに、実は決して本当の意味で謙虚なわけではないことを知ることになります。場合によってはそのギャップの大きさのせいで、全体像を把握するのにめまいが生じるような感覚に襲われます。ギャップがそれほど大きくなくても、謙虚に見えてしまう側面とは別に傲慢さが必ず存在します。</div><div><br /></div><div>　ギャップが大きくてとりあえずは混乱してしまう例を挙げるなら、パッと思いつくのが、聖者とか神と呼ぶにふさわしい理想イメージを内心に抱いている場合です。自己犠牲的で他者を優先する自分を、人々に愛を与える聖者や神とみなしている。そして並の人間とは違う振る舞いができているとの優越感を満足させている。理想イメージが聖者とか神とかと呼べるほどではない場合でも、正しさへのこだわりは必ず存在します。ダメで劣等な人間かもしれないが、でも、正しい行いをしている、という気分があります。そして更に、その点では自分は優れているんだとの気分をひそかに抱いています。</div><div><br /></div><div>　謙虚さと内心での秘かな優越感とのギャップと同時に、このタイプの人には、もう一つのギャップが存在すると言いたくなる感じがあります。それはこの態度が実は自己中心的なものだという事実とのギャップです。自己主張的だったり、見るからに保身的だったりとかの、いわゆる自己中心的な態度とは正反対ともいえる態度だからです。聴いているこちらも、この態度の自己中心性に確信が持てるまでに時間がかかります。言葉を変えれば騙されやすい。本人が自分は実は自己中心的なんだと気づくのにも困難性が高いと言えると思います。呪いが覚めにくい。呪われていること自体に気づきにくい。</div><div><br /></div><div>　僕がこの態度の自己中心性に確信が持てるのは、忠誠を尽くす相手に安全を保証されるのが当然だという気持ちがあることに気づかされる時です。見返りを求めている。自己犠牲が無償のものではない。自己に対し手厳しく犠牲を強いるのと同じ強さで、相手に（母に、家族に、上司や所属する組織全体に、更には国に）安全の保証を要求している。</div><div><br /></div><div>　今、無謬性という言葉が浮かびました。自分も正しいが自分が依存する相手はもっと正しい。自分が所属する組織も正しい。自分の周囲には過ちは存在しない、正しさに包まれている。依存対象の振る舞いの変さをどこかで微かに感じても、取り合わない。ないことにしてしまう。自分が正しいことをしていさえすれば、自分が依存するからには自分よりも正しさの度合いが上であるに決まっている相手は、自分に安全を与えてくれるはずだ。何かの時に守ってくれるのは当然だし、何もなくても常に自分のことを心配し自分の安全に注意を向けてくれているはずだ。そういう幻想の世界に住んでいます。</div><div><br /></div><div>　この幻想の世界に安住していられるのは余程条件揃わないと難しいので、何かのきっかけで破綻を迎えます。一般的には幻想の破綻は内省に向かう大きなチャンスです。しかし、破綻してもなかなか内省に向かいにくいのが、またこのタイプの特徴です。大抵は、自分より正しい存在のはずの依存対象への批判、攻撃に向かいます。正しさをめぐる理想イメージ自体を客観視する方に向かいにくい。内省というのは自分自身を批判的に眺めることだとも言えると思います。正しいはずの自分の正しくないところは見たくない、という気分なのかもしれません。</div><div><br /></div><div>　僕の仮説を使うと、防衛はすべて潜在的孤独感を潜在したままにしておくためのものです。雑駁な言い方だと、実は傷ついているのに傷ついたと感じないようにするためのものだと言い換えることが可能です。だから、どのタイプの人にとっても、「自分は昔、母親との間で結構傷ついていたんだなあ」との実感は、防衛全体がある程度見えてくるまでは、なかなか生じない。この生じにくさが、このタイプの人では特に著しいと僕は感じています。このこともまた内省に向かいにくさに大いにつながっていると感じます。潜在する傷つき感が顕在に向かうことは自己肯定感の増加を促し、それはむやみに正しさにこだわらなくてもいいやという気分を生じさせます、余裕が生まれるとも言えるでしょう。</div><div><br /></div><div>　ここから先はspeculationです。「自分は昔、母親との間で結構傷ついていたんだなあ」という実感の生じにくさ。これは、傷つきを感じないようにする元々のやり方が、虐げられ傷つけられるのが当然だとすること(奴隷性）によって達成されているからに違いない、そう思うのです。仮想の世界で傷ついているから実際に傷ついていることには逆に気が付きにくくなる、可哀そうな自分というイメージが邪魔をして実際に可哀そうであることがピンと来なくなる、そんなことが起きているのではないでしょうか？</div><div><br /></div><div>　もう一つここで述べておきたいことを思いつきました。利用されることへの過敏さです。多くの人間関係は無償の友情や愛情で成り立っているわけではありりません。お互いの打算で成り立っている場合、ギブアンドテイクが釣り合って成立している場合、利害関係が一致している場合、いずれにしても、お互いにある程度は利用しあっているのが現実の人間関係だと思います。その現実を、大袈裟に被害的に、一方的に自分が利用されていると受け取る傾向があります。これも、自分の依存の在り方が利用と呼ぶのにまさにふさわしいものであること（最も手に入れたいものを獲得するために奴隷という役割を演じている）、そしてそのことに気づくのが難しいこと、と関係しているに違いありません。自分は目的があって尽くしているのに相手には無償で無尽なものを求めている。そしてそこに気づいていない。実は自分が相手を利用しようとしているんだという現実に気が付けば、今度は逆に、相手がいつもいつも自分を利用しようとしているわけではないことに気づくことになる、そういう関係にあると考えます。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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    <title>囲碁とAIそして精神分析</title>
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    <published>2020-02-20T02:35:00Z</published>
    <updated>2020-02-20T12:23:32Z</updated>

    <summary>　僕には趣味がほとんどありません。ひと頃は毎週山歩きをしていましたが、この頃は山...</summary>
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        <![CDATA[　僕には趣味がほとんどありません。ひと頃は毎週山歩きをしていましたが、この頃は山に行きたい気持ちがそれほど起きなくなりました。現在唯一趣味と言えそうなのは囲碁です。それも自分で対戦するよりプロの碁の観戦が主です。ネット中継を、解説者や高段会員が出してくれる参考図を見ながら、また、自分でも検討図を作ったりしながら観戦するのが楽しみです。プロの打つ一手ごとにAIが評価値を出すのも面白い。<div><br /></div><div>　AIと言えば、数年前、ついにAIのアルファ碁が世界ナンバーワン棋士を破りました。現在、AIは、トッププロが2子を置いても勝てないぐらいに強くなっています。２０年ぐらい前は、ネット碁のランキングで級位者の僕でも、コンピューターソフトにゆうゆう勝てていましたから、その進歩は驚くべきものだと感じます。</div><div><br /></div><div>　このブログのどこかに書いた記憶があるのですが、僕は、自分の精神分析家としての成長と囲碁が上達するプロセスとを比べて、そこに共通点があると感じています。