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    <title>【津川クリニックブログ】豊島区目白駅 津川クリニック 精神科/カウンセリング/心理療法</title>
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    <updated>2012-05-13T01:10:30Z</updated>
    <subtitle>豊島区目白駅の津川クリニックの医院案内です。診療科目は精神科/カウンセリング/心理療法/精神療法/精神分析です。</subtitle>
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    <title>不安</title>
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    <published>2012-05-13T01:11:49Z</published>
    <updated>2012-05-13T01:10:30Z</updated>

    <summary><![CDATA[不安について書いて欲しいとのリクエストがありました。 &nbsp; 　不安につい...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>不安について書いて欲しいとのリクエストがありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　不安について、僕が一番言いたいことは、「不安と友達になれ」です。不安と一言で言っても、一様ではありません。強い、弱い。浅い、深い。頭で考えることとの結びつきの強いもの、身体で感じるもの。色々な不安があることは一応わかった上で、あえて大雑把に「不安と友達になれ」と言いたい気持ちがあります。「友達になれ」とは、排除しようとするな、一緒にいることを目指せ、長く付き合うつもりになれ、何かのメッセージを与えてくれるものだと捉えろ、などの意味合いです。</p>
<p>　不安というのも感情の一つだと言っていいと思います。怒り、喜び、悲しさ、悔しさ、嫉妬、楽しさ、幸せ感、絶望感、孤独感など、色々な感情の中で、不安と,不安に近縁の緊張や恐怖は、特別なもののように思えます。どのような意味で特別か、そう考える理由を少し詳しく説明してみます。</p>
<p>　僕は、分析を受けるまで、不安を体験したことがありませんでした。もちろん、人前に立たなきゃいけない時とか、試験前とか、そういう時には不安や緊張を感じていました。ここでは、そういう不安とは別の、個人的不安、主観的不安のことを言っています。今、存在論的不安という言葉を思い出しました。そうも言えるのかもしれません。分析を受け出して間もなく、不安を自覚するようになった頃、近藤先生から「今感じている不安は最近現れたものなのかそれとも以前からあったものか」と質問されました。そう質問され、自分に聴いてみると、自覚していなかった頃にも不安が存在していたことは間違いないと感じました。その感じが新鮮というか、ちょっと不思議だったのを憶えています。それはともかくとして、それ以降は、ただ不安に耐えているか、自覚しているかしていないかの違いだけで結局は不安を紛らわして過ごすか、そのいずれかの時間がほとんどでした。そのうちに、たまには不安に静かに向き合えるようになり、その時間が少しづつ増えてきました。いずれにしても、不安がほとんど常に存在し（意識から離れない）ているには変わりなく、不安との付き合いが自分の人生だったと言いたくなるぐらいです。そして、不安がなければ自分は変わることが出来なかったと、確信的に言える気がするのです。</p>
<p>　「不安というのは氷河のクレバスのようなものなんだよ」これは30年以上前の近藤先生の言葉です。氷河の下には大地があり、クレバスは大地に至る通り道だ。それと同じように、不安は無意識を掘っていくためのトンネルのようなものだ。そういう意味だと思います。今述べた僕の個人的体験からも、大いにうなづける感じがあります。このたとえを使うと、自分の変化を次のように言えるかもしれません。分析を始めたころは氷河の上を歩いていて、クレバスにはまらないように気を付けていた。不安と付き合っているうちに、大地に届くところには至っていないが、「そうか、自分の心は氷河のように凍っているようなものなんだ」と感じるようになった。</p>
<p>　次は少し理屈が入ります。人が生きていくために必要な活動を、意図してやるものとそうでないものに分けると、呼吸という活動には特別な位置を与えることが出来るように思います。眠っている時（無意識の時）、原則としては、見たり、聞いたり、歩いたり、食べたりは出来ません。しかし、心臓は動いているし、消化活動も行われています。呼吸もしています。起きている時（意識がある時）、見たり、聞いたり、歩いたり、食べたり、やろうと思えば出来ます。しかし、心臓を思い通りに動かすことも、消化活動をコントロールすることも出来ません。呼吸はやろうと思って出来ます。意識的にコントロールできるもので、かつ、コントロールを離れても自動的に機能できるもの、呼吸以外には思いつきません。呼吸が特別だというのはそういう意味合いです。意識と無意識との仲介役を果たせそうです。</p>
<p>　呼吸を意識する。意識してゆっくり吐き、吐き切ったところで、力を入れずに空気が入ってくるままに吸い、その間の息の出入りを味わう。近藤先生から教わった呼吸法です。「内部感覚を磨く（自己観察力が増す）ために役に立つから是非続けるといいよ」とすすめられ、心がけています。</p>
<p>　出る息入る息に注意を向けることと、さっき書いた、不安に静かに向き合うというのは、僕にとっては、実は、ほとんど同じことなんです。全く同じではなくほとんどと書いたのは、息の出入りに注意を向けていると、いつのまにか不安が消えてしまうことがあるからです。さっきのようなゆっくりとした呼吸を3,40回続けると、手足の先が暖かくなり、山歩きをしている時のような清々しい気分になります。</p>
<p>　不安を自覚するようになり、不安になんとか耐えているところから、呼吸法の助けを借りて不安と静かに付き合えるようになってきた。この変化と並行して、内部感覚が磨かれてきた気がする。これが、不安を特別なものだとみなす理由です。</p>
<p>　僕の経験からも、不安が強い時には、呼吸法をやろうという気になりません。ただ耐えているだけしか出来ません。でも、ただ耐えているだけで、意識と無意識との間の疎通を維持していると感じます。そのうち呼吸法が出来るようになるのを信じて、待っていて下さい。</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>]]>
        
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    <title>自己観察力</title>
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    <published>2012-05-06T02:20:01Z</published>
    <updated>2012-05-06T02:20:28Z</updated>

