2020年2月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2020年2月のブログ記事

依存支配型 その四

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 依存支配型については、"優等生性"の亜型と位置付けている"奴隷性"について書こうと試みたところで止まっています。再度、"奴隷性"についての記述にチャレンジします。

 依存する相手に忠誠を尽くす。相手の言うことを絶対的に正しいものとして逆らわない。自己主張しない。文句も言わない。愚痴もこぼさない。仮に、相手の要求が理不尽なものだとの感じがどこかで微かに生じても、自分はそれに従い耐えるしかないと決まっていて、理不尽さを指摘しようとか反抗するとかの発想自体が浮かばない。何も言われていなくても、自分への期待を察知しようとのアンテナを張り、その期待を実現するべく行動する。相手の期待、基準から外れていないかを常に自分でチェックする。相手の下に自分を位置づけ、従属的な態度を取り続ける。

 この人のメインの防衛は奴隷性だなあと感じる方々の立ち居振る舞いは、控えめで大人しい。その雰囲気も加わって、この人は謙虚な方だなあとの第一印象を抱きます。実際に謙虚なところがあると言えないこともない。劣っていてダメな人間だから社会の下層に置かれ虐げられ傷つけられるのが当然だというような自己イメージが存在している。自己評価が低いと言ってもいい。しかし話を聴いているうちに、実は決して本当の意味で謙虚なわけではないことを知ることになります。場合によってはそのギャップの大きさのせいで、全体像を把握するのにめまいが生じるような感覚に襲われます。ギャップがそれほど大きくなくても、謙虚に見えてしまう側面とは別に傲慢さが必ず存在します。

 ギャップが大きくてとりあえずは混乱してしまう例を挙げるなら、パッと思いつくのが、聖者とか神と呼ぶにふさわしい理想イメージを内心に抱いている場合です。自己犠牲的で他者を優先する自分を、人々に愛を与える聖者や神とみなしている。そして並の人間とは違う振る舞いができているとの優越感を満足させている。理想イメージが聖者とか神とかと呼べるほどではない場合でも、正しさへのこだわりは必ず存在します。ダメで劣等な人間かもしれないが、でも、正しい行いをしている、という気分があります。そして更に、その点では自分は優れているんだとの気分をひそかに抱いています。

 謙虚さと内心での秘かな優越感とのギャップと同時に、このタイプの人には、もう一つのギャップが存在すると言いたくなる感じがあります。それはこの態度が実は自己中心的なものだという事実とのギャップです。自己主張的だったり、見るからに保身的だったりとかの、いわゆる自己中心的な態度とは正反対ともいえる態度だからです。聴いているこちらも、この態度の自己中心性に確信が持てるまでに時間がかかります。言葉を変えれば騙されやすい。本人が自分は実は自己中心的なんだと気づくのにも困難性が高いと言えると思います。呪いが覚めにくい。呪われていること自体に気づきにくい。

 僕がこの態度の自己中心性に確信が持てるのは、忠誠を尽くす相手に安全を保証されるのが当然だという気持ちがあることに気づかされる時です。見返りを求めている。自己犠牲が無償のものではない。自己に対し手厳しく犠牲を強いるのと同じ強さで、相手に(母に、家族に、上司や所属する組織全体に、更には国に)安全の保証を要求している。

 今、無謬性という言葉が浮かびました。自分も正しいが自分が依存する相手はもっと正しい。自分が所属する組織も正しい。自分の周囲には過ちは存在しない、正しさに包まれている。依存対象の振る舞いの変さをどこかで微かに感じても、取り合わない。ないことにしてしまう。自分が正しいことをしていさえすれば、自分が依存するからには自分よりも正しさの度合いが上であるに決まっている相手は、自分に安全を与えてくれるはずだ。何かの時に守ってくれるのは当然だし、何もなくても常に自分のことを心配し自分の安全に注意を向けてくれているはずだ。そういう幻想の世界に住んでいます。

 この幻想の世界に安住していられるのは余程条件揃わないと難しいので、何かのきっかけで破綻を迎えます。一般的には幻想の破綻は内省に向かう大きなチャンスです。しかし、破綻してもなかなか内省に向かいにくいのが、またこのタイプの特徴です。大抵は、自分より正しい存在のはずの依存対象への批判、攻撃に向かいます。正しさをめぐる理想イメージ自体を客観視する方に向かいにくい。内省というのは自分自身を批判的に眺めることだとも言えると思います。正しいはずの自分の正しくないところは見たくない、という気分なのかもしれません。