囲碁の手筋や急所が見えてくる感じとクライエントの防衛や思い込みが見えてくる感じが似ていると感じたからです。ここまで書いたら、囲碁で級位者だとすると分析家としてもその程度か、そう思われたらかなわんなあ、との警戒心が生まれました。僕の勝手な想像ではありますが、その想像上のツッコミに対して、上達する時の共通点と、どの程度上達しているかは別の話だ、と反論しておきたいと思います。</div><div><br /></div><div>　腕が上がってくるプロセスで共通する、今まで見えなかったものが見えてくる感じ、感じなかったことを感じられるようになる感じ。要は、感じる力の増大です。これと、AIのディープラーニングとを比較するとどうなんだろう？ディープラーニングは人間の神経細胞(ニューロン)の仕組みを模したニューラルネットワークがモデルになっているのだそうです。感じるということに神経細胞が関与しているのは疑いない。だとすると似たようなものだと言えるのだろうか？人間が感じる力を育てていくこととAIのディープラーニングは同じようなものなのだろうか？</div><div><br /></div><div>　コンピューターや脳科学についての知識が不十分だというのがその一つの理由ですが、説得力を持った丁寧な言い方は出来ません。が、この問いへの答えは「そんなの違うに決まっている」です。感じる力を育てることとディープラーニングとは、どこか本質的なところで全く違う成長の仕方だと僕の直観が言います。AIが色々なところで人間を追い抜くのは時間の問題だと思います。でも、AIがどうしても及ばない(タッチできない)領域があるのもまた間違いないと感じます。その領域の代表として真っ先に思い浮かぶもの、感じる力を育てること、そして育った先にあるもの。</div><div><br /></div><div>　AIが囲碁のトップ棋士を負かしたのはつい数年前だと書きましたが、将棋ではもっと前からAIの方が人間より強くなっています。将棋界での最近の話題は現在高校生の藤井聡太7段の大活躍だと思います。囲碁界では昨年、19歳の芝野虎丸名人が誕生しました。二人ともAI世代の申し子と呼ばれることがあるようです。AI世代の申し子と呼ばれながら、二人とも、他の棋士達よりあまりAIを使った勉強法を取り入れていないという情報もあります。その情報の真偽はともかくとして、僕が注目しているのは、二人に共通するものがある感じがするところです。</div><div><br /></div><div>　ただ好きでやっているという感じ。気負いが少ない感じ。そして謙虚さがある感じ。この感じが際立っているように感じるのです。この感じは、二人の偉大な先輩達、国民栄誉賞組の、将棋の羽生さんや囲碁の井山さんにも感じます。でもこの若い二人には、先輩たちに負けないぐらいそういう側面がある。僕にはそう感じられてなりません。そして、そこが、感じる力を育ててその行き着く先に抱く僕のイメージと重なるのです。</div><div><br /></div><div>　精神分析は人間としての成長を目指すためにあるものだ、というのが僕の基本的な立場です。成熟した人間とは感じる力が十分に育った人間だと言い換えることができると考えています。何回も同じ事ばかり繰り返し述べていますが、それは、我々を超えたものに生かされているという深い実感に至ることです。そういう人間がいたとして、そういう人に出会ったら、無心に物事に取り組んでいて、自然で、そしてちっとも偉ぶらないなあ、というような印象を持ちそうな気がするのです。僕が近藤先生に抱いた感じを述べているといってもいいです。</div><div><br /></div><div>　先ほどの若い二人は、年齢の割にとても成熟度の高い人間だということにならないでしょうか。多くの場合は年を取るにつれてようやく目が向いていくような、人間にとって基本的に大事なもの、宗教性、の顕現度の高い人間だと言えるのではないか、僕にはそう感じられます。そしてそういう人間が、AIがすでに人間を追い越している分野で、AIの申し子と言われながら頭角を現している。そこに何か皮肉な感じを感じると同時に、時代の面白さとでも言いたくなるものが出ている感じがするのです。我田引水かもしれませんが、僕の感じる面白さをもっとはっきり言うことにします。AIが進歩していくのは間違いないこれから先、精神分析（感じる力を育てるための援助法、真の宗教性の顕現を助けるもの）へのニーズが高まる時代が到来する。そんな予感がするのです。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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    <title>不安は裏切らない</title>
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    <published>2020-02-13T07:20:20Z</published>
    <updated>2020-02-13T07:20:36Z</updated>

    <summary>　『不安即安心』で、不安に耐えている人に出会うと思わず頭が下がる感じがするとか、...</summary>
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        <![CDATA[　『不安即安心』で、不安に耐えている人に出会うと思わず頭が下がる感じがするとか、自分の不安を感じた時に不安は裏切らないという感覚に襲われる、などと書きました。これらの感じを、もう少し詳しく表現してみようと思います。<div><br /></div><div>　感じることと考えることを比較した場合、感じることの方に重きを置く。感じることを考えることより優先する。考えることは感じることがベースにあっての上でなら意味があるが、そうでないと空疎なものになる危険が大きい。まず先に感じがあるのが大切だ。この事には疑いがありません。感じることしか信用しない、と言ってしまった方が僕の気分には合う。考えることは知性により結びついている感じがします。知的なものへの劣等感がそう信じる要因になっているのではないかとのツッコミが浮かびますが、劣等感があるとしても、それとこれとは別だと言いたい。それこそ考えではなく、心の底からそう信じています。</div><div><br /></div><div>　感情と思考とを対比的に捉える捉え方は割と一般的だと思います。僕が言う"感じ"は、しかし、感情と全く同じものではないかもしれません。悲しみ、怒り、喜び、驚きなどの感情。それらとはちょっと別の"感じ"、でも思考ではない。思考と感情の対比からしたらずっと感情に近い。大雑把に言っちゃえば感情に入れてもいいという感じの"感じ"が沢山あると思います。</div><div><br /></div><div>　さて不安です。不安を感じると、あるいは感じていなくても、まずは、不安が減るようにあるいはなくなるように、なんとかしようとするのが普通だと思います。それが成功する場合は少なくない。しかし、すぐにはなんともできない、ただ不安を抱えているしか他にどうしようもない、そういう類の不安が存在するのも確かです。</div><div><br /></div><div>　ぱっと思いつくのは、大事な人が手術を受けているのを手術室の外で待っているというシーン。自分は何もできない。ただ待っているしかない。祈るしかない。映画やテレビでそういうシーンに出くわした時、登場人物のその姿に、なんだか頭が下がる感じ。</div><div><br /></div><div>　「祈るしかない」がキーワードかもしれません。祈るしかないという気持ちでいそうな人を見ると頭が下がる感じに襲われる。なんだか話が合っている気がします。</div><div><br /></div><div>　面接場面で不安をめぐる話し合いになることは珍しくありません。まずは、どういう不安なのかをその人の立場に立ってわかろうとします。すぐピンときて「それはよくわかるよ」と言える時もあります。しかし、そうでない場合の方が圧倒的に多い。