    <summary>自己観察力について詳しく書いて欲しいとのリクエストと、自分に向き合うとはどういう...</summary>
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        <![CDATA[<p>自己観察力について詳しく書いて欲しいとのリクエストと、自分に向き合うとはどういうことかとの質問がたまたま重なったので、一緒に応えます。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　自己観察を、自分に向き合う、内面の声を聴く、内面を見る、などと言い換えることが可能だと思います。この態度が定着し、自己観察力が育ち、セラピストの力を借りず、一人で自己観察を続けていけるようになること（これを自己分析が出来るようになると言ってもいいと思います）が分析治療のゴールだ、との考え方があります。僕も、反対ではありません。</p>
<p>　意識が内側に向かうわかりやすい例を挙げれば、腹が減ったと感じる、便意を感じる、眠気を感じる、不安や緊張を感じるなど、いろいろ思いつきますが、普通の日常生活では、そっちに意識が向いているのは短時間で（一瞬で）、向かう力も弱い。そして、人間関係の場面、仕事、家事、学校での場面、本を読む、テレビを見る、何をしているにしろ、時間的にも強度においても、人間の意識はほとんど常に外側を向いている、と言っていいのではないでしょうか。</p>
<p>　自己観察力を育てていこうとする時、カウンセリングだけでは不十分だという気がします。忙しく外側ばかり向いている日常の中で、どこかで意識して、そういう時間を作ることをお勧めします。外側からの刺激を断って、自分の内面から浮かんでくるものを感じる、自分の中で今動いているものを感じる、そういう時間です。</p>
<p>　クライエントに、そういうことをよく話します。それがうまく伝わらず、僕が言いたいのとちょっとずれた自己観察になる場合があります。そう感じた例を三つ思いつきました。</p>
<p>　一つ目は、傍観者的態度です。自分のことについて、こういうところが問題だ、わがままなところだなどと、内省的な内容の話をしながら、他人事のようにしか聞こえない言い方をする場合です。批評家的、評論家的態度とも通じます。</p>
<p>　二つ目は、例えば、こんな感じです。「友達は社交的で誰とでも仲良くなれるのに、僕はそういうことが出来ないんです」「どうも僕は不愛想に見えるらしいんです」「あの人と比べて気の使い方が下手なんです」などと、自分について考えようとはしていますが、他人と比較したり、他人にこう見えているのではないかとの意識（自意識）が混ざっている場合です。</p>
<p>　三つ目は、ある一つの感じにとらわれてしまう場合です。前二つと違って、内側から湧いてきているものを直接感じるところまではいいのですが、そこにさらに何か、例えば、その感じがなくならないと嫌だ、というような気持ちが加わることによって起きます。</p>
<p>　自己観察とは、内側にあるものを直接感じてしかもいじらない態度だ、と言いたいのです。</p>
<p>　自己観察力が増すプロセスを、緊張を例にとって、やや図式的に述べてみます。初めは、あの時緊張していたと事後的に気づくようになり、次に、緊張している最中に緊張している自分を自覚できるようになる。緊張している自分を感じながら、緊張をなくそうとせず、緊張したままで、やれることやる、あるいは何もしない。更に、夢の中に、緊張している自分とそれを見ている自分とが両方現れるようになる。</p>]]>
        
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    <title>孤独とつながり</title>
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    <published>2012-04-28T04:23:25Z</published>
    <updated>2012-04-28T04:21:02Z</updated>

    <summary><![CDATA[『孤独とつながり』について教えてくださいとの質問がありました。 &nbsp; 　...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>『孤独とつながり』について教えてくださいとの質問がありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　この質問者のメールから、最近友人と会い、いつものような会話をしていたつもりが、自分にとっては重要なことについての自分との感じ方の違いがはっきりし、今までその友人とつながっていると思っていたことに疑問を感じた、といった体験があった様子が読み取れます。それがきっかけになって出てきた質問のように受け取れました。</p>
<p>　また近藤先生の言葉です。「人間関係っていうのは誤解でなりたってんるんだよ。」分析を受け始めたころに聞いた気がするので、もう30年以上前です。その後、その言葉が繰り返されることはなかったのですが、強烈に印象に残っています。</p>
<p>　僕の今までの友人関係を振り返ってみると、大雑把に言えば、段々段々誰ともつながっていないことがはっきりしてきた、という感じです。つながっているという誤解が醒めてきた、孤独を実感する度合いが増してきた、ということでもあります</p>
<p>　孤独を、恐怖感、自己嫌悪、自責、さらにはセンチメンタリズム、それらの感情とは別に感じることが大事なのではないか、という気がします。孤独感を他の感情を混じえずに感じる。あるいは、混じっていることがわかりながら感じる。そのように感じる孤独だと、感じれば感じるほど、結果として、人に優しくならざるを得なくなる気がします。</p>
<p>　孤独を自覚せず、あるいは上記の感情と分離しないまま、人とのつながりをどうしても求めてしまう。それが人間の姿だと思います。そこには自分については勿論のこと、相手の正しい理解もありません。さっきの近藤先生の言葉を、このように解することが出来ると思います。</p>
<p>　孤独を感じないでいられるように他人との一体感を求めざるを得ないのが人間というものだが、その一体感は幻想だ、と言おうとしています。一見人間関係をほとんど持たない引きこもりの人も、孤独感を、恐怖や自己嫌悪や自責、センチメンタリズムと別に体験してはいませんし、むしろ、孤立していながら孤独感を全くと言っていいほど感じていない場合も珍しくありません。</p>
<p>　質問者に対しては、この質問のきっかけになった体験に質問者の成長が出ている、と言いたいと思います。友人とのずれを感じて動揺するでしょうが、その動揺を、自分がおかしいと結論付けたり、相手に無理に合わせることで解決しようとしたりせず、動揺に（孤独にと言ってもいいかもしれません）耐えるつもりになって欲しいと願います。</p>]]>
        
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    <title>話すということ</title>
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    <published>2012-04-14T01:30:28Z</published>
    <updated>2012-04-14T01:28:30Z</updated>

