我々を超えた大きなものとはなんですか?どんな感覚でどうすれば感じられますか?運命や縁のような意味合いでしょうか?との質問をいただきました。
『生かされている感じ』でも、似たようなことを書きましたが、我々を超えた大きなものとは何ですか?と聞かれて、最初に浮かぶ答えは、「僕もそれを知りたい。僕は、それを(我々を超えたものに生かされている感じを)体感するのを生きる目標だと思っている。ちゃんとわかっていない今の段階では答える資格がないような気がする。」というものです。
まあしかし、ここでも気を取り直して、心に浮かんで来ることを書いてみます。
どうすれば感じられますか?については、『生かされている感じ』に書いたことと重複しますが、まずは呼吸法がおススメです。
近藤先生が、神社やお寺に行ってみること、参道をゆっくり歩いたりしてその場の静かな雰囲気に身を浸すことをいろんな人にすすめていたのを思い出します。その先生の言葉の影響もあり、僕はひところ、毎週のように山歩きをしていました。東京近郊の低山が主でしたが、一人で山の中に身を置いて、歩き回り、山の気に浸る気分を味わいました。こういうのが我々を超えた大きなものを感じるという体験に連続しているのかもしれないと思いました。
話は少し脱線します。山歩きの時、僕が行くのは平日なので、あまり人に会わないでいられることが多いのですが、たまに、中高年の集団を見かけることがありました。ぺちゃくちゃ喋りながら歩いているのに出くわすと、嫌悪感と拒絶感が湧いてきて、「こんにちは」と声をかけられても、とても挨拶を返す気分になりませんでした。顔を合わさないように通り過ぎるか、場合によっては睨みつけて行き交いました。多分、ここにも僕の至らなさが出ているのでしょう。我々を超える大きなものに生かされているとの感じ方がもっと増せば、拒絶感は減るのだと思います。好感を持つことはなさそうですが。
どうすれば感じられますか?について、僕が最も言いたいことは、それは精神分析を受けることだ、というものです。このブログ全体のテーマです。分析の最終目標はそれがわかることだ、と言おうとしてます。ここでは詳しく述べません。
どんな感覚か?について思い浮かぶのは、例えば、僕の心臓を動かしている力と、冬になると木々の葉が落ち春に向けてだんだん芽が膨らんでいくところに働いている力が同じものだ、同じものが色々な風に表れている、そういう表現です。「木と自分が根っこのところでつながっている」とか、「木と話しをする」とか、そんな表現に接する時があります。僕の感覚より、より直接的でより深いように感じます。僕の感覚は、"いのち"という言葉に引っ張られているところがあって、まだまだ観念性が混じっているのかもしれません。
運命や縁のような意味合いでしょうか?から連想することがあります。中学生頃からある、僕にはなんだか気になる感覚があります。歴史の授業で、例えば、「関ヶ原の戦いでこうしていれば豊臣方が勝っていたかもしれないのに」と同級生の誰かが言った時、何か違和感を感じたのが始まりだったと思います。その違和感は、仮にそうなっていたら自分達は存在しないんじゃないか、というものです。その後もふとした折にこの感覚におそわれます。自分が生まれる前の出来事のどこか少しでも実際と違っていたら、自分はこの世に存在していないのではないか。僕が生まれる契機になった両親のセックスの、例えば時間が少しでもずれていたら、僕はこの世にいないんじゃないか、そう思えて仕方がないのです。『袖すりあうも多生の縁』という言葉の意味するところと、僕のこの感覚は、全く同じかどうかはわかりませんが、近いものがあるのは間違いなさそうです。そして、多生の縁を深く実感することと我々を超えた大きなものに生かされているとの体験が、近縁なものであるというか、本質的につながっているというか、それも間違いなさそうな気がします。
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