すぐにはわからないなあと感じる場合、まず例外なくその不安にはその人の主観性(思い込み）が入っています。その主観性(思い込み)がどのようなものかパッと見当が付き、これこれこういう思い込みがあるから不安になっているんだ(不安が耐えられないものだと感じられるんだ）とクライエントに納得できるような形で示せる場合もたまにはあります。でもたいていの場合は、不安について話し合い、一緒に耐えて、不安のメッセージを探し、その人の主観性を発見し、ああこういう思い込みがあったからこんなに強い不安になっていたんだと気が付いていく、気づきが重なるに伴って徐々に不安が減っていく、そういうプロセスをたどります。</div><div><br /></div><div>　不安が存在するのは明らかなのにそれに気が付いていない人。不安の存在は感じていてもそこに主観性があるとの感覚からは遠い人。ひたすら回避しようとする人。不安を解決する道を目指して努力する人。いろいろなケースが思い浮かびます。さっきのプロセスはなかなか順調には進行しない。</div><div><br /></div><div>　そんな中で、不安を引き受けた上でそのメッセージを受け取ろうとの態度を取るのが難しくない人がいます。また、途中からスッとそういう態度がとれるようになる人もいる。そういう態度に出会った時、尊敬する気持ちが湧きます、思わず頭が下がります。</div><div><br /></div><div>　頭が下がる感じからの連想です。自宅から、雪をかぶった吾妻連峰と安達太良山脈が奇麗に見えます。神々しい感じ、頭が下がる感じが生じる瞬間があります。でも、山を見た時に生じるこの感じは、単独峰を見た時の方が強い気がします。富士山ももちろんそうですが、津軽の岩木山を見た時に、強くそういう感じに襲われた記憶が残っています。ぽつんと一人でじっと耐えている。不安にじっと耐えている態度に出会った時の頭が下がる感じは、孤独に耐えている人へのものに通じていそうです。</div><div><br /></div><div>　ここから先は自分の不安についてです。最近の、不安が一番信用できるという感じ、不安は裏切らないという感じ。これは、冒頭に書いた、感じることしか信用しない、という気持ちとつながっています。感情はそもそも不安定なものです。怒りも、悲しみも、驚きも、喜びも、たいていの感情は長続きしない。長続きしないのが感情の法則だとさえ言える。不安も感情の一つだとしていいなら、不安という感情だけは例外です。隠れることはあっても、必ずまたすぐ顕れる。ずーっと自分と一緒にいるという感じがする。</div><div><br /></div><div>　幸せを実感することが僕の人生の目標だとこのブログの『精神分析は宗教かその２』に書きました。今現在でも、幸せや、安心を、感じることがないとは言いません。しかしその強度、安定性は、不安の実感からするとはるかに劣ります。そして、この常にあると言っていい不安の実感の先に、より確かな幸せや安心の実感がありそうな予感がします。祈る気持ちが生じます。</div><div><br /></div><div>　大雑把には感情に入れてもいいと述べた、狭い意味での感情とは一応分けた方がいいかもしれない"感じ"。クライエントを理解しようとする時、そういう自分の"感じ"をベースにしようと心がけています。クライエントに直接感じる"感じ"、やり取りの間に自分の中に浮かんでくる"感じ"、それらの色々な"感じ"を感じ、手掛かりにしながら、その人の一点を探ろうとします、あるいはその人の全体像が見える方向を目指します。そもそもそれらの一つ一つの"感じ"がそんなにはっきりしたものではないことも多い。そして当たっているかどうかに自信が持てない、心細い。そういう不安を常に感じながら、先ほどの方向を目指す。目指してもそれがなかなか「これだ」というものにはなってこない。曖昧でぼんやりした感じが続きます。その状態もまた不安と呼んでよさそうです。そしてそのような不安に耐えているうちにだんだんと、時にはスッと、ハッキリしたもの（"感じ"）があらわれてくる。</div><div><br /></div><div>　ここまで書いて、わかるためにはわからないという感じに注目し手掛かりにしていくしかない、と以前に書いたことと同じことを言っているなあと気が付きました。でも以前そう書いた時は、不安は裏切らないという風には感じていなかった。結論は同じでも、表現の仕方の違いに意味があると思うことにします。</div><div><div>　</div></div><div id="UMS_TOOLTIP" style="position: absolute; cursor: pointer; z-index: 2147483647; background: transparent; top: -100000px; left: -100000px;"></div>]]>
        
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    <title>不安即安心</title>
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    <published>2020-02-06T06:27:36Z</published>
    <updated>2020-02-14T04:33:17Z</updated>

    <summary>　ブログの事は、いつも何処かで気になっています。久しくご無沙汰しているので、サボ...</summary>
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        <![CDATA[<div>　ブログの事は、いつも何処かで気になっています。久しくご無沙汰しているので、サボっている感があります。でも、今度書くならこのタイトルでと、タイトルだけはだいぶ前から決めていました。</div><div><br /></div><div>　煩悩即菩提という言葉があります。近藤先生の発言としても記憶に残っています。一般的に受け入れられている表現のようです。一般的にと言うと間違いかもしれません。仏教に関心のある人たちの間で、と言い直した方がいいかもしれません。随分前から、僕は、この表現が気になって無視できない感じを抱いていました。なんだか大事そう、真理を衝いていそう、だけどいまいち身体感覚的にピンとこない、といった感じでした。</div><div><br /></div><div>　10年ほど前のことだったと記憶しています。後輩二人との酒の席での会話でした。煩悩即菩提とは、煩悩をそれとして認識出来ることが菩提につながるという意味だ。そう僕が言い、それを聞いてなるほどと思った。二人のうちのどちらかがそう言い、もう一人も、確かに以前僕からそう聞いた、と言うのです。その時の「えっ俺そんな事を言ったの」と驚いた記憶が鮮明に残っています。いつそんなことを言ったのか記憶になかったし、更に、「あれ、今俺は本当にそう思ってるのかなあ」との疑いも浮かんできました。</div><div><br /></div><div>　その二人が嘘を言うとは思えないので、自分の中で熟していない時に、思いつきで、悪く言えば口から出まかせ気分で言った、というところだったのでしょう。こういうことって珍しくありません。</div><div><br /></div><div>　この出来事があった後も、煩悩即菩提という言葉は、僕の中で気になる存在であり続けていました。そして本当に少しづつ、徐々に、やっぱりあの理解でよかったんじゃないだろうかとの感じが増してきました。煩悩即菩提という言葉へのしっくりしない感じ、身体感覚的にわかった感じになれなさ、も減ってきました。そして今度は、不安即安心という言葉が頭に浮かんできてちらつくようになってきたのです。</div><div><br /></div><div>　煩悩というのは仏教用語です。定義を言い出すと色々と面倒くさいので、僕は、煩悩を、自己中心性と同じものだと捉えておこうと思います。