    <summary>治療で話しをすることの意味は？という質問がありました。 　 　話すということを言...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p>治療で話しをすることの意味は？という質問がありました。</p>
<p>　</p>
<p>　話すということを言い換えると、言葉を使って表現する、になると思います。治療にとって本質的に大事なことは、表現することにあるのだと思います。言葉でではなくても、箱庭でも、絵でも、ジェスチャー、踊り、なんでも可能（治療的意味を持ちうる）だと思います。言葉というのは、表現するためのひとつの道具に過ぎない、というのが僕の考えです。ただ、多くの場合に、<span style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.296875); -webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469)" class="Apple-style-span">他の道具より圧倒的に便利で使いやすいとは言えそうです。</span></p>
<p>　話すこと（言葉を使って表現すること）の治療にとっての最初の意味は、それによってセラピストとの交流が生じる、というところにあると思います。交流が生ずることで、通じた、わかられていそうだ、という感覚が積み重なり、クライエント自身の自己観察力も育っていく、というのが理想ですが、そう簡単に進んでいかない場合も少なくありません。セラピストに対して、傷つけられたと感じたり、腹が立ったり、不信感が生じたり、ということが珍しくありません。そういう時は、そのこともまた言葉で表現し、それによってセラピストのクライエント理解が深まり、結果として"わかられた感"が増すことにつながれば、これもまた一つの道筋です。</p>
<p>　第二の意味は、表現するということ自体が治療的だ、ということです。内面に溜まっていたものを正直に言えた、すっきり出せた感じがする、その時に感じる清々しさは経験しないとわからないかもしれません。近藤先生のご自宅から都立大の駅までの帰り道、そういう感じを味わいながら歩いたことが少なくなかったのを思い出します。つい先日の経験ですが、比較的大量の固めの大便が出て結構すっきりした後しばらくしてまた便意を催し今度は下痢気味の便が少なからず出ました。その時の、気が身体中を走る感じを伴った清々しさ。この感じと、あの時の感じは似ているよなあ、と思いました。</p>
<p>　三つ目は、セッション中の表現が瞑想の習慣につながる、という点です。セッション中に話したことが引き金になって、終了後、後を引く感じになることが多いものです。「あんなことを話して先生にどう思われたかなあ」「ああ話したけど、こう言ったほうが正確だったんじゃないか」「こんなこともあったことを思い出した。今度話さなきゃ。」などの思いとともに、セッション中の気分がすぐには消えません。このことは、言葉によって表現された元のもの（感じていること）への感覚を鋭敏にする為に役立つと思います。</p>
<p>　分析を受け始めの頃、僕は、すぐ消えてしまうのが特徴でした。「軒醒め、バス醒め、家醒めって僕は呼んでるんだ。君は軒を過ぎる（先生宅の軒という意味です）前に醒めちゃうみたいだね」と言われたのをよく憶えています。</p>
<p>　段々醒め方が遅くなり、外側にばかり向かっていた自分の意識が少しづつ内側に向かうようになるプロセスを体験しました。途中で先生から呼吸法を教わったことも加わり、一人になって内面と向き合う時間を取ることが増してきたのは、その延長だという気がします。</p>
<p>　ここでまた近藤先生との会話を思い出しました。「人間の成長にとって表現することが本質的に大事なもの、必要なものだと感じるようになったが、そうすると、ただ座っているだけの禅をどう考えればいいんでしょう」と質問したことがあります。返事は「そんなことを考えていたのか。座るのも表現なんだよ。静かな表現だ。湖だって表現だろう」というものでした。先生の言葉を正確に憶えているかどうかには自信がありませんが、湖が表現だ、との一言で、目からうろこが落ちたように感じた記憶は鮮明です。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>カウンセラーの資質</title>
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    <published>2012-04-07T01:05:37Z</published>
    <updated>2012-04-07T12:15:34Z</updated>

    <summary>これからのカウンセラーに求められる資質について教えてくださいとの質問がありました...</summary>
    <author>
        <name>tsugawa-clinic</name>
        
    </author>
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p>これからのカウンセラーに求められる資質について教えてくださいとの質問がありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　この質問を読んでパッと頭に浮かんできたのは、道心という言葉です。</p>
<p>　浮かんだ後で少し考えてみましたが、やっぱり、これに尽きると言っていいと思います。道心の強い人が資質のある人だ、ということになります。</p>
<p>　道心というのを、思いつくだけ言い換えてみます。</p>
<p>　道を求める。世俗的世間的でない何か目に見えない価値を実現したい。変化、成長したい。自分を知ろう。自分に向き合おう。</p>
<p>　ここまで書いて、また、近藤先生から聞いた話を思い出しました。道元の言葉だそうです。</p>
<p>　仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。</p>
<p>　この道元の言葉についての僕なりの理解を試みてみます。</p>
<p>　いいカウンセラーになろうとするなら、自分を知ろうとしなければならない。自分を知れば知るほど、自分自身の自己中心性をつくづくと感じるようになり、自分に絶望する。自分というものを捨てる（忘れる）しかないと感じる。その時、我々を超えた大きなものに生かされていることを実感する。その実感によって自分も救われるし、他人が救われるための役にも立ちやすくなる。</p>
<p>　これだときついと感じる人がいそうな気がするので、少し言い方を変えてみます。</p>
<p>　いいカウンセラーになろうとするなら、自分を知ろうとしなければならない。自分を知れば知るほど、自分の中の深いところに傷があることを感じるようになる、傷を感じれば感じるほどそれは過去のものになる（忘れられる）。その時、我々を超えた大きなものに生かされていることを実感する。その実感によって自分も救われるし、他人が救われるための役にも立ちやすくなる。</p>]]>
        
