自己観察力について詳しく書いて欲しいとのリクエストと、自分に向き合うとはどういうことかとの質問がたまたま重なったので、一緒に応えます。
自己観察を、自分に向き合う、内面の声を聴く、内面を見る、などと言い換えることが可能だと思います。この態度が定着し、自己観察力が育ち、セラピストの力を借りず、一人で自己観察を続けていけるようになること(これを自己分析が出来るようになると言ってもいいと思います)が分析治療のゴールだ、との考え方があります。僕も、反対ではありません。
意識が内側に向かうわかりやすい例を挙げれば、腹が減ったと感じる、便意を感じる、眠気を感じる、不安や緊張を感じるなど、いろいろ思いつきますが、普通の日常生活では、そっちに意識が向いているのは短時間で(一瞬で)、向かう力も弱い。そして、人間関係の場面、仕事、家事、学校での場面、本を読む、テレビを見る、何をしているにしろ、時間的にも強度においても、人間の意識はほとんど常に外側を向いている、と言っていいのではないでしょうか。
自己観察力を育てていこうとする時、カウンセリングだけでは不十分だという気がします。忙しく外側ばかり向いている日常の中で、どこかで意識して、そういう時間を作ることをお勧めします。外側からの刺激を断って、自分の内面から浮かんでくるものを感じる、自分の中で今動いているものを感じる、そういう時間です。
クライエントに、そういうことをよく話します。それがうまく伝わらず、僕が言いたいのとちょっとずれた自己観察になる場合があります。そう感じた例を三つ思いつきました。
一つ目は、傍観者的態度です。自分のことについて、こういうところが問題だ、わがままなところだなどと、内省的な内容の話をしながら、他人事のようにしか聞こえない言い方をする場合です。批評家的、評論家的態度とも通じます。
二つ目は、例えば、こんな感じです。「友達は社交的で誰とでも仲良くなれるのに、僕はそういうことが出来ないんです」「どうも僕は不愛想に見えるらしいんです」「あの人と比べて気の使い方が下手なんです」などと、自分について考えようとはしていますが、他人と比較したり、他人にこう見えているのではないかとの意識(自意識)が混ざっている場合です。
三つ目は、ある一つの感じにとらわれてしまう場合です。前二つと違って、内側から湧いてきているものを直接感じるところまではいいのですが、そこにさらに何か、例えば、その感じがなくならないと嫌だ、というような気持ちが加わることによって起きます。
自己観察とは、内側にあるものを直接感じてしかもいじらない態度だ、と言いたいのです。
自己観察力が増すプロセスを、緊張を例にとって、やや図式的に述べてみます。初めは、あの時緊張していたと事後的に気づくようになり、次に、緊張している最中に緊張している自分を自覚できるようになる。緊張している自分を感じながら、緊張をなくそうとせず、緊張したままで、やれることやる、あるいは何もしない。更に、夢の中に、緊張している自分とそれを見ている自分とが両方現れるようになる。
コメントする