当診療所は精神科を標榜しています。私は精神科医です。ですが、私は、現在の精神医学をあまり信用しておらず、特に精神医学的診断は、私が目指している治療にとってほとんど役に立たないものだと考えています。
私が日々の診療で心がけているのは、相手の居るところに自分の身を置いて、直観的、身体感覚的にその人をわかっていこうとするものです。その人を一人の人間として全体的に理解しようとしているつもりだと言っても同じかもしれません。そうしてみると、わかるという感覚は、診断をはるかに超えて深くて細やかなものだと感じます。下手にわかったつもりになってしまうという害こそあれ、診断をつけるという行為に、積極的な意味があるとは思えないのです。
クライエントの側からすれば、とことん理解されているという感じが持てること、別に言えば、セラピストとクライエントの間に深い共感が生じることが本質だというのが私の治療観です。ここでの「理解される」も、知的なものではなく体感的なものを言っているつもりです。私がクライエントだったら、自分についての理解をセラピストが言葉にし、それが仮に間違っていなくても、わかってもらえたという気にはなれません。その言葉を発しているセラピストの態度というか、その言葉がセラピストのどこから出てきているのかを察しようとします。喩えで言うなら、頭から出てきているのではなく腹から出てきているものではないと信じられません。わかられているという感じは、セラピストの発する言葉によるというより、セラピストのそこにいるあり方というか雰囲気によると言ったらいいでしょうか。そういうセラピストの存在に助けられて、クライエントは、自分の中にあって自分を縛っているものを発見し、思い込みに気付き、そして自分の本心に開かれていくものだと思います。それを目指す行為を、それぞれの歴史や立場から、カウンセリング、精神療法、心理療法、精神分析療法などと、いろいろな名前を付けて呼んでいると考えてもいいのではないでしょうか。薬物療法は、そのための補助的な役割をとるものだと考えます。
セラピストがその人をわかっていればいるほど、クライエントがわかられたと感じる可能性が増すだろうことは、多分、当たり前でしょう。
そして、その為には、セラピスト自身が自分を知っていなければなりません。自分の内面にあるものを観察する態度を身に付け、感じる力を育て、直観力を磨かなければなりません。つまり、ここでは、クライエントとセラピストが、己を知る(しかも知的にではなく体感的に)という、共通の目標に向かって歩いているということになると思うのです。
精神医学的診断とは無関係に、今の苦しみから救われる為に自分を知ることが役に立つかもしれないとの予感をお持ちの方の来院をお待ちしています。セラピストを目指している方の教育分析の要望にも応えています。
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