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    <title>薬物療法</title>
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    <published>2012-03-29T23:44:37Z</published>
    <updated>2012-03-31T12:54:53Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 薬物療法をどう考えますか、との質問がありました。&nbsp;　これまでこのブロ...]]></summary>
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        <name>tsugawa-clinic</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p> 薬物療法をどう考えますか、との質問がありました。</p><p>&nbsp;</p><p>　これまでこのブログの中で、私の考える治療を、人間としての成長を助けることだ、と言ってきました。人間として成長する。自己実現をを遂げる。感じる力を育てる。内部感覚（近藤先生の言葉です。そのうち詳しく触れることになると思います）を育てる。直観力を磨く。内省的になる。自己観察力が増す。パーソナリティーが変化する。これらの表現によって意味されるものは、みな似たものです。これらのことの延長線上に、悟る、救われる、大きなものによって生かされていると感じるといった宗教的な体験があるのではないか、というのが僕の考えです。もしその考えが正しいなら、そのプロセスを出来るだけ言葉にしていきたい、ひょっとしたらそれが自分の使命かもしれないとの気持ちがあります。実はこれがこのブログを書きだした本当の理由です。治療経験を通して、悟っていない自分が悟る方向に進んでいけたら、まさに現在進行形の自分の体験と重ねてそのプロセスを描写出来ることになるかもしれない、と考えたわけです。</p><p>　薬物療法が、上記のプロセスに直接的に影響を与えることは、全くと言ってもいいぐらいないと感じます。</p><p>　一方、以下に列記するようなものには、薬物療法が直接的に効果を発揮します。不安感。焦燥感。パニック発作。強迫観念や強迫行為。うつ状態。そう状態。幻覚妄想状態。イライラ感。激しい攻撃。興奮状態。などなど。</p><p>　上記のような、いわゆる症状と呼ばれるものが良くなるのは、それらの底にある不安が薬物によって減少することによるのではないか、それが僕の印象です。本人には不安感が全く自覚されていないうつやそうも少なくありません。その場合も、潜在的不安が存在し、それが減少することによって気分の変化がもたらされると考えることが出来そうな気がします。不安の質や量の違いに対して、抗不安薬、抗鬱剤、メジャートランキライザーが使い分けられているだけだ、薬のターゲットは結局は不安だ、と言えそうな気がするのです。</p><p>　私の考える治療が進展し、ある程度の信頼関係が出来、クライエントの安心感が増してくると、だからこそ不安を自覚できるようになる、ということがあります。ここで自覚されるようになる不安は、その後の治療の進行にとって非常に重要なものです。この不安にセラピストとクライエントが一緒に耐えていくのが治療だ、と言ってもいいぐらいです。</p><p>　上記の症状の程度が激しいと、症状の底にある不安を自覚しそれに耐えるというのは困難です。薬物療法というのは、不安に働きかけ症状を軽減することで、もともとある不安を自覚しやすくまた耐えやすくするところに本来の意味があるのではないだろうか、それが僕の薬物療法観です。</p><p>　少し現実的なことを書きます。薬物療法が必要な場合、精神療法に理解がある精神科医に薬物療法を受け、このクリニックでの治療と二本立てで治療を進めていくのが理想的なやり方だと思います。ご希望があれば信頼できる医師を紹介します。</p><p>&nbsp;</p><p>　</p>]]>
        
    </content>
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    <title>クリニックの特徴</title>
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    <published>2012-03-23T23:29:40Z</published>
    <updated>2012-03-23T23:28:00Z</updated>

    <summary><![CDATA[ 当クリニックの特徴を書いてみたらどうか、とのおすすめがありました。&nbsp;...]]></summary>
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        <name>tsugawa-clinic</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p> 当クリニックの特徴を書いてみたらどうか、とのおすすめがありました。</p><p>&nbsp;</p><p>　箇条書き的に書いてみることにします。</p><p>　一番目は、近藤先生の考え方を継承発展させようとの意図がある、ということです。精神分析の歴史の中で、カレンホーナイ、近藤章久と続く流れを汲んでいる、と言ってもいいと思います。</p><p>　二番目は、ホームページに載っているセラピストの全員が教育分析を受けた経験がある、ということです。セラピストがセラピーを受けることがセラピストの訓練として最も基本的なことなので、これは本当は特徴として書くようなことではないのかもしれないのですが、多分、日本では珍しいと思います。</p><p>　三番目は、クリニック内で定期的にケースカンファランスを開き、それぞれのセラピストがケースを出し、お互い刺激し合って研鑽に努めている、ということです。一年に一度は、『近藤章久記念精神療法セミナー』と題し、外の会場を借りて、普段より少し大がかりなケースカンファランスを開いています。近藤先生存命中は、この会に必ず出席して下さっていました。</p><p>　四番目は、希望があれば色々なセラピストと会ってみることが出来る、ということです。一人のセラピストと会って相性が悪いと感じたら、他の人と会ってみてください。</p><p>　五番目は、セラピストの資格にこだわっていない、ということです。医師や臨床心理士の資格を持っていることとセラピストとしての実力とは全く無関係だと考えています。料金は、セラピスト一人一人が自分で決めています。薬の処方だけは例外です（種類は多くありませんが、抗不安薬、抗うつ薬などを、医師の資格のあるセラピストが処方しています）。</p><p>　</p>]]>
        
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    <title>近藤先生　その三</title>
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    <published>2012-03-23T04:23:47Z</published>
    <updated>2012-03-23T04:22:22Z</updated>

    <summary>　その一、その二で、出会いと別れの場面を思い出そうと試みてみました。その間の２１...</summary>
    <author>
        <name>tsugawa-clinic</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p>　その一、その二で、出会いと別れの場面を思い出そうと試みてみました。その間の２１年間については、書き出すときりがないので、そしてまたこれから他の題で書く時に必ず出てくると思うので、ここでまとめて書くのはやめることにします。</p>
<p>　全体的な印象だけを書いておきます。</p>
<p>　その前に年齢ですが、僕より３８歳年上です。存命ならちょうど百歳ということになります。</p>
<p>　21年間、毎週一回、よく通ったなあ、という感慨がまず浮かびます。その間約7年間は、福島県いわき市の病院に勤めていたので、そこから、特急を利用しても、通うだけで3時間以上かかりました。21年間、休んだこともほとんどなかったと思います。先生が風邪などの病気で休みになることも数回しかありませんでした。そういう時は、受付の内田さんから事前に連絡があるのですが、一度だけ、行ってみたら今日は休みだと言われたことがあったのを憶えています。</p>
<p>　先生の態度というかたたずまいというか、そういうのが残っている感じがします。暖かいエネルギーをずっと注ぎ続けてくれたというか、歩みの鈍い僕をよくぞまあ待ち続けてくれたというか、そういう表現が浮かびます。さらに、生き生きとしている、力強い、自由、自然、というような言葉が浮かんできます。</p>
<p>　自然と書いてみて、今まで先生を自然だと思ったことがなかったなあと気が付きました。そして書いてみると、自然な人だというのがもっともぴったりした表現かもしれないという気がしてきました。津川クリニック開業時に先生が書いてくれた『自然』という書が、僕の診察室にかかっています。最も目に付くところにかけてあります。意識してではなくても毎日目にしている筈ですが、これからは今までと少し違った気持ちで見ることになるかもしれません。</p>
<p>　もう一つ僕にとって面白く感じることは、セッション中の先生の饒舌さです。こちらの連想を引き出そうという意図もあるのでしょうが、僕が少し黙っていると、先生のほうが話し始める、という印象が残っています。しゅっちゅうではありませんが、もっとこっちが喋りたかったのに、と思うこともありました。</p>
<p>　そういう時、ご自身が感じたこと、時にはプライベートな話も結構出てきました。「今度の休みに三陸に行って来たんだよ。海を見たら急に泳ぎたくなってね、水泳パンツに着替えて岩の上から飛び込んだんだよ。気持ちがよかったねえ。」という例を今一つ思い出しました。他にも沢山ありますが、繰り返しになる（別の機会に全く同じ話が出てくる）ことがほとんどなかった、というのを不思議に感じていました。他の人に同じ話をしていたと聞くことはあったので（僕が受け始めたあと、知人や後輩の相当人数が先生の分析を受けるようになりました）、この話をこの人にしたという記憶というか感覚というか、そういうのがあったんじゃないかと思います。</p>]]>
        