 僕の仮説を使うと、防衛はすべて潜在的孤独感を潜在したままにしておくためのものです。雑駁な言い方だと、実は傷ついているのに傷ついたと感じないようにするためのものだと言い換えることが可能です。だから、どのタイプの人にとっても、「自分は昔、母親との間で結構傷ついていたんだなあ」との実感は、防衛全体がある程度見えてくるまでは、なかなか生じない。この生じにくさが、このタイプの人では特に著しいと僕は感じています。このこともまた内省に向かいにくさに大いにつながっていると感じます。潜在する傷つき感が顕在に向かうことは自己肯定感の増加を促し、それはむやみに正しさにこだわらなくてもいいやという気分を生じさせます、余裕が生まれるとも言えるでしょう。

 ここから先はspeculationです。「自分は昔、母親との間で結構傷ついていたんだなあ」という実感の生じにくさ。これは、傷つきを感じないようにする元々のやり方が、虐げられ傷つけられるのが当然だとすること(奴隷性)によって達成されているからに違いない、そう思うのです。仮想の世界で傷ついているから実際に傷ついていることには逆に気が付きにくくなる、可哀そうな自分というイメージが邪魔をして実際に可哀そうであることがピンと来なくなる、そんなことが起きているのではないでしょうか?

 もう一つここで述べておきたいことを思いつきました。利用されることへの過敏さです。多くの人間関係は無償の友情や愛情で成り立っているわけではありりません。お互いの打算で成り立っている場合、ギブアンドテイクが釣り合って成立している場合、利害関係が一致している場合、いずれにしても、お互いにある程度は利用しあっているのが現実の人間関係だと思います。その現実を、大袈裟に被害的に、一方的に自分が利用されていると受け取る傾向があります。これも、自分の依存の在り方が利用と呼ぶのにまさにふさわしいものであること(最も手に入れたいものを獲得するために奴隷という役割を演じている)、そしてそのことに気づくのが難しいこと、と関係しているに違いありません。自分は目的があって尽くしているのに相手には無償で無尽なものを求めている。そしてそこに気づいていない。実は自分が相手を利用しようとしているんだという現実に気が付けば、今度は逆に、相手がいつもいつも自分を利用しようとしているわけではないことに気づくことになる、そういう関係にあると考えます。

 

 

 

 

 
 僕には趣味がほとんどありません。ひと頃は毎週山歩きをしていましたが、この頃は山に行きたい気持ちがそれほど起きなくなりました。現在唯一趣味と言えそうなのは囲碁です。それも自分で対戦するよりプロの碁の観戦が主です。ネット中継を、解説者や高段会員が出してくれる参考図を見ながら、また、自分でも検討図を作ったりしながら観戦するのが楽しみです。プロの打つ一手ごとにAIが評価値を出すのも面白い。

 AIと言えば、数年前、ついにAIのアルファ碁が世界ナンバーワン棋士を破りました。現在、AIは、トッププロが2子を置いても勝てないぐらいに強くなっています。20年ぐらい前は、ネット碁のランキングで級位者の僕でも、コンピューターソフトにゆうゆう勝てていましたから、その進歩は驚くべきものだと感じます。

 このブログのどこかに書いた記憶があるのですが、僕は、自分の精神分析家としての成長と囲碁が上達するプロセスとを比べて、そこに共通点があると感じています。囲碁の手筋や急所が見えてくる感じとクライエントの防衛や思い込みが見えてくる感じが似ていると感じたからです。ここまで書いたら、囲碁で級位者だとすると分析家としてもその程度か、そう思われたらかなわんなあ、との警戒心が生まれました。僕の勝手な想像ではありますが、その想像上のツッコミに対して、上達する時の共通点と、どの程度上達しているかは別の話だ、と反論しておきたいと思います。

 腕が上がってくるプロセスで共通する、今まで見えなかったものが見えてくる感じ、感じなかったことを感じられるようになる感じ。要は、感じる力の増大です。これと、AIのディープラーニングとを比較するとどうなんだろう?ディープラーニングは人間の神経細胞(ニューロン)の仕組みを模したニューラルネットワークがモデルになっているのだそうです。感じるということに神経細胞が関与しているのは疑いない。だとすると似たようなものだと言えるのだろうか?人間が感じる力を育てていくこととAIのディープラーニングは同じようなものなのだろうか?

