生きているのが辛いという質問があったとするとどう答えるか、と質問されました。
最近、酒を飲みすぎた翌朝、酒の醒め際に、不整脈が出ることに気が付きました。気が付いた時は、不整脈の頻度が相当なものだったのですが、昨日飲みすぎたからおきているんだと言い聞かせ、それほど気にしないでいたつもりでした。ところが、いったん意識したことがきっかけになって、胸の鼓動に注意を向けるようになり、酒の醒め際でなくても、結構不整脈がおきていることに気がついてしまいました。しょっちゅう自分の脈をとるようになり、友人の循環器内科の専門医に相談し、「心配ないと思うよ」と言われたのに、「大丈夫だと太鼓判を押してくれる口調じゃなかった」「本当にそんなに気にしなくてもいいんだろうか」「ちょっと頻度が多すぎるんじゃないか?」「何か心臓に疾患があるんじゃないか」「急に心臓が止まるんじゃないか」と想像が膨らんでいくのとともに、ほかのことで気が紛れている時はそれほどではなくても、意識が胸に向かうと、身構えるというか、見張っていて脈が止まりそうになったらなんとかしなくちゃという気持ちになるというか、そんな心理状態を経験しました。
パニック発作の心理とそっくりだ。生き延びたい気持ちが強いんだな。コントロール出来ないものをコントロールしようとしている。自分の力で何とかしようとして、委ねるしかないという気持ちになれない。などの考えが浮かびました。
ここまでは自分の体験です。ここから先は、頭で考えたことだというか、仮説です。
委ねられなさ、"自分の力で"何とか生き延びようとする気持ち、ここに注目したいのです。これは、すべての人に、意識されないことはあっても常に働いている心理ではないでしょうか?そして、生きているのが辛い、そういう辛さが、本質的なところでこの気持ちと関係していない場合はない、そう断言できるような気がするのです。言葉を変えれば、無意識のうちに働いている、"自分の力で"生き延びようとする気持ちが、生きている辛さを生じさせている、ということになりそうな気がするのです。
この仮説が正しいとしたら、なんとも皮肉です。皮肉ですけれども、辛さが減るための道は示されたことになるのではないでしょうか?、無意識に働いている"委ねられなさ"への気づき方が増し、委ねられる方向へと進んでいけばいいんだと。
近藤先生が、我々弟子達に伝えたかった最大の点は、「我々を超えた大きなものに生かされ自然やほかの人達との平等性を体験することが大事だ、体験がないならそういう体験がありうるとの信念を持て」ということだったと僕は感じています。それはさっきの僕の表現だと、"自分の力で"生き延びようとしないでいられる、ということになりそうな気がします。