「絶望と救いは紙一重だ。本当に絶望すれば救われる」と聞いたことがあるが本当か?どういう意味か?という質問をいただきました。
近藤先生が、折に触れて、そういう意味の発言なさっていました。この頃やっと、こういうことではないかと見当がついてきた感じがします。ちょっ理屈っぽくなってしまうかもしれませんが、説明を試みます。
絶望という時、必ずその人の価値観が問題になる、とまでは言っていいと思います。その人にとっての価値観、主観的価値、これをキーワードにして、絶望と救いの関係についての僕の考えを述べてみます。
その人が価値を置いているものが失われた時、あるいは、価値を実現出来ない現実に直面した時、絶望という感情を体験することになる。
こう書いてみると、この言い方は間違いではないにしろ、正確でないことに気づかされます。その人にとっての主観的価値がその人に意識されているならそう言えそうですが、無意識的な場合には、絶望というより、うつや不安として体験されそうです。
しかしここではその違いにはこだわらず、後者の場合も、大雑把に、絶望(無意識的な絶望)であると考えることにします。
主観的価値。それが、お金や地位や名誉だと、一般的だし、目に見えるものでもあるので、わかりやすいかもしれませんが、実際には、人によって実に様々で、かつ、微妙で、イメージしにくいものも少なくありません。いずれにしても、人間というものは、意識的無意識的に何かに価値を置き、それを実現しようと意識的無意識的な努力をし、それを支えに生きているものだなあと、自分を見ても、日々の臨床の中で皆さんの話を聴いていても、つくづくと感じます。
本当に絶望するとは、まず、自分の主観的価値がなんであるかをはっきり認識し、次に、それを実現しようとする努力が実は自己中心性そのものであると知ることだと思います。それが実現できれば幸せで安全だと思い込んでいたに過ぎないと知ることです。今までの繰り返しになりますが、ここでの"知る"も、実感する、痛感する、という意味です。そしてまた、そうとはわかっても、まだ主観的な価値を追ってしまう自分を自覚することです。
そういう風に自分が見えてくるというところに、つまり、自分の努力で自分を救うことは出来ないと絶望するところに、我々を超えた大きなものの力が働いています。そして、そういう風に自分が見えてきたら、我々を超えた大きなものを信じるしかない、そこに向かって助けてくださいと祈るしかない、身を委ねるしかない、そういう気持ちにならざるを得ないのではないでしょうか。
祈る気持ちの実感イコール救い、それが今のところの僕の考えです。
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