 コンピューターや脳科学についての知識が不十分だというのがその一つの理由ですが、説得力を持った丁寧な言い方は出来ません。が、この問いへの答えは「そんなの違うに決まっている」です。感じる力を育てることとディープラーニングとは、どこか本質的なところで全く違う成長の仕方だと僕の直観が言います。AIが色々なところで人間を追い抜くのは時間の問題だと思います。でも、AIがどうしても及ばない(タッチできない)領域があるのもまた間違いないと感じます。その領域の代表として真っ先に思い浮かぶもの、感じる力を育てること、そして育った先にあるもの。

 AIが囲碁のトップ棋士を負かしたのはつい数年前だと書きましたが、将棋ではもっと前からAIの方が人間より強くなっています。将棋界での最近の話題は現在高校生の藤井聡太7段の大活躍だと思います。囲碁界では昨年、19歳の芝野虎丸名人が誕生しました。二人ともAI世代の申し子と呼ばれることがあるようです。AI世代の申し子と呼ばれながら、二人とも、他の棋士達よりあまりAIを使った勉強法を取り入れていないという情報もあります。その情報の真偽はともかくとして、僕が注目しているのは、二人に共通するものがある感じがするところです。

 ただ好きでやっているという感じ。気負いが少ない感じ。そして謙虚さがある感じ。この感じが際立っているように感じるのです。この感じは、二人の偉大な先輩達、国民栄誉賞組の、将棋の羽生さんや囲碁の井山さんにも感じます。でもこの若い二人には、先輩たちに負けないぐらいそういう側面がある。僕にはそう感じられてなりません。そして、そこが、感じる力を育ててその行き着く先に抱く僕のイメージと重なるのです。

 精神分析は人間としての成長を目指すためにあるものだ、というのが僕の基本的な立場です。成熟した人間とは感じる力が十分に育った人間だと言い換えることができると考えています。何回も同じ事ばかり繰り返し述べていますが、それは、我々を超えたものに生かされているという深い実感に至ることです。そういう人間がいたとして、そういう人に出会ったら、無心に物事に取り組んでいて、自然で、そしてちっとも偉ぶらないなあ、というような印象を持ちそうな気がするのです。僕が近藤先生に抱いた感じを述べているといってもいいです。

 先ほどの若い二人は、年齢の割にとても成熟度の高い人間だということにならないでしょうか。多くの場合は年を取るにつれてようやく目が向いていくような、人間にとって基本的に大事なもの、宗教性、の顕現度の高い人間だと言えるのではないか、僕にはそう感じられます。そしてそういう人間が、AIがすでに人間を追い越している分野で、AIの申し子と言われながら頭角を現している。そこに何か皮肉な感じを感じると同時に、時代の面白さとでも言いたくなるものが出ている感じがするのです。我田引水かもしれませんが、僕の感じる面白さをもっとはっきり言うことにします。AIが進歩していくのは間違いないこれから先、精神分析(感じる力を育てるための援助法、真の宗教性の顕現を助けるもの)へのニーズが高まる時代が到来する。そんな予感がするのです。

 

 

 

 

不安は裏切らない

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 『不安即安心』で、不安に耐えている人に出会うと思わず頭が下がる感じがするとか、自分の不安を感じた時に不安は裏切らないという感覚に襲われる、などと書きました。これらの感じを、もう少し詳しく表現してみようと思います。

 感じることと考えることを比較した場合、感じることの方に重きを置く。感じることを考えることより優先する。考えることは感じることがベースにあっての上でなら意味があるが、そうでないと空疎なものになる危険が大きい。まず先に感じがあるのが大切だ。この事には疑いがありません。感じることしか信用しない、と言ってしまった方が僕の気分には合う。考えることは知性により結びついている感じがします。知的なものへの劣等感がそう信じる要因になっているのではないかとのツッコミが浮かびますが、劣等感があるとしても、それとこれとは別だと言いたい。それこそ考えではなく、心の底からそう信じています。

 感情と思考とを対比的に捉える捉え方は割と一般的だと思います。僕が言う"感じ"は、しかし、感情と全く同じものではないかもしれません。悲しみ、怒り、喜び、驚きなどの感情。それらとはちょっと別の"感じ"、でも思考ではない。思考と感情の対比からしたらずっと感情に近い。大雑把に言っちゃえば感情に入れてもいいという感じの"感じ"が沢山あると思います。

 さて不安です。不安を感じると、あるいは感じていなくても、まずは、不安が減るようにあるいはなくなるように、なんとかしようとするのが普通だと思います。それが成功する場合は少なくない。しかし、すぐにはなんともできない、ただ不安を抱えているしか他にどうしようもない、そういう類の不安が存在するのも確かです。

 ぱっと思いつくのは、大事な人が手術を受けているのを手術室の外で待っているというシーン。自分は何もできない。ただ待っているしかない。祈るしかない。映画やテレビでそういうシーンに出くわした時、登場人物のその姿に、なんだか頭が下がる感じ。