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    <title>近藤先生　その二</title>
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    <published>2012-03-16T01:30:36Z</published>
    <updated>2012-03-16T01:28:45Z</updated>

    <summary><![CDATA[　&nbsp;先生が亡くなる直前まで、つまり物理的に分析を受けることが不可能にな...]]></summary>
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        <name>tsugawa-clinic</name>
        
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        <![CDATA[<p>　&nbsp;先生が亡くなる直前まで、つまり物理的に分析を受けることが不可能になるまで通い続けたということは、終了にはならなかった、卒業できなかった、ということでもあります。分析の終了について、先生が、「師匠を理解するということだよ」とおっしゃっていたのを記憶しています。1998年の最後のセッションの頃、とても先生を理解出来ていたとは思えません。亡くなられてから13年経つのですが、いまだにはなはだ心もとない感じがします。それでも、その頃と比べて見え方が違ってきていることも確かなので、現時点での先生理解を試みてみることにします。</p>
<p>　知的であること、クラシック音楽の鑑賞力が相当深そうなこと、僕が聞いているとネイティブが話しているとしか聞こえない英語力があること、学校経営に長く携わっていたこと、精神分析の歴史の中で一つの流派の創始者（カレンホーナイ）に認められたおそらく唯一の日本人分析家であること、森田療法家でもあることなど、多才というか、色々な面があるので、先生の本質がかえってわかりにくくなっていると言えるかもしれない、この頃そんな風に思うことがあります。</p>
<p>　先生の本質は、信仰心の深いところにある、本当の意味での宗教者であるところにある、そう言うのが最も近い気がします。</p>
<p>　亡くなったのが１９９９年２月３日ですが、一月の半ばごろ、先生の秘書的な仕事をしていた根戸内さんから電話をいただきました。先生が私たち夫婦に会いたい（私の妻も先生の分析を受けるようになっていました）とおっしゃっているとのことでした。さっそく病室に二人で訪れると、痩せてはいても張りのある声で、主治医から余命が少ないと宣告されたとの話のあと、「自分には息子がいない。葬式のことを頼めるとしたら、女房の親戚の純ちゃん（小泉純一郎氏）ぐらいだが、彼は忙しいだろうと思う。君にやってもらいたい。」ということでした。その話が一段落した後、「津川君、最近面白い夢を見たんだよ。僕が二つの人生を歩んでいるんだ。一つは政治家の人生。総理大臣になって、この国を変えようと一生懸命働いているというもの。もうひとつは、実際に僕が生きてきた人生なんだ。夢の中で、こっちで良かったと思っているんだよ」とおっしゃいました。</p>
<p>　それを聞いた時にはそんな言葉は浮かばなかったのですが、最近、先生が実際に生きた人生は信仰の道だった、と思うのです。</p>
<p>　先生の葬儀の時、小泉純一郎氏が参列していました。ガードマンもつけずに一人でだったので、その時はどこの大臣でもなかったのかもしれません。後に小泉氏が総理大臣になった時、先生の夢を思い出し、もう一つの人生を先生に縁のある人が実現したことになったと、ちょっと不思議な気分を味わいました。</p>
<p>　先生ご自身が信仰という表現をなさることはほとんどなかったと記憶しています。宗教という言葉もあまり使わなかったと思います。手垢が付いた言葉で、誤解を招きがちなのを恐れたのかもしれません。「我々を超えた大きなものに生かされる」という表現はよく耳にしました。「死ぬまで真実を求め続ける」「６０過ぎてからも何回も脱皮を繰り返している感じだ」との言葉も耳に残っています。それらを僕は、宗教的な体験を深める、という意味だと解するのが正しいのではないかと考えるようになりました。特定の宗教の信者であるかどうかもどうでもよかったのだと思います。キリスト教の信者でも仏教者でも、その信仰が本物であるなら、それぞれの体験（境地、感じ方）には共通のものがあるとお考えだったのではないかと想像します。</p>]]>
        <![CDATA[<p>&nbsp;</p>]]>
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    <title>近藤先生　その一</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/2012/03/post-11.html" />
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    <published>2012-03-10T00:50:40Z</published>
    <updated>2012-03-10T00:50:11Z</updated>

