近藤先生の「人間存在の愚かさや自分の自己中心性に気が付いた時に、念仏を唱えるしかない、念仏だけは自分を裏切らない」との教えがいまいちよくわからない?という質問をいただきました。
前回の『絶望と救い』と似たような結論になりそうですが、『精神分析と仏教』というタイトルに魅力を感じるので、重複を気にせず、書いてみます。
歎異抄の冒頭部分に、「彌陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあります。我々を超えた大きなものの力に助けられて往生出来ると信じ、念仏を唱えようとの気持ちが生じる時、我々を超えた大きなものの力の恩恵に与かる、ということですが、これを単純化して、救われると信じて念仏を唱えたくなった時に救われる、と言えるのではないかと思うのです。
救われると信じて念仏を唱えたくなる時とはどういう時か、それが大きな問題だと思います。
本当の意味で絶望した時だというのが、前回書いたように、今のところの僕の答です。
苦しみから脱することを強く望み、その為に役に立つかもしれないと考えて、心に関する本を読み漁るクライエントがいました。徐々に、精神分析関係の本と、禅の本に集約されていったようです。そして、「禅の本には、悟った後の心境が書いてある。確かにそこに至れば苦しみから解放されそうだ。精神分析の本は、心の変化がどうのように起きるかということやそのプロセスには触れているが、それで僕が楽になれそうな気がしない。悟るところまでは書かれていない。だから両方とも結局は役に立たない」との感想を洩らしました。10年以上前のことですが、強いインパクトがあったので良く憶えています。
彼の役に立つようなものをそのうち書けるようになりたい、と思いました。精神分析が究極的に目指すところは"悟り"だと考えていいのではないか。だとしたら、そこに至るプロセスを述べることが可能かもしれない、と考えたのです。
僕の考えでは、精神分析とは、とりあえず、自己観察力を育てることです。
自己観察力が増せば、おのれのごうまんさ、浅ましさ、自己中心性に嫌でも気づかざるを得ません。気づきかたが増すに連れて、自然にそういう面が減ってくることを体験します。自分の意志でどうにか減らそうと思ってもどうにもなるものではないことにも気づかされます。なくなることはありませんが自己中心性の度合いが自然に減ってくることもあって、逆に、なかなか本当の絶望には至りません。自己観察の目を逃れて、今までのやり方が続いているのだと思います。そして、意識的に念仏を唱えても、救われたような感じにはならないし、長続きもしません。
本当の絶望、心の底からの祈り(念仏)、自己観察を続けながら、それが向こうからやってくるのを信じて待っているしかないのではないか、それが今の僕の心境です。
さっきの彼の役に立つようなものからはいまだ程遠そうですが、このテーマは、これからも再三出てくることになると思います。
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