自己中心性と呼べるものの総体を煩悩と呼ぶ、ということにしようと思います。</div><div><br /></div><div>　自分の中にある煩悩を煩悩として認識できるとしたら、それは自分の中に煩悩以外のものがあることを意味している。</div><div><br /></div><div>　僕が何かを言う時、感じたことを言っているのか頭で考えたことを言っているのかをチェックしようとする癖があります。今の文は感じたことからのものだとはとても言い切れません。頭で考えたことを言っています。でも、どう考えても間違っていないよな、という気がするのです。</div><div><br /></div><div>　自分の中に煩悩だけしかなかったら煩悩を客観視できるわけがない。煩悩を煩悩として感じるということは自分の中に煩悩以外のものが存在していることを示している。そして煩悩の見え方が増しその全体像がつかめる方向に進むということは、煩悩以外の所に立つ足場がしっかりしたものになってきたことを意味するはずだ。煩悩以外のところとは何だろう？どう名付ければいいのか？それを何と呼ぶにしろ、そこに足を置くことと菩提を得ることが無関係だとは思えない。無関係でないどころか、そこにしっかりと足を置き根を降ろすことイコール菩提を得ることなのではないだろうか。</div><div><br /></div><div>　これと同じことが不安についても言えると思うのです。僕にとっては、煩悩という言葉より不安という言葉の方に馴染みがある。自分の不安とも長く付き合ってきたし、日々の診療の中で、クライエントの不安に注目し、「不安と友達になれ」と言い続けてきました。</div><div><br /></div><div>　「不安と友達になる」、それは不安を否定しないこと、良くないものだと捉えないこと、すぐ無くそう減らそうともがかないこと、そして不安のメッセージは何だろうと自分に聴こうとすること。それは安心の存在なしには不可能だ。それができることは自分の中に安心がすでに存在していることを意味している。自分の中にある不安を不安として認識しそれを十分に実感し引き受けることそれはイコール安心だ。不安即安心。</div><div><br /></div><div>　こう言うほうが、煩悩即菩提と言うよりも頭で考えて言っている感じが薄れます。しかし体験からのみ言っているわけではないのもまた確かです。体験のレベルのみで言えば、以前から気になって注目している感覚があります。この人は不安にじっと耐えているんだなあと感じた時、僕の中に必ず湧いてくる感覚です。言葉になりにくいのですが、あえて頑張って出してみると、思わず頭が下がる感じ、祈りが生じる感じ、が近いです。さらに最近、こんな感じが湧いてくる瞬間を経験するようになりました。自分の不安を自覚した時に、ああこれが一番確かなものだ、これだけは裏切らない、とでもいうような強い感覚に襲われるのです。そして呼吸法をやりたくなります。体の中にある不安と向き合いたくなります。</div><div><br /></div><div>　大安心（だいあんじん）を感じる(体験する）ところにはまだ距離がありそうです。が、そこに行くには不安を通るしかない。これはどう考えても間違っていなさそうです。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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    <title>強迫性と自発性　その四</title>
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    <published>2019-06-12T04:05:00Z</published>
    <updated>2020-02-14T04:12:06Z</updated>

    <summary>　このタイトルでブログを書こうと思うきっかけになった経験は、酒を飲むという行為に...</summary>
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        <![CDATA[　このタイトルでブログを書こうと思うきっかけになった経験は、酒を飲むという行為に関するものです。<div><br /></div><div>　結論から先に言ってしまうと、酒を飲むという行為に強迫性が入っているのを発見したと同時に飲酒量が激減した、です。</div><div><br /></div><div>　昨年の暮れのクリニックの忘年会でこの話をしたら「年を取って飲めなくなっただけではないか」と茶化す人がいました。確かに老いと関係しているには違いないと思います。茶化した人の意図は、飲酒量の減少が強迫性の発見とは無関係に単に身体的な老化現象の表れではないかというもので、老いを否定的にとらえる気分が入っていると想像します。僕は新たに、この経験から、老いを肯定的にとらえる視点を提供してみたいとも考えています。</div><div><br /></div><div>　このブログの『生きているのが辛い』で、酒の醒め際に不整脈が出ることにきづいた、と書いています。そして、専門家に相談してその不整脈は気にしなくてもいいと言われたのに気になってしまう、止まるんじゃないかとの想像が走って心臓を見張ろうとしてしまう、と続け、それは自分の力で何とか生き延びようとする気持ちのあらわれではないか、委ねられなさと言ってもいい、無意識のうちに常に働いている心理ではないか、実は生きる辛さの元はここにあるのではないか、との仮説を述べています。その仮説は、自分の中で徐々に確信へと変化し、『不安　その五』では、自分の力で何とか生き延びようと必死になることが自己中心性の元だ、と書いています。そしてここで、強迫性の元もここにある、と付け加えようと思います。</div><div><br /></div><div>　早く行動しなければならないという僕のメインの強迫性が、母との付き合いにその根があるのは、『強迫性と自発性　その三』で述べたように、僕にとっては確信です。生き延びるために必要なものだったに違いありません。</div><div><br /></div><div>　さて、不整脈の話に戻ります。不整脈が原因となって心臓が止まるかもしれないとの不安に駆られ、心臓の動きを見張ってそれを何とか食い止めようとする心理（まさに強迫性）を発見したのと同時に、酒の醒め際に起きるんだから、不整脈を酒の飲み方への警告だと捉えようとの考えも浮かびました。意識的に酒量を減らそうと試み、まずは週2回を禁酒日にしました。</div><div><br /></div><div>　ここまで書いて、気づいたことがあります。これって、書くという行為にある強迫性を発見した経緯と似ているなあ、というものです。意識的に丁寧に書こうと試みたことがそれを妨げる強迫性に気づく契機になった。意識的に酒を減らそうと試みたことがそれを妨げる強迫性に気づく契機になった。そして強迫性に気づくと、丁寧に書くのが楽になる。酒を減らすのが楽になる。僕は今まで、強迫性に気付けば自然に自発性が増すと言い過ぎていたかもしれません。片手落ちだったかもしれない。強迫性に気づくためにも、意識してそこから抜け出す方向を模索するのが大事なのかもしれません。</div><div><br /></div><div>　さて、また酒の話に戻ります。週2回を禁酒日にすること自体はそれほど苦痛ではありませんでした。でも、飲んでもいい日になると、毎日飲んでいた時より酒量が増える傾向が出てきた。そして、やっぱり、翌朝、醒め際に不整脈が起きる。その頻度が増した感じもありました。そこで、どのぐらいの量を飲むと不整脈が起きやすくなるのか、酒量と不整脈の関係を観察研究してみようという気になりました。</div><div><br /></div><div>　そんな気持ちで過ごしていたある日、ある感覚がふと出てきました。表現すれば以下のような感じです。酒を飲もうとする衝動には何か無理がある。頭からのものだ、身体からのものじゃない。飲まなきゃいけないと思って飲んでいる。