 「祈るしかない」がキーワードかもしれません。祈るしかないという気持ちでいそうな人を見ると頭が下がる感じに襲われる。なんだか話が合っている気がします。

 面接場面で不安をめぐる話し合いになることは珍しくありません。まずは、どういう不安なのかをその人の立場に立ってわかろうとします。すぐピンときて「それはよくわかるよ」と言える時もあります。しかし、そうでない場合の方が圧倒的に多い。すぐにはわからないなあと感じる場合、まず例外なくその不安にはその人の主観性(思い込み)が入っています。その主観性(思い込み)がどのようなものかパッと見当が付き、これこれこういう思い込みがあるから不安になっているんだ(不安が耐えられないものだと感じられるんだ)とクライエントに納得できるような形で示せる場合もたまにはあります。でもたいていの場合は、不安について話し合い、一緒に耐えて、不安のメッセージを探し、その人の主観性を発見し、ああこういう思い込みがあったからこんなに強い不安になっていたんだと気が付いていく、気づきが重なるに伴って徐々に不安が減っていく、そういうプロセスをたどります。

 不安が存在するのは明らかなのにそれに気が付いていない人。不安の存在は感じていてもそこに主観性があるとの感覚からは遠い人。ひたすら回避しようとする人。不安を解決する道を目指して努力する人。いろいろなケースが思い浮かびます。さっきのプロセスはなかなか順調には進行しない。

 そんな中で、不安を引き受けた上でそのメッセージを受け取ろうとの態度を取るのが難しくない人がいます。また、途中からスッとそういう態度がとれるようになる人もいる。そういう態度に出会った時、尊敬する気持ちが湧きます、思わず頭が下がります。

 頭が下がる感じからの連想です。自宅から、雪をかぶった吾妻連峰と安達太良山脈が奇麗に見えます。神々しい感じ、頭が下がる感じが生じる瞬間があります。でも、山を見た時に生じるこの感じは、単独峰を見た時の方が強い気がします。富士山ももちろんそうですが、津軽の岩木山を見た時に、強くそういう感じに襲われた記憶が残っています。ぽつんと一人でじっと耐えている。不安にじっと耐えている態度に出会った時の頭が下がる感じは、孤独に耐えている人へのものに通じていそうです。

 ここから先は自分の不安についてです。最近の、不安が一番信用できるという感じ、不安は裏切らないという感じ。これは、冒頭に書いた、感じることしか信用しない、という気持ちとつながっています。感情はそもそも不安定なものです。怒りも、悲しみも、驚きも、喜びも、たいていの感情は長続きしない。長続きしないのが感情の法則だとさえ言える。不安も感情の一つだとしていいなら、不安という感情だけは例外です。隠れることはあっても、必ずまたすぐ顕れる。ずーっと自分と一緒にいるという感じがする。

 幸せを実感することが僕の人生の目標だとこのブログの『精神分析は宗教かその2』に書きました。今現在でも、幸せや、安心を、感じることがないとは言いません。しかしその強度、安定性は、不安の実感からするとはるかに劣ります。そして、この常にあると言っていい不安の実感の先に、より確かな幸せや安心の実感がありそうな予感がします。祈る気持ちが生じます。

 大雑把には感情に入れてもいいと述べた、狭い意味での感情とは一応分けた方がいいかもしれない"感じ"。クライエントを理解しようとする時、そういう自分の"感じ"をベースにしようと心がけています。クライエントに直接感じる"感じ"、やり取りの間に自分の中に浮かんでくる"感じ"、それらの色々な"感じ"を感じ、手掛かりにしながら、その人の一点を探ろうとします、あるいはその人の全体像が見える方向を目指します。そもそもそれらの一つ一つの"感じ"がそんなにはっきりしたものではないことも多い。そして当たっているかどうかに自信が持てない、心細い。そういう不安を常に感じながら、先ほどの方向を目指す。目指してもそれがなかなか「これだ」というものにはなってこない。曖昧でぼんやりした感じが続きます。その状態もまた不安と呼んでよさそうです。そしてそのような不安に耐えているうちにだんだんと、時にはスッと、ハッキリしたもの("感じ")があらわれてくる。

 ここまで書いて、わかるためにはわからないという感じに注目し手掛かりにしていくしかない、と以前に書いたことと同じことを言っているなあと気が付きました。でも以前そう書いた時は、不安は裏切らないという風には感じていなかった。結論は同じでも、表現の仕方の違いに意味があると思うことにします。
 

不安即安心

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 ブログの事は、いつも何処かで気になっています。久しくご無沙汰しているので、サボっている感があります。でも、今度書くならこのタイトルでと、タイトルだけはだいぶ前から決めていました。