    <summary><![CDATA[近藤先生についてシリーズで書いてくれとのリクエストがありました。 &nbsp; ...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>近藤先生についてシリーズで書いてくれとのリクエストがありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　まずは近藤先生に出会った頃の記憶をたどってみることにします。&nbsp;</p>
<p>　大学病院での研修医の期間が2年間で、その後、１９７６年に、川崎にある私立の精神病院の常勤医になりました。医局の本棚に河合隼雄先生の『ユング心理学入門』がありました。気になっていたのになかなか手に取らなかったことを憶えています。読んだのは１９７７年になってからだったかもしれません。すーっと一気に読んだ、読みやすかった、わかりやすかった、という印象が残っています。</p>
<p>　次に記憶に残っている場面は、河合先生の奈良のご自宅の応接室です。1977年の9月頃だったと思います。川崎の病院で知遇を得、その後も色々と応援を続けて下さった空井健三先生の紹介です。</p>
<p>　河合先生と面と向かって座り、精神分析学会に参加してみての感想、つまり、権威的、知性的な感じがし、この人から分析を受けたいと思える人がいなかったとか、『ユング心理学入門』を読みユンギアンである先生の分析を受けたいと思ったとか、そういうことを言った筈ですが、憶えてはいません。自分の発言の中で、うっすらと憶えていることがひとつだけあります。自分は精神医学的な診断が嫌いだという話の流れだったと思うのですが「分裂病に欠陥状態があるというなら、神経症にもあると思う」というような内容です。それを面白そうに聞いてくれたという印象が残っています。</p>
<p>　その時の河合先生の発言は、大体以下のようなものだったような気がします。「教育分析を受けるというのは、時間が長くかかるし、変化が目に見えないから、つかみどころのない感じのするものだ。そういうもののために毎週新幹線で数時間かけて通うのは大変だ。思い当たる人が東京にいる。あまり有名じゃないけど凄い人だ。河合から紹介されたと言って、一度会ってごらん。料金は僕より高いと思うけどね」</p>
<p>　それが近藤先生でした。近藤先生宅を初めて訪問したのは、たぶん１０月だったと思います。なんだかすっと引き受けてもらえたなあ、との印象が残っています。あとはほとんど記憶にないのですが、一つだけ憶えている近藤先生の発言があります。河合先生にこんなことを言われましたと、さっきのようなことを僕が話したことに対して、即座に、「そりゃあ河合君らしいね」と言ったことです。</p>
<p>　これは大分後になってわかったことですが、僕が河合先生に会えた日のすぐ前に、京都大学の河合先生の主宰する会に近藤先生が参加し、講演か何か、とにかく参加者に感動を与えるような話をしたらしいのです。後にその時の参加者と知り合いになって聞いた話です。その会での印象のおかげで近藤先生を紹介してもらえたのかもしれません。その時に、近藤先生も河合先生に対して、何か感じるところがあったんだろうな、と思います。</p>
<p>　初回は対面で、二回目から寝椅子（ベッド）になりました。毎週一回、以後21年続くことになるわけです。ここまで書いて、初回時の近藤先生の言葉をもう少し思い出しました。「感じたことを話すように」というのと「秘密が漏れることは絶対にないから安心して話すように」というものです。その後、自分がセラピストとしてクライエントとの契約が成立した時、僕も全く同じことを皆さんに言っています。</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>]]>
        
    </content>
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    <title>生きているのが辛い</title>
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    <published>2012-03-02T00:48:37Z</published>
    <updated>2012-03-02T00:48:29Z</updated>

    <summary>生きているのが辛いという質問があったとするとどう答えるか、と質問されました。 &amp;...</summary>
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        <![CDATA[<p>生きているのが辛いという質問があったとするとどう答えるか、と質問されました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　最近、酒を飲みすぎた翌朝、酒の醒め際に、不整脈が出ることに気が付きました。気が付いた時は、不整脈の頻度が相当なものだったのですが、昨日飲みすぎたからおきているんだと言い聞かせ、それほど気にしないでいたつもりでした。ところが、いったん意識したことがきっかけになって、胸の鼓動に注意を向けるようになり、酒の醒め際でなくても、結構不整脈がおきていることに気がついてしまいました。しょっちゅう自分の脈をとるようになり、友人の循環器内科の専門医に相談し、「心配ないと思うよ」と言われたのに、「大丈夫だと太鼓判を押してくれる口調じゃなかった」「本当にそんなに気にしなくてもいいんだろうか」「ちょっと頻度が多すぎるんじゃないか？」「何か心臓に疾患があるんじゃないか」「急に心臓が止まるんじゃないか」と想像が膨らんでいくのとともに、ほかのことで気が紛れている時はそれほどではなくても、意識が胸に向かうと、身構えるというか、見張っていて脈が止まりそうになったらなんとかしなくちゃという気持ちになるというか、そんな心理状態を経験しました。</p>
<p>　パニック発作の心理とそっくりだ。生き延びたい気持ちが強いんだな。コントロール出来ないものをコントロールしようとしている。自分の力で何とかしようとして、委ねるしかないという気持ちになれない。などの考えが浮かびました。</p>
<p>　ここまでは自分の体験です。ここから先は、頭で考えたことだというか、仮説です。</p>
<p>　委ねられなさ、"自分の力で"何とか生き延びようとする気持ち、ここに注目したいのです。これは、すべての人に、意識されないことはあっても常に働いている心理ではないでしょうか？そして、生きているのが辛い、そういう辛さが、本質的なところでこの気持ちと関係していない場合はない、そう断言できるような気がするのです。言葉を変えれば、無意識のうちに働いている、"自分の力で"生き延びようとする気持ちが、生きている辛さを生じさせている、ということになりそうな気がするのです。</p>
<p>　この仮説が正しいとしたら、なんとも皮肉です。皮肉ですけれども、辛さが減るための道は示されたことになるのではないでしょうか？、無意識に働いている"委ねられなさ"への気づき方が増し、委ねられる方向へと進んでいけばいいんだと。</p>
<p>　近藤先生が、我々弟子達に伝えたかった最大の点は、「我々を超えた大きなものに生かされ自然やほかの人達との平等性を体験することが大事だ、体験がないならそういう体験がありうるとの信念を持て」ということだったと僕は感じています。それはさっきの僕の表現だと、"自分の力で"生き延びようとしないでいられる、ということになりそうな気がします。</p>
<p>　</p>]]>
        
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    <title>感じるということ</title>
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    <published>2012-02-23T23:20:46Z</published>
    <updated>2012-02-23T23:19:35Z</updated>

