『完全主義 その一』について、次のようなコメントというか、ご質問をいただきました。
私は完全主義に近いかもしれないし、かつては完全主義が強かった時期もありましたが、今ではそこまでとは思えません。なのに自己嫌悪を感じることが多いです。日常生活において。じゃあ何故なのでしょうか?もっと自己嫌悪を感じる時間が少なくなれば楽になれるのに。全くなくならなくてもいいから。なくなるなんてそんなことは期待していないです。オールオアナッシングの中間にいるように思えるのに何故自己嫌悪が多いのかがわかりません。もっと何かヒントが欲しいです。ブログの記事は抽象的な言葉や文が多くて、小さなことでももっと具体的にお願いします。
質問に感謝します。『完全主義その一』で、完全主義と自己嫌悪は同じ事象の裏表だととれるように書きました。同じ事象の裏表なら、一方が減ればもう一方も減ってもよさそうなのに、現実にはそうでない。それはどういうことか?そういう疑問だと受け取ってお答えします。僕の説明の不備や、整理のついていなさを適切に指摘していただいたと感じます。
なるべく具体的にと試みてはみますが、どうしても抽象的というか理屈っぽくなってしまいそうです。少し我慢して付き合ってください。
実は、完全主義(オールオアナッシング)と自己嫌悪が同じ事象の裏表だとは書いていないのです。『思い込み』で、自己評価の高い低いが同じ事象の裏表だとは書きました。その考えは変わりません。その後の『完全主義その一』で、完全主義が自己評価についての基本的な思い込みの象徴のようなものだと書いたので、その一文が誤解を呼んだのだと思います。反省とともにその一文を取り消して、次のように言い直したいと思います。
自分がすごい(良い、偉い、普通だ、まともだ)と思っていられる(自己評価の高い状態の)うちは、自己評価の低さは自覚されません(裏で影をひそめています)。挫折体験をするとか、何かきっかけがあって、そう思っていられなくなると、自己嫌悪が顔を出してくるわけです。完全主義の場合には、自分を完全だと思いこめないと自己評価の高い状態が続かなくなるということになりそうです。ところが、完全な自分ということになるとさすがにその思い込みを維持するのは現実がなかなか許してくれない。そこでどうしても裏に隠れている自己嫌悪(自己評価の低さ)が表に出やすくなってしまう。これが『完全主義その一』の論点でした。
これに加えて、次の考えが浮かびました。そもそも自己評価の低い度合いが強い(自己嫌悪が強い)から、こちらを裏だとすると、表の自己評価の高さにも度合いの強さ(完全性)が必要になってくるのではないか。
完全主義というのは、百パーセントを目指す心理です。百パーセントでなければ自己評価の高さを維持できない気分というのは、なんだか追い込まれているような、焦りというか切迫感というか、そんな感情をうちに含んでいる気がして仕方がありません。
これらのことから、次のように言いなおさせてください。完全主義は、自己評価についての基本的な思い込みを維持するための、見えやすいけれども危うい方法(防衛)である。
さて、質問に戻ります。質問者はひょっとすると治療を受けているのでしょうか?そうだとすると、完全主義傾向をある程度客観的にみるようになり、その程度が軽くなるプロセスを体験しているということでしょうか。完全主義が減って自己嫌悪を感じる度合いが増してきたのなら、それはとても自然な流れだと思います。進歩です。完全な自分という自己イメージに同一化出来なくなった時点で、どうしても自己嫌悪を意識せざるを得ないし、完全主義が減れば、今までそれを目指すことで自己嫌悪から逃れようとしてきたとも言えるわけですから、向き合わざるを得ないのです。
大事なのは、自己嫌悪が全くなくなることはないにしても減ってていくことですよね。それって、自分がだめで嫌な人間だって思っている、でもそれはひょっとしたら間違いかもしれない、錯覚かも知れない、自分がそう思い込んでいるだけかもしれない、そういう感覚が育つことだと僕は思います。そのためには、自分の中に自分を嫌っている感情があるとの認識(自己嫌悪を感じる)が、むしろ必要なこと、避けては通れないことだと思って欲しいのです。
自己嫌悪を感じる時間が少なくなればいいと願う気持ちになるのはわからなくはないのですが、その願いをとