前回、健康的であるということとは思い込みの少ないことだ、と書きました。そこで、思い込みとは何か、少し詳しく述べてみようと思うのですが、その前に触れておきたいことがあります。
たまたま生い立ちに恵まれて最初から健康度が高く、自分に対する思い込みの少ない人がいるとします。そういう人でも、人生経験を積み重ねることによって、それは何らかの意味での挫折を経験することを意味すると思うのですが、自分自身の真の姿に気づかされる、つまりは思い込みの更に少ない境地に至るものだと思います。順調に人生を過ごし、大した挫折を経験せず、山の尾根ばかりを歩んでいるような(つもりになれている)人は、仮に最初はその程度が強くなくても、思い込が錆びついて訂正不能になり、結果として思い込んだまま一生を終えることになるのではないでしょうか。一方で、最初の思い込みの強い人は、途中まで周囲の環境に適応していたとしても、過剰適応の無理が続かなくなり、挫折を経験することになりがちです。そこで、挫折を、真の健康に向うために与えられた契機だと捉えよう、そう提案したいのです。
さて本題に入ります。まず、思い込みのない境地を描写します。実際にそこに至るのは難しくても描写するのは簡単です。何度も書いていますが、我々を超えた大きなものに生かされている、という自己認識です。孤独であること、無力であること、そこを深く体験することに連続していると思います。
本当にそういう自己認識を持っていそうだと感じた人は、僕の出会った人の中では、近藤先生以外にはいません。逆に言えば、出会うすべての人に何らかの意味での思い込みの存在を感じます。大雑把に言うと、僕の知人、友人たちは、自己評価の高い、普通に言うと自惚れている人が多いように見えます。僕が毎日出会っている患者さんたちには、自己評価の低さ、自分をダメだと感じている、いわば自己嫌悪の強さが目立ちます。
自分を現実以上に優れていると感じる思い込み、自分をダメだと感じる思い込み。全く正反対ですが、実はどうもこれは一つの事象の裏表のようなのです。片一方が全く無意識であることもあり、いくらかは意識されている場合もありますが、いずれにしても、片方のあるところには必ずもう片方があると言って良さそうなのです。表面的には全く矛盾する思い込みが同一人物の中に同時に存在する、そしてどうも一つの事象の別の表れ方のように感じられる。ここまでは僕の実感です。次に、この実感について、論理的な説明が可能かどうか、あるいは理解しやすくなるストーリーが作れるかどうか、試みてみようと思います。
『虐待の連鎖その三』で、潜在的孤独感との言葉を用いて仮説を提示しました。今回の試みの為にも役に立ちそうな気がします。潜在的孤独感の定義は、子供の自発性が母親の自己中心性という壁にぶつかる時の衝撃だ、というものです。「そもそも自発性なんてものがなければ衝撃を受けなくて済むのになあ」とでもいうような心理が無意識のうちに働くとの想像が浮かびます。孤独感が潜在的であるための一つめの条件は、自分の自発性があってはならないものだ、つまりはだめなものだ、とすることではないでしょうか。ここに自己嫌悪のもとがあると考えられないでしょうか。孤独だとの認識よりは自分がダメな方がまだ耐えられる、との言い方がいいかもしれません。孤独感が潜在的であるために必要なもう一つの条件が、孤独ではないと思い込むことだと思います。母親とのずれなんてそもそもない、母親と自分とは一体であると思い込むことです。自己評価の高さのもとはここにあると考えていいと思います。
自己評価の高さも低さも、いずれも、潜在的孤独感が顕在化しないためのものだと考えると、一つの事象の裏表であることの一応の説明がつく気がします。衝撃を自覚せずに済む為の無意識的な努力の結果が、大雑把に言うと、その人のより自発的な面(身体性的、見えにくい、より無意識的な)を嫌悪し、適応的な面(知性的、見えやすい、意識性の強い)を誇ろうとするに至る、とまとめられそうです。
無数にある思い込みの中で、自己評価の高い低いを取り上げているのは、これが必ず根っこにあると考えるからです。すべての思い込みがこの基本的な思い込みと無関係ではないと思います。
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