</div><div><br /></div><div>　この感覚の出現は僕には結構な驚きでした。酒が好きだから飲んでいる。酒自体の味もおいしいと感じるし、いい気分になって時間がゆっくり過ぎていく心地よさを味わえる。酒に強いから量がついついつい多くなるだけだ。酒の上で問題を起こすこともまずないし、自分の酒はいい酒だ。大体そんな風に思っていたのです。それが、好きには違いないが、それだけじゃないものが混ざっている。無理に頑張っているところがあるのは間違いない。飲むペースが速いのは、「早く行動しなければならない」につながっている。頑張る感じは歯磨きの時の力む感じに通じる。</div><div><br /></div><div>　そう感じたことと相前後して、ちょっと飲むとすぐ酔いを感じるようになりました。飲む時はビールから始めるのが習慣です。ビールはほんの前座、本格的に飲むための勢い付けのように位置付けていました。ビールなんて酒じゃないという感覚だった。それがビールを二口三口飲んだだけで、胸がドキドキして頭部がポーっとしてくる。あれっこんなに酒が弱かったんだっけ。これも驚きでした。今でも、そこを越して飲み続ければ、最初の酔いの感じがなくなって、結構な量を飲める。それも確かめてみました。でも、敢えてそうしようとは思わない。結果として、現在、350㏄のビール1缶と冷酒ぐい飲み1杯が定量。2年前までと比べるとまさに激減です。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;若いうちは無理が効く。一つの行動に混ざっている強迫性の程度が強くても、その不自然さを体力が補ってくれる。不自然だと感じにくい。麻痺させやすい。歳をとるにつれて体力が衰えると、それが通用しにくくなる。それはしかし、不自然なものを不自然だと感じるチャンスを与えられたことでもある。強迫性に気付きやすくなり、結果としてより自然な方向への変化が起きやすくなる。自発性の占める割合が増すことになる。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;これが老いを肯定的に捉える視点です。</div><div><br /></div>]]>
        
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    <title>強迫性と自発性　その三</title>
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    <published>2019-06-12T04:04:00Z</published>
    <updated>2019-06-12T04:04:34Z</updated>

    <summary>　次は書くという動作についてです。　僕は字を書く時に手が震えます。落ち着いて一人...</summary>
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        <![CDATA[　次は書くという動作についてです。<div><br /></div><div>　僕は字を書く時に手が震えます。落ち着いて一人でいる時でも字を書こうとすると震えますが、緊張したり、人に見られていたりすると震えがひどくなります。冠婚葬祭とか何かのパーティーとか、割とフォーマルな雰囲気の場所で、向こうに受付の人が何人か立っている前で署名しなければならない時が最も苦手です。妻が一緒に出席する時は、妻に書いてもらうのが常でした。</div><div><br /></div><div>　字を書く時にも僕の強迫性、「早く行動しなけらばならない」、が働いているに違いありません。働いていて、それを感じる機会が増えています。ここまでの文脈からすると、それを直接感じる度合いが増し、その結果強迫性が和らいでゆっくり書くようになった、ということだと都合がいい。しかし現実はそれとはちょっとだけ違います。書くことに関しては、大分以前から、意識してゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせている場面がありました。そうしないと、手が飛び跳ねるように動いてしまい、全く書けなくなってしまう。呼吸法の経験を生かして、ゆっくり息を吐きつつ下腹部を意識しながら書く。そうすることで、人前で署名する場に一人で出席する非常事態を何とかしのいできました。</div><div><br /></div><div>　若いころから字が下手でした。一つ一つのの字のバランスも、文を書いた時の全体のバランスも、どこか変、何より丁寧さがない。悪筆の典型と言っていいと思います。きれいな字を書く人を羨ましいと思ったことはずいぶんありましたが、字がうまくなるように練習してみよう努力してみようと思ったことは記憶にある限りない。相当昔からあきらめていました。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;カルテの記載は、話を聞きながら速記的に書くのが習慣でした。読めないとはよく言われましたが、内心で、震えるんだから仕方がない、自分では読めるからいいじゃないか、と開き直っていました。年をとるごとに、自分でも読めなくなってきていましたが、キーボードに打ち込むことができるようになって、あまり深刻なものではなくなっていました。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;多くの日常的な場面では、綺麗に書こうとの気持ちは捨てて悪筆を堂々と晒し、どうしてもある程度はちゃんと書かなければならない場面では、少し真剣モードになる。何れにしても、その場をしのいでいただけ、とまとめることができると思います。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;いつの頃からかはちゃんと記憶していませんが、『その二』に書いた、いわきの病院での体験の頃からだったような気もします。非常事態を凌ぐ為の方法を、日常場面でも用いるようになってきました。その頻度が少しづつ増してきていた。字を丁寧に書こうとの意図の元、吐く息とともに丹田の辺りを意識しながら書く。そうすると、早くチャチャチャっと書いてしまおうとする衝動が自分の中にあり、それに引っ張られそうになるのを感じる。引っ張られてしまうことも少なくない。たまに、それが減ってゆっくり落ち着いて書ける時がある。そういう時は字の震えも少ない気がする。そしてある一瞬、早く書こうとする動きと同時に、堪えている感じ、ぐっと歯を噛みしめるような感じの力が働いていると感じることがありました。「ああ、早く行動しようっていうのは一種の力みなんだなあ」とちょっとした発見をした気分になりました。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp;この力みは、歯磨きにも出ているんだと知らされる場面がありました。歯磨きをしている自分が、鏡の中で、顔をしかめて苦痛に耐えているかのような表情をしているのに気づいたのです。その時、ああこれだ、ここに力みがでている、と感じたと同時に、「お袋にやらされている」との感じが湧き上がりました。この感じも、いわきの病院の時と同じように、昔の具体的な場面を思い出しているわけではない。でも、昔こうだったこと、母の圧力を感じながら嫌なものを無理やりこなそうとしていたこと、を確信できる感じ。</div><div><br /></div><div>　頂き物のお礼状も妻に書いてもらっていました。去年か一昨年か、ふと、自分で書いてみようという気になり、参考書を見ながら実行しました。この年になっての初体験です。それができたこと自体、自分でも悪くない気分でした。相手の方から字を誉められたのは驚きでした。望外の喜びでした。</div><div><br /></div><div>　最近友人が立て続けに入院し、お見舞いに行く機会がありました。二つの病院の面会受付で名前を書かされました。その時、あれっという感じがありました。『性格を変えられるか？』に書いた、髭剃りの感じと似ています。なんだか今までと違う、すんなり書けるなあ、という感じ。これも嬉しい出来事でした。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div>　</div><div>　</div><div>&nbsp; &nbsp;</div><div><br /></div><div>&nbsp;</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>&nbsp;</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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    <title>強迫性と自発性　その二</title>