 煩悩即菩提という言葉があります。近藤先生の発言としても記憶に残っています。一般的に受け入れられている表現のようです。一般的にと言うと間違いかもしれません。仏教に関心のある人たちの間で、と言い直した方がいいかもしれません。随分前から、僕は、この表現が気になって無視できない感じを抱いていました。なんだか大事そう、真理を衝いていそう、だけどいまいち身体感覚的にピンとこない、といった感じでした。

 10年ほど前のことだったと記憶しています。後輩二人との酒の席での会話でした。煩悩即菩提とは、煩悩をそれとして認識出来ることが菩提につながるという意味だ。そう僕が言い、それを聞いてなるほどと思った。二人のうちのどちらかがそう言い、もう一人も、確かに以前僕からそう聞いた、と言うのです。その時の「えっ俺そんな事を言ったの」と驚いた記憶が鮮明に残っています。いつそんなことを言ったのか記憶になかったし、更に、「あれ、今俺は本当にそう思ってるのかなあ」との疑いも浮かんできました。

 その二人が嘘を言うとは思えないので、自分の中で熟していない時に、思いつきで、悪く言えば口から出まかせ気分で言った、というところだったのでしょう。こういうことって珍しくありません。

 この出来事があった後も、煩悩即菩提という言葉は、僕の中で気になる存在であり続けていました。そして本当に少しづつ、徐々に、やっぱりあの理解でよかったんじゃないだろうかとの感じが増してきました。煩悩即菩提という言葉へのしっくりしない感じ、身体感覚的にわかった感じになれなさ、も減ってきました。そして今度は、不安即安心という言葉が頭に浮かんできてちらつくようになってきたのです。

 煩悩というのは仏教用語です。定義を言い出すと色々と面倒くさいので、僕は、煩悩を、自己中心性と同じものだと捉えておこうと思います。自己中心性と呼べるものの総体を煩悩と呼ぶ、ということにしようと思います。

 自分の中にある煩悩を煩悩として認識できるとしたら、それは自分の中に煩悩以外のものがあることを意味している。

 僕が何かを言う時、感じたことを言っているのか頭で考えたことを言っているのかをチェックしようとする癖があります。今の文は感じたことからのものだとはとても言い切れません。頭で考えたことを言っています。でも、どう考えても間違っていないよな、という気がするのです。

 自分の中に煩悩だけしかなかったら煩悩を客観視できるわけがない。煩悩を煩悩として感じるということは自分の中に煩悩以外のものが存在していることを示している。そして煩悩の見え方が増しその全体像がつかめる方向に進むということは、煩悩以外の所に立つ足場がしっかりしたものになってきたことを意味するはずだ。煩悩以外のところとは何だろう?どう名付ければいいのか?それを何と呼ぶにしろ、そこに足を置くことと菩提を得ることが無関係だとは思えない。無関係でないどころか、そこにしっかりと足を置き根を降ろすことイコール菩提を得ることなのではないだろうか。

 これと同じことが不安についても言えると思うのです。僕にとっては、煩悩という言葉より不安という言葉の方に馴染みがある。自分の不安とも長く付き合ってきたし、日々の診療の中で、クライエントの不安に注目し、「不安と友達になれ」と言い続けてきました。

 「不安と友達になる」、それは不安を否定しないこと、良くないものだと捉えないこと、すぐ無くそう減らそうともがかないこと、そして不安のメッセージは何だろうと自分に聴こうとすること。それは安心の存在なしには不可能だ。それができることは自分の中に安心がすでに存在していることを意味している。自分の中にある不安を不安として認識しそれを十分に実感し引き受けることそれはイコール安心だ。不安即安心。

 こう言うほうが、煩悩即菩提と言うよりも頭で考えて言っている感じが薄れます。しかし体験からのみ言っているわけではないのもまた確かです。体験のレベルのみで言えば、以前から気になって注目している感覚があります。この人は不安にじっと耐えているんだなあと感じた時、僕の中に必ず湧いてくる感覚です。言葉になりにくいのですが、あえて頑張って出してみると、思わず頭が下がる感じ、祈りが生じる感じ、が近いです。さらに最近、こんな感じが湧いてくる瞬間を経験するようになりました。自分の不安を自覚した時に、ああこれが一番確かなものだ、これだけは裏切らない、とでもいうような強い感覚に襲われるのです。そして呼吸法をやりたくなります。体の中にある不安と向き合いたくなります。

 大安心(だいあんじん)を感じる(体験する)ところにはまだ距離がありそうです。が、そこに行くには不安を通るしかない。これはどう考えても間違っていなさそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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