    <summary> 『感じるって？』に続いて、もう少し&quot;感じる&quot;ということについて書いて欲しいとの...</summary>
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        <![CDATA[<p> 『感じるって？』に続いて、もう少し"感じる"ということについて書いて欲しいとのリクエストがありました。</p><p>&nbsp;</p><p>　何かについて、「僕はこう感じる」と誰かが言い、別の人が「私はこう感じる」と言う。そういう会話が僕は好きです。何かは何でもいいんですが、例えば映画だということにしておきましょう。同じ映画を見た人が何人かで会話をしている状況です。「あの俳優が好きだ」「あの場面で感動した」「全体としてつまらなかった」「監督の意図がわかりにくかった」などと、ありとあらゆる感想があると思います。最初の、俳優についてだったら、「その人のどこが好きなの」との問いに、「ハンサムだから」と返事があり、「えっ私はちっともハンサムだと感じない。こっちの人のほうがずっとハンサムよ」というような会話がいい。その俳優について、映画評論家の誰かがこんなことを言っていたとか、その俳優は過去のどんな映画に出演していて奥さんはどこの誰だとか、そういう話も少しならいいんですが、ずっと続くとつまらない。それよりも、さっきのに続いて、「その人の他にも私はこんな人をハンサムだと感じる」「それは私の好みじゃない。大体私は顔にはあまり関心がない」「じゃあどこに魅力を感じるの」「演技力よ」とか、そんな風に続いていくのが素敵だと思います。この俳優のここが嫌いだいうお題のほうが、もっと盛り上がるかもしれません。いずれにしても、そう感じることが良いか悪いか、正しいか正しくないかから自由になって、それぞれの感じていることが主となって展開する会話が楽しい会話だと僕は思います。</p><p>　私のクリニックでは、定期的にケースカンファランスをやっています。セラピスト達が何人か集まり、一人が自分の担当しているケースを紹介し、他の出席者がコメントを述べるというものです。治療経験のほとんどない、新しい出席者のコメントが、ベテランのそれよりずっと魅力的、刺激的だと感じることが時にあります。ベテランのコメントは、ステレオタイプ、ありきたりで、新人のは初々しくて力があるんです。まとまっているとか、間違ったことを言わないとか、そういう点ではベテランにかないません。断片的であっても、その人が本当に感じていることを言っている時、べテランのコメントよりずっとインパクトが強いのです。</p><p>　私は、ケースカンファランスでは、自分が感じていることだけを話そうと心がけてきました。それをやっていると、孤独を感じます。自分が感じているのと同じように感じている人が自分以外にはいないと感じるからです。そんな時、自分の言ったことは間違っていたんじゃないか、見当はずれだったんじゃないか、という不安が生じます。「間違っていても、見当はずれでも、そう感じたんだから仕方がない」、理屈でそう言い聞かせても、不安はなかなか消えません。よくよく考えるとやっぱり間違えていた、浅はかだった、大事なところを見逃していた、ということが、まずはあります。そしてまた、自分の言ったことは、本当に自分が感じていることだっただろうか、感じていることを本当に正直に表現しただろうか、とも考えます。他の人の発言に影響されたり、間違いを恐れる気持ちが働いたりして、感じていることを歪めて言ってしまったと気が付かされることが少なくありません。本当に感じていることだけを表現するというのは、結構簡単ではないと痛感します。</p><p>　そんなことを繰り返し経験してきたことと大いに関係していると思いますが、孤独を感じることに大事な意味があるのではないかという感じが、少しづつ強くなってきました。孤独を感じ、不安に耐えることが、さっきの、新人の初々しさに通じている気がします。そう言えば、近藤先生のケースカンファランスでのコメントは、初々しと言うと少し違うかもしれませんが、いつも生き生きとして力強かったことを思い出します。</p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>　</p><p>　</p><p>&nbsp;</p><p>　</p><p>　</p>]]>
        
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    <title>セラピストを志したのは何故？</title>
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    <published>2012-02-17T01:26:31Z</published>
    <updated>2012-02-17T01:26:16Z</updated>

    <summary>　多くの精神科医が目指さないのに、何故この道を選んだのか？との質問をいただきまし...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/">
        <![CDATA[<p>　多くの精神科医が目指さないのに、何故この道を選んだのか？との質問をいただきました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　『はじめまして』でも書きましたが、私には、多くの精神科医がどうして私と同じ道を選ばないのかが不思議で仕方がないんです。私にとっては、当たり前っていうか、精神科医になるならこれしかないじゃないか、という感じなんです。そう感じる自分が相当変わっているということになるのだと思います。</p>
<p>　日本では、変わっていると考えざるを得ないし、圧倒的に少数派ですが、世界標準だと、そうでもないかもしれません。精神分析がアメリカでもすたれてきているという話を聞きますが、最近の映画でも、分析治療のセッションと思われるシーンがよく出てきます。日本でよりは、精神分析が社会に馴染んでいるのは間違いないと思います。</p>
<p>　私は、医学部に入る時から精神科医になりたいと思っていました。そして精神科医とはこんなことをする職業なんじゃないかという漠然としたイメージのようなものを持っていました。精神分析関係の本を読んでいたわけではないのですが、なんとなく、とにかく患者と話をする、その中から何か変化を目指す、というようなイメージだったような気がします。大学を卒業し、実際に精神科の医局に入って、そのイメージが現実と大きくはなれていることに気づかされました。治療と言えば薬物療法、精神療法は個々人にまかされているという感じでした。薬物療法の専門家はいても、精神療法の専門家はいないんです。</p>
<p>&nbsp;ここまで書いて、この辺りのことをもう少し詳しく述べたくなりました。精神療法の専門家がいないというのは、私の主観としては正直なものなのですが、丁寧な言い方ではありません。その当時(今から38年前)、医局の中に、三つの研究グループがありました。生化学、神経生理、精神病理の三つです。前二つは、直接的には臨床と関係のない研究です。生化学の人たちは、ネズミを相手に向精神薬を使って色々な実験をしているようでした。神経生理の人たちは、脳波とか、眼球運動とかを機械を使って測定していました。いずれにしても、実験し、データを積み上げて論文を書くことを目指している人達なんだなと、それらの分野にほとんど興味のない私には、そんな風に見えていました。そして、ここのグループに属している人達は、精神療法がどうのこうのとかというようなことを、そもそもほとんど言いません。ところが、精神病理のグループに属している人達は、そうですね、精神病理学というのがどういう学問かということをまず説明しなければいけません。患者の病的な心理について理解しようという建前から、哲学用語などの難しい表現を用いて、ああでもないこうでもないと言葉を連ねる学問、という感じでしょうか。実験をするわけではなく、患者との臨床場面が直接の素材になるせいか、他のグループからは、精神療法についても一家言持っているとみなされる傾向があったんです。本人たちも、精神療法についての議論は自分たちの領域だとの気持ちを持っているようでした。</p>
<p><span style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); -webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469)" class="Apple-style-span"></span>　ところが研修医の私から先輩たちの臨床を間近でみていると、生化学や神経生理のグループの人たちのほうが、精神病理のグループの人たちより、ずっと治療が上手いんです。患者のよくなり方が違うんです。この違いは、薬物療法によるものではなく、精神療法などと特に意識していない人達のほうが、ずっと精神療法的だというところからのものだと感じました。この印象は、このころの私にとって、結構強烈なものでした。</p>
<p>　今から思うと、ポイントは、頭でっかちかどうかだ、という気がします。精神病理グループの人達に、はっきりとその傾向があったと思います。</p>
<p>　この頭でっかちさは、その頃何回か出席してみた、日本精神分析学会でも感じました。精神病理グループの頭でっかちさと、質は微妙に違うのですが、外国の文献を引用するのが大好きで、自分で感じたことよりも、すぐにそっちの話になるところは、全くそっくりでした。質が違うと感じるのは、引用する文献が、片方がドイツ語圏、片方が英米圏であるせいかもしれないと、今書いていて思いつきました。</p>
<p>　<span style="-webkit-tap-highlight-color: rgba(26, 26, 26, 0.292969); -webkit-composition-fill-color: rgba(175, 192, 227, 0.230469); -webkit-composition-frame-color: rgba(77, 128, 180, 0.230469)" class="Apple-style-span">当時読んだ本で最も印象に残っているのは、フリーダフロムライヒマンという女性精神分析家の、確か、Principles of Intensive Psychotherapyという題のものです。内容はもうほとんど記憶していないのですが、この人はちゃんと自分で精神療法を苦労してやって、その体験をわかりやすい言葉にしている、という感じがしました。この人のようなセラピストから教育分析を受けたい</span>、と思っていました。</p>
<p>　近藤先生に出会う前の記憶をたどってみて、あらためて、自分は師匠を求めていたんだな、と感じます。何故セラピストを目指したかと問われても、冒頭に述べたように、自分にとってはそれしかなかった、という感じです。</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
    </content>
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    <title>自費診療</title>
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    <published>2012-02-07T01:35:00Z</published>
    <updated>2012-02-07T01:38:20Z</updated>