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    <published>2019-06-12T04:02:00Z</published>
    <updated>2019-06-12T05:49:02Z</updated>

    <summary>　『性格を変えられるか？』以降の強迫性をめぐる体験を書こうとしてますが、これを言...</summary>
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        <![CDATA[　『性格を変えられるか？』以降の強迫性をめぐる体験を書こうとしてますが、これを言っておかないといけないということがあるのに気付きました。それは、今から書こうとしている強迫性は主に人間関係以外のところに出ているものだ、ということです。人間関係の場面での僕の強迫性は、このブログにこれまで何回も書いている"こび"です。今回はそこにはほとんど触れません。<div><br /></div><div>　『性格を変えらるか？』を書いた頃、以前勤めていた福島県いわき市にある病院を、震災後の応援のつもりでほぼ20年ぶりに訪れ、その後もしばらく1、2週間に一度の頻度で通っていました。病院の建物は何年か前に新築され、震災でも、ハード面の被害はほとんどなかった、とのことでした。放射能被害を怖れて退職する常勤医が続き、医師不足が深刻となっているとのことで、数合わせのためにいくらか役に立つかもしれないという思いでした。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp; 何回目の訪問の時だったか、僕にとっては目新しい更衣室で、入院患者との面接のために白衣に着替えている時のことでした。急いで着替えを済ませて慌てて更衣室から出ていこうとしている自分に気が付いたのです。更衣室にいるのは僕だけ、誰にも気を使う必要はありません。時間は午前10時ごろ、その更衣室を使っているドクター達はもう着替えを済ませていて仕事中、外の廊下には人の気配がなく、誰かが入ってくる可能性はほぼない。仮に誰かが入ってきたところでゆっくり着替えていてなんの問題もないのはわかっている。僕に急ぎの仕事があるわけでもない。つまり、全く慌てる理由がないのです。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp; 全くその必要がないのに、慌てて着替えてすぐに更衣室の外に出ようとしている。落ち着かない。病院の職員か誰かが入ってきそうな気がする。その前にそこから出ていかなきゃいけないような気になっている。</div><div><br /></div><div>&nbsp; &nbsp; &nbsp;そういう自分を意識した時、誰かというのはおふくろだ、昔からおふくろの目を意識してこんな風な気持ちになっていたなあ、というような感じが生じました。具体的な過去のエピソードを憶えているわけではない。でも今のこの感じは過去の母親との間の再現であることは疑いようがない。そういう強い感覚です。侵入され見られて何か言われる前にチャチャっと済ませおかなきゃいけない。済ませて整ったところを見せなきゃいけない。</div><div><br /></div><div>　そしてまた同時に、以前から気が付いていた自分の強迫性「早く行動しなければならない」の元がこれだ、という感覚も生じました。</div><div><br /></div><div>　同じ頃、やはりその病院でのことでした。清潔で居心地のいいトイレで大便をした後、更衣室でと同じように、慌てて身支度を済ませてトイレの外に出ようとしている自分に気が付いたのです。これも全く急ぐ理由がない。なのに、何かに追い立てられるようにそうしてしまう。</div><div><br /></div><div>　この出来事が僕にとっては大きいものでした。</div><div><br /></div><div>　普段とは別の環境だったこと、しかも昔しばらくいた場所を久しぶりに訪れていたこと、更衣室とトイレが医師専用スペースのような位置にあり人の気配が少ないところだったこと、それらの条件が重なったことが、この気付き体験のために必要だったのではないかと考えます。普段と違う環境だからその現象が起きているわけではない。いつでも同じ強迫性が働いているが、そのような条件が整ったことでそれに気づくことができた。</div><div><br /></div><div>　その後、普段の日常生活の中でも同じ強迫性に気が付く機会が増えてきました。</div><div><br /></div><div>　小便をした後、多くの男性が、ペニスを何回か振る動作をすることには以前から気が付いていました。残尿がないように、後から漏れることのないように、という意図からのものだと察しもついていました。自分はそれをしないことを分析の場で報告し、近藤先生から「そこには何かありそうだね」と言われた記憶が今でも残っています。解明されないままになっていました。ここにも同じものが出ている。</div><div><br /></div><div>　入浴後身体を拭いて着替えを手にもって自室に戻ろうとしている。その時、足ふきマットを片づけていないことに気づいた。頭では、今手に取っている着替えを一旦置いて、マットを仕舞えばいいのはわかっている。でもそうは身体が動かない。着替えを持って自室に戻ろうとする勢いが強い、その動きを止められない。その強い力が自分の中に働いているのを感じた時、ああこれだ、いつものやつだ、と思い当たりました。今の動作をさっさと済ませて早く早くと先を急ぐ、そしてその動作を始めたら終了までそれもまた早く済まそうとする。</div><div><br /></div><div>　飲みかけのカップとか、読みかけの本とか、車のカギとか、そういうものを右手に持ったまま何かの動作をする。邪魔だし、その作業が雑になってしまう。右手に持っているものをそばに置いて両手をフリーにしてからにすればいいのにそのままやってしまう。そういうことがしょっちゅうあることも、かねてから気にはなっていました。何かありそうだ、とも感じていました。マットの件の後、すべての現象に同じ力が働いている、早く早くという強迫性がこれらの現象を引き起こしているんだと腑に落ちる感じがしました。</div><div><br /></div><div>　これらに気づいた後、すべての例で、強迫性が緩んでいるのは間違いないと思います。具体例を一つあげるなら、足ふきマットはほぼ毎回片づけられるようになりました。</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div>&nbsp;</div><div>&nbsp; &nbsp;&nbsp;</div><div><div><br /></div><div>　<br /><div><br /></div><div>　<br /><div><br /></div><div>　</div></div></div></div>]]>
        
