研究会で「この人は根が健康的だ」との先生の発言を聞きましたが、健康的という言葉でどんなことを指しているのか教えて下さい、との質問をいただきました。
確かにそんな風に言った記憶があります。その時は何気なく言いましたが、質問をいただいて少し考えてみることにしました。
症状があるとかないかとか、社会的にうまくいっているとかいないとか、更には精神医学的な診断の観点も無関係です。
その人の健康度を測る時、二つの面を見ようとしている気がします。より先天的で、素質に根差していると思われるものと、殆どが生まれた後の環境によって決定されると思われるものと、その二つです。いずれも己を知る事に関しています。先天的なものと後天的なものの両方にアンテナを張ってその上で総合的に判断しようとしている気がします。
先天的なものから述べます。自分を知ろう、自分に向き合おうとする気持の強さです。その気持ちの強い人がより健康的だということです。おそらく誰にでも、自分を知ろうとか自分に向き合おうとか、そういう気持ちがあるのだと思います。多くの場合は、挫折を味わったり、メンタルな問題が生じたり、死に直面したり、そういったことが契機になって、その気持ちが自覚され、意識してその方向へ進み始めるものだろうと思います。僕は毎日そういう方たちと接しているわけですが、自らに向き合おうという気持ちの強弱には、人によって結構差があると感じます。その差は、生い立ちによるものでは説明できないとも感じます。また、世の中には、はっきりとした契機がなくても、あるいは特に本人が自覚せずとも、また、親に躾けられたからというわけでもなく、自分に向き合おうとする傾向の強い人がいるように感じます。それらを考え合わせると、自分に向かおうという気持ちの強弱は、素質によるところが大きいと言えそうです。
健康度を測るもう一つの尺度は、自分を知っている程度です。自分を客観的に見れている度合です。自分についての思い込みの度合いだと言っても同じで、思い込みの少ない人がより健康的だということです。自己評価の客観性が高いと言ってもいいと思います。ここは、上述のように、何かの契機によって自分を知ろうとする気持ちが自覚され、その人が意識的にそれを目指そうとするまでは、生い立ちによって決定されると言っていいのではないでしょうか。
思い込みについて少し詳しく書きたくなりましたが、それは次回に譲ることにします。
己を知ることに関する上記の二つの面を見てその人の健康度を総合的に判断すると書きました。言葉にするのは簡単ですが、実際には、そんなに簡単でありません。というか、物凄く難しいです。素質的にその気持が強くさらに生い立ちも比較的恵まれているとか、あるいはその正反対の場合は、まあそれでも見当がつきやすいのですが、大抵は、もともとの素質としては結構向き合おうとする気持ちがありそうなのに、思い込みの度合いが軽くない場合です。たまには、思い込みの程度は重くないのに、どうも向き合おうとしないなあと感じさせられる方もいます。
二つの面とも、分析治療がある程度進まないと見えて来ず,仮にそれぞれについての見当がついて来たとしても、じゃあ総合するとどうなるか?のところがまた難しいのです。
こんな風に書いてみるまで自覚しなかったのですが、このような観点から健康度を測ろうとするのは、クライエントの予後を予想しておきたいという気持ちが働いているからだという気がしてきました。治療契約を結ぶ時の質問で一番多いのは「どのぐらい時間がかかりますか?」です。「最も正直な返事は、わかりません、です。少なくても年単位だとは思っていて下さい」と答えることが多いのですが、ちょっと素っ気なさ過ぎるようで何か気が引けます。もう少しはっきりした返事をしたい気持ちがあります。ここまで書いて、また思い直しました。経験が増して、仮に今述べたような意味での健康度をかなり正確に測れるようになったとしても、予後に関しては、他にもまだまださまざまな要因が関係します。相性の問題、クライエントの現実状況が内面に向かうことをどの程度許すかという問題、金銭問題などなど、他にも沢山ありそうです。やっぱり、どの程度の時間が必要かとの質問には、さっきの答えで許してもらうしかなさそうです。
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