    <summary><![CDATA[保険が使えない自費診療である理由は？という質問がありました。 &nbsp; 　1...]]></summary>
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        <![CDATA[<p>保険が使えない自費診療である理由は？という質問がありました。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　1991年の６月に開業しました。それまでは、大学の精神科医局、私立精神病院、公立総合病院の精神科に勤めましたが、すべて保険診療でした。保険診療の範囲内で、精神療法が出来ないものかと試みていました。</p>
<p>　精神療法的に接しようと思うと、一人の人との診察時間に時間がかかります。開業後は、一人50分と決めていますが、保険診療の中では、50分は取れないにしても、ゆっくりある程度は時間をかけようと思うと、色々な摩擦が生じ、ストレスが絶えません。外来では、待っている患者の待ち時間が増えます。受付事務から苦情が来ます。私のほうも、待っている人のカルテが増えてくるのを見るだけで、焦りの気持ちが強くなります。病棟では、定時の時間内だけでは、診察を終了することが出来なくなります。消灯時間の直前まで患者と会っていると、夜勤の看護者から文句が来ます。保険診療に伴う書類を書くのに結構な時間をとられるのもストレスでした。</p>
<p>　この事情を少し角度を変えて述べてみます。一人に50分時間をかけ、一日6人の診察があると仮定した場合、それを保険診療で行うとすると、得られる収入は一日2万4千円弱にしかならないのです。月額にすると50万弱になりますが、これだと、事務所の家賃に少しおつりがくるぐらい、受付事務の人件費も出せません。私には全く収入がないどころか、毎月赤字が重なっていくということになります。一人に時間をかけることにこだわる限り、保険診療でクリニックを維持していくのは、全く不可能だと言っていいと思います。</p>
<p>　以上のようなことから、開業する時に、自費診療で始めることに迷いはありませんでした。近藤先生がそうしているということも大きかったと思います。私の属していた医局では、自費診療で開業する例が初めてだったので、経営的に成り立っていくのかと、心配してくださる方が結構いました。1958年に近藤先生が開業する時も、医局の先輩から、日本ではそういう形での診療所は無理なんじゃないかと言われたそうです。近藤先生の開業時からすでに60年以上過ぎているわけですが、今現在でも、精神療法専門（自費診療にならざるを得ない）のクリニックは、精神科クリニックの爆発的な増加の中で、きわだって少ない、という印象です。</p>
<p>　医師以外のセラピストがオフィスを開くというのが、少しは増えているのかもしれません。しかし、経営的に大変だという話が耳に入ってきます。彼らが臨床をやろうとする場合、最も現実的なのが、保険診療のクリニックに雇われることのようです。クリニックの医師の依頼を受けてセラピーに携わるということになります。依頼する側の医師は精神療法を実際に行ったこともないし、精神療法についてほとんど何もわかっていません。そのような医師が主治医であり、立場としては上だということになりますから、この治療構造の中で依頼された人との精神療法を続けていくのは相当にやりにくいもののようです。臨床心理士からそういう話を聞かされることが少なくありません。セラピストとして成長していくのも簡単ではない環境だと思います。</p>
<p>　一方、精神科を訪れる人たちは、ただ薬で症状がやわらげばいいというだけではない、『治療って？』の中で述べたような、人間としての成長を求めるというニーズをお持ちの方が少なくないと私には感じられます。もしその私の感じが間違っていないなら、患者の求めるものを全くと言っていいぐらい提供出来ていないのが現在の精神医療の現状だと言えるのではないでしょうか。</p>
<p>&nbsp;このミスマッチを少しでも解消していくには、そのニーズに応えられるセラピストが少しでも多く育つことがなによりも大事なことでしょう。その人たちを育てる教育の場所も、現状では、自費診療の現場の中でないと難しいのではないかと考えています。</p>
<p>&nbsp;</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>　</p>
<p>&nbsp;</p>]]>
        
    </content>
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    <title>お知らせ</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://tsugawa-clinic.com/tsugawa-clinic-blog/2012/02/post-7.html" />
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    <published>2012-02-06T04:46:43Z</published>
    <updated>2012-02-06T04:55:29Z</updated>

    <summary>ブログについてのご意見、ご感想、聞いてみたいこと等につきましてはtsugawa@...</summary>
    <author>
        <name>tsugawa-clinic</name>
        
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