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    <title>強迫性と自発性　その一</title>
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    <published>2019-06-12T03:46:00Z</published>
    <updated>2019-06-12T03:48:27Z</updated>

    <summary>　精神分析は宗教か？のお題は、少し置いておくことにします。必ず書き続けます。　強...</summary>
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        <![CDATA[　精神分析は宗教か？のお題は、少し置いておくことにします。必ず書き続けます。<div><br /></div><div>　強迫性と自発性。この題も、僕の関心事の一つです。</div><div><br /></div><div>　この題でブログを書きたくなったのには、実はきっかけとして、最近の僕の日常生活での出来事があります。それは後ほど述べることにして、どのような関心を以前から抱いていたのか、まずそれを書いてみます。</div><div><br /></div><div>　人間の行動のほとんどすべてに、強迫性と自発性が、両方同時に働いている。どちらか一方だけ働いていということはほぼないと言っていい。これが僕の最初の前提です。</div><div><br /></div><div>　ここで言う強迫性とは、「．．．しなければならない」と表現されるもの。自発性とは、「．．．したい」と表現されるもの。とりあえずはそう定義しておきます。</div><div><br /></div><div>　例えば今僕がブログを書いている行為。大分間があいた、待っていてくれる人がいるかもしれない、そろそろ書かなきゃ。そういう気持ちが働いています。自分の中に自然にたまったものを表に出そう、出したくなった。それだけではありません。前者を強迫性、後者を自発性と呼ぼう、というわけです。</div><div><br /></div><div>　そして、人間としての成長を、人間の行動のあらゆる面に存在する強迫性と自発性の比率が変化していくことだと言っていいのではないか、との考え。これが次の前提です。人間として成長するということは、その人独自の自発的なものが日常生活の中により多く豊かに表現されるということだ。</div><div><br /></div><div>　この考えは『性格を変えられるか？』（2012年6月3日）の中でも書きました。そしてそこでは、山歩きや髭剃りでの体験から、僕自身のメインの強迫性が「早く行動しなければならない」との表現がぴったりするものだと述べ、分析の経過を通じてその強迫性の程度が減ってきたと書いています。</div><div><br /></div><div>　「分析の経過を通じて」のところをもう少し表現したい気持ちが生じます。ここに僕が強調したいポイントがあります。</div><div><br /></div><div>　「分析の経過を通じて」を、自分の強迫性をそれとして見る（感じる）経験を積み重ねる、と言い直したいのです。</div><div><br /></div><div>　そして更に、強迫性をそれとして見る（感じる）回数が増せば増すほど、その感じ方が強ければ強いほど、あとは自然にその程度が減じ、自発的なものの比率が増す、と言いたい。</div><div><br /></div><div>　僕の髭剃りの例は（いつもと違ってゆっくり快適に髭剃りをしている感じがする）、自発性の方を直接感じている体験だと言っていいと考えます。僕の経験では、こういう方が珍しい。多くの場合、強迫性の方をそれとして感じる。</div><div><br /></div><div>　その時に、そうであることを責めないでそのまま感じるのが大事。やめられそうなら意志の力で止めようとするのは勿論ありですが、でも、それですんなりやめられたり減ったりするならそれはラッキーだと考えた方がいい。大抵はそう簡単に減りもなくなりもしない。場合によっては、やめようとすることが空回りを呼び罪責感を強めてしまう。だから、コツは、繰り返しになりますが、強迫性の存在を責めないでただ見る、感じる。そうすると何だか知らないうちに自発性が増す。自然治癒力が働く。強調したいのはこの点です。</div><div><br /></div><div>　ここまでを前置きとして、今回は、『性格を変えられるか？』を書いた以降、最近の出来事までの、強迫性をめぐる僕の体験を、思い出すままに述べてみようと思っています。</div>]]>
        
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    <title>精神分析は宗教か　その三</title>
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    <published>2018-08-28T05:48:42Z</published>
    <updated>2018-09-01T11:32:04Z</updated>

    <summary>　『精神分析は宗教か　その二』まで書いてみて、沸き起こってきた感じがあります。　...</summary>
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        <![CDATA[　『精神分析は宗教か　その二』まで書いてみて、沸き起こってきた感じがあります。<div><br /></div><div>　精神科医だったら精神療法を目指すのが自然であたりまえのことだと感じるが、ほとんどの精神科医がそっちに進もうとしない。それが不思議でならない。このブログのどこかに書きました。精神療法を目指せば宗教とのつながりに直面することになるのが当たり前だと感じるが、ほとんどのセラピストがそこに言及しない。それが不思議でならない。沸き起こったものとは、この二つの、僕の中ではとても似ている感覚です。</div><div><br /></div><div>　僕にとっては当たり前のことが、多くの人にはそうでないらしい。昔から、いろいろな場面でそう感じて生きてきた気がします。そのほとんどの場面で、感じていることを表現せずにきてしまった。ここでは、精神療法を目指せば宗教とのつながりに直面せざるを得なくなるのが当たり前だし、もっと単純に、精神分析は宗教そのものだと言ったって良い、という感じをなんとか表現するべく奮闘してみます。</div><div><br /></div><div>　我々を超えたものがこの世に存在するというところまでは、多分誰にも否定できないのではないかと想像します。そこはまだ信仰の問題ではない。こう書いて、いやひょっとするとそうでもないかもしれない、との疑いが出てきました。我々を超えたもの、人知の及ばざるもの、僕にとってはそういうものの存在は疑いようのない事実ですが、僕にとっての当り前は多くの人にとっての当り前ではない。誰にも否定できないという僕の想像も当てにならない。我々を超えたものなど存在しない、現時点では人間の力が及ぼないように見えるものでも、人間の知性の進歩によって人間がなんとかできるようになる。そんな風に主張する人がいそうな気がしてきました。とすると、ここからもうすでに信仰の問題なのかもしれません。</div><div><br /></div><div>　我々を超えたものがこの世に存在するということ。それを神と呼ぶか、造物主と呼ぶか、あるいは自然の中にそれを見るか、名称はどうでもいい。心臓を自分が動かしているわけではないという事実を知的に考えてみただけでも、そういうものの存在は疑いようがないと僕には思える。そしてそこに、何か不思議さのようなものを感じるというか、感動が生じるというか、知的なものだけではない動きが出て来た時、それを宗教的体験の始まりと呼びたい。</div><div><br /></div><div>　我々超えて、普遍的で、永遠性のあるもの。