精神科医を目指したきっかけ?(どんな少年時代、青年期を過ごしたのか?)との質問をいただきました。
こんなことがあったから精神科医を目指そうと思ったというようなハッキリ意識できるきっかけはないのです。
3,4歳から小学校6年まで住んでいたところが、父親が所長をつとめる結核療養所の社宅でした。社宅は療養所のすぐそばの池の畔に建てられていました。結核の療養所というのは、大体、人里離れたところにあったものです。その例に漏れず、福島市郊外の山の中に立地していました。阿武隈山地の北の端に位置するところです。そこからバス停まで歩いて山を降り、まだ舗装されていなかったでこぼこ道を、バスで2,30分揺られて、福島市にある幼稚園と小学校に通いました。学校から帰ると、近所に同い年ぐらいの子供がいなかったので、一人で遊ぶしかなかったんだと思います。山の中を駆け回っていました。銅が出たことがあるとかで、あちこちに洞窟が掘られていて、そこを探検したり、水晶を見つけたり、木に登ったり、遊び場には不自由しませんでした。
父親の勤める結核療養所から、多分200メートルも離れていなかったと思いますが、もう一つの山の陰に隠れるように、私立の精神病院が建っていました。そのそばを通るのは、なんとなく恐かったのを憶えています。外から鉄格子が見え、叫び声が聞こえてきたこともありました。ですが、うちと似たような作りの社宅に住んでおられた院長先生ご夫妻のところに行くのはちっとも怖くなく、子供がいなかったせいもあったのでしょう、本当に可愛がっていただきました。
小学校の低学年の頃、同級生の家に遊びに行きました。福島市の街中にある家です。彼の家の庭で二人で何かをして遊んでいた時、便意を催し、いつもの習慣でそこで大便をしたんです。野糞です。それを見た同級生の驚いた表情。その表情を見た瞬間、これはまずいと感じ、彼に、「二人だけの秘密にしてくれ、うちの人には言わないでくれ」と頼みました。すぐに、その頼みがかなえられない事実に直面しました。彼の両親から、多分、叱られはしなかったように思います。笑いながら、「うんこはトイレでしなさい」と注意されました。
今回の質問を読んですぐ思い出したのがこのエピソードです。精神科医を目指すきっかけだと言えないことはないような気がします。
仮に僕と同じように、一人で山の中で過ごす時間が多い子供がいたとして、野糞が習慣になるものかどうか?自宅にはそんなに時間がかからずに戻れるわけですから、自宅で大便をしたくない何か無意識的な理由があったのではないでしょうか。つまり、母子関係の問題がもうすでにここに出ていた可能性が高いという気がしてなりません。
また、野糞を目撃した友人に、親に黙っていてくれと咄嗟に頼むところには、明らかに、僕の防衛の特徴、隠す、が出ていると思います。
カタルシスという言葉があります。浄化と訳され、精神分析の用語として用いられることが多いと思います。ここでは、本音を出してさっぱりするという意味だ、としておきます。ところで、この言葉のもともとの意味は、便通なんだそうです。これも僕の分析の時間の中で近藤先生から教わったことです。どのような流れからその話になったのかはよく憶えていません。内面をopen upしていくこと(浄化を体験すること)の僕にとっての困難さがテーマになっていたセッションだった気がします。ひょっとしたら、さっきの小学校低学年の頃の思い出を話した時だったかもしれません。いずれにしても、なんだか自分は大便と縁が深いんだなあとか、確かに自己表現と大便を出すこととは、特に羞恥心の強さの点で、僕にとっては似た感じだなあとか、そんな感想を抱いた記憶が残っています。
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