前回、『思い込み』の中で、"自己嫌悪"に触れました。そこからの連想で、完全主義について書いてみたくなりました。
"自己嫌悪"というと、パッと、"完全主義"という連想が浮かびます。多くのセッションの中で、「完全主義的な人には自己嫌悪がつきものだなあ、しかも自己嫌悪の度合いが強い感じがするなあ」という印象を持つからです。そう感じるのに何か理由がある筈だとの問題意識が浮かぶので、それに答える試みから始めてみようと思います。
完全主義という心理を説明する時、よく次のたとえを使います。
床から天井に向かって本を積み上げている場面を想像して下さい。頑張って一生懸命積み上げながら、もう一人の自分が屋根裏部屋にいて、現時点で本が天井に届いているかどうかだけを問題にしている。そこだけに注意を向けている。それが完全主義の心理です。仮にあと一冊で届くところまで積みあがっていたとしても、今現在届いていないことには変わりがないので、それまで積みあげたものには何の意味もないと感じます。
このたとえは、完全主義心性の悉無律性を良く表わしています。オールオアナッシングです。
完全主義的な人に自己嫌悪を特に強く感じる理由が、このことと深く関係している気がします。
オールオアナッシングの、ナッシングの方を強調したい場合に、次のような質問をすることがあります。
「氷の上を、普通の靴のままで、滑って転ぶことが絶対にあってはならないという条件のもとで目的地まで歩けと言われたとしたら、どうしますか?一歩でも足を踏み出せますか?」と。たまに、僕の意図とは違う返事が返ってくることがあり、それはそれでその答えにその人の特徴が出ているので、決して無駄ではないのですが、大抵は、「一歩も歩けないと思います」という答えが返ります。そこで、「完璧に振る舞う、この場合は絶対に滑って転ばずに目的地に着く、ということに囚われると、逆に何も出来なくなるなるという感じがわかるでしょう」と話します。
氷の上を歩く時、滑るのはもちろん当たり前だし、多少はバランスを崩して転ぶことがあってもいい、という前提があるなら、大分違ってくると思います。その前提のもとで誰かそばにいて励ましてくれる人がいたらもっといいでしょう。練習して歩き方のコツを掴むということもあるでしょうし、そうすればほとんど滑らず、転ぶこともなく、目的地まで着くようになれる可能性だって十分にあると思います。
全く動けなくなるのは、今すぐに完璧でなければならないからです。そして、歩き始めようとする瞬間、それはどうも出来そうもないとの予感が生じるからです。歩いて試しさえしなければ、本当はすでに完璧で目的地まで転ばずにつけるんだとの幻想を壊さないでいられる、という心理もあるかもしれません。
この例は、例えば宿題を、期限ぎりぎりになるまで全く手を付けず、最後は徹夜して何とか間に合わせるという、よく耳にする話にも通じると思います。
以上に挙げた三つの例とも、完璧イメージに縛られていると言えば同じです。完璧は現実にはありえないとの認識が不十分です。そして、このイメージに縛られていると、現実には実現することが不可能だからこそ、幻想にすっかり浸っていられる時期がそうは続きにくいということがありそうです。第一の例のように、努力しても努力してもなかなか天井にたどり着かないと感じ、それまで積み上げたものに全く価値を見出せなくなるか、あるいは、第二、第三の例のように、全く動けなくなる(時期が現れる)か、いずれかにならざるを得ないのではないかと思うのです。
その時に、元々ベースにあった自己嫌悪が刺激され、意識されないわけにいかなくなる。そう考えれば、冒頭の問題意識にある程度の答えが出たことになるのではないでしょうか?
ここまで書いて、一見全く正反対のものが一つの事象の裏表であるという点で、今回のオールオアナッシングが前回の『思い込み』の内容と全く同じであること気が付きました。オールオアナッシングが同じ事象の裏表であることは、当たり前すぎて、自己評価の高い低いについてそう書いたこととのつながりを自覚しないままに書き進めていました。そこに気が付いてみると、オールオアナッシング(完全主義)は自己評価についての基本的な思い込みの象徴のようなものだ、と言いたくなりました。
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