そういうものを感じ、感動を体験する機会が増えてくる。そして更に、自分自身がそういうものに生かされているんだという感覚がはっきりしてくる。自分の根底にそういうものが息づいている、生き生きと動いていることを発見し、感じ、この世のすべての人とのつながりを、人だけではなくすべての生きとし生けるものと、更には岩とか土とか鉱産物とかの無生物とも、つながっているという実感に至る。そのような体験のプロセスを、信心が篤くなるとか、宗教的境地の深まりとかと捉えたい。</div><div><br /></div><div>　一方で、精神分析も体験です。まず、自分が感じていることを言葉にして出す。その行為を続け、それに対するセラピストの応答を聴く。聴くだけではなくセラピストの態度からいろいろなものを感じる。この人は自分のことをわかってくれていそうだという感覚をベースにして、自分について何かを発見する、気づく。それらが繰り返されるとともに、つまりは自己観察力が増すと伴に、自分に変化が生じていることを体験する。</div><div><br /></div><div>　僕がまず強調したいのは、両方とも、体験することにしか意味がない。体験がすべてだ、ということです。これも、当たり前のことだとは思うのですが、一応、書いておいたほうがいいという気がしました。</div><div><br /></div><div>　次に言いたいことは、それぞれ別のものであるかのように描写した体験のプロセスは、実は、重なり合っている。全く同じだと言ってしまうと言い過ぎの感じがあるが、とにかく別物だとは思えない、ということです。あるいは、次のように言うのがいいかもしれない。精神分析的な方法以外でも、先ほど宗教的な体験として描写したプロセスを歩むことは出来るかもしれないし、多くの先人達が実践し、実現して来たに違いない。しかし、精神分析がある程度市民権を得ている今の時代では、精神分析的な方法を使って体験を積み重ねることが、宗教的な体験を得るのに最も身近でかつピッタリしたもののような気がする。</div><div><br /></div><div>　精神分析的な方法を使うとは、自己観察力を増やしていく道を進むのに精神分析的な人間理解を地図として用いる、という意味合いです。具体的に言えば、自分自身が精神分析を受けるということ、そして被分析者を卒業したら、自己分析を続ける、ということです。</div><div><br /></div><div>　何故精神分析的な方法を用いるのが身近でかつピッタリしているのか、その件は少し置いておいて、先に進みます。</div><div><br /></div><div>　ここで、精神分析の創始者と言われているフロイドが宗教を批判したことについて、何かを言わなければならないという気がしてきました。フロイドは、宗教は幻想であり神経症である、と言いました。日々のセッションの中で、僕は、「それはあなたの個人宗教だ」とクライエントに言いたくなる時があります。育つ過程でその人に染み付いた主観的価値を客観的に見ることがむつかしく、そこへのしがみ付き方が、そう呼ぶのにピッタリする感じがする場合があるのです。フロイトの批判している宗教（的観念）と僕が個人宗教だと呼びたくなるもの。同じものを見ているのではないか、という気がします。その理解が間違いでないなら、フロイドの批判する宗教と僕の言う宗教性は全く違うものだ、ということになります。</div><div><br /></div><div>　フロイトは更に、そこ（宗教的観念の幻想性）から抜け出すためにこそ精神分析的な思考が必要だ、そこで最も重要なのは自己観察的な態度だ、とも言っていると記憶しています。ここは、言葉通りだとするなら、ほぼ賛成です。しかし、フロイドのいう精神分析的思考は、知性的なものに重きを置き過ぎているのではないか、と感じます。</div><div><br /></div><div>　自己観察について、フロイドが多分、あまり注目していない点に目を向けたいのです。分析治療中、分析者が被分析者に被分析者の神経症的傾向を示したとします。ここでは、その指摘が正しいものである、とします。被分析者が自分のそこを見て、「なるほどなあ」と感じる。そして、その神経症的傾向が徐々に減ってくる。被分析者の自己観察力が増し被分析者のパーソナリティーに変化が生じた、ということになるわけです。こういうことが生じることを狙って日々の臨床に臨んでいると言ってもいいのですが、この現象に接すると、僕は、なんとも不思議な感じに襲われるのです。</div><div><br /></div><div>　自分の神経症的傾向を見るように促され、そこを見て、「なるほどなあ」と感じる。書くと、簡単にそうなりそうに聞こえるかもしれませんが、これが実際にはなかなかそうはならない。見て、「ああ先生の言うとおりだ」と仮に言ったとしても、「ああなるほどなあ」っていう感じからは遠い。芯から納得しているわけではない。痛感していない。腹の中でいろいろな反論が浮かんでいるのかもしれない。薄々当たっていそうだなという感じがある場合でも、ピンと来たという感じからは遠い。これが普通です。このことは多分、日常生活で友人や家族から何かを指摘されたことを思い出してもらえれば思い当たるのではないでしょうか？余程の条件が揃わないと、その指摘を「ああなるほどなあ」と素直に納得し、肚に納まる感覚にはなりにくい。</div><div><br /></div><div>　僕が不思議な感じに襲われるのは、普通には滅多に揃わない条件が揃ったとしか考えられない現象が起きているからであり、その条件を整えるのに自分（そしてクライエントも）が関与した部分は非常に少ないと感じるからではないかと考えます。自分（そしてクライエント）以外の何かの力が働いたことで条件が整い、クライエントが「なるほどなあ」と納得するに至った。そう考えざるを得ない。考えるというより、そういう力が働いているのを感じざるを得ない。</div><div><br /></div><div>　このことは、気が付いたその神経症的傾向が減少するところ、パーソナリティーに変化が生じるところ、にも当てはまります。僕はよくクライエントに「気が付いたのはいいけどそこを自分の力で変えようとするな」と言います。気が付くと、なんとか自分の努力でそこを変えよう克服しようとするのは人情のような気もします。でも大抵ははうまくいかない。逆に、空回り、悪循環に陥る場合が少なくない。</div><div><br /></div><div>　気が付き方が増す方向、ただ実感が増す方向、認識が深まる方向を目指すのがベストだ。そうしていると何故だか不思議に変化が生じる。これが僕の実感です。変化を生じさせる力、自然治癒力、の偉大さを感じさせられる。我々の治療は自然治癒力に大きく依存している、と言ってもいい。フロイドだって自然治癒力を否定しているはずはないし、我々がそこに依存せざるをないことは認めていると思います。でも、依存する度合いに（実は大きく依存しているんだということを認識する度合いに）、自然治癒力の大きさの見積もりに、圧倒的な違いがあるのではないかという気がするのです。</div><div><br /></div><div>　そして僕は、分析治療の中で、この自然治癒力の働きを感じ、その偉大さに感動する体験を宗教体験の始まりと呼びたい。フロイトが批判したような宗教を偽物の宗教と呼ぶとするなら、本物の宗教性が育つ契機がここにある、と言いたい。</div><div><br /></div><div>&nbsp;　</div><div>　</div><div>　</div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div><br /></div><div>　</div><div>　</div><div><br /></div><div><br /></div><div><br /></div><div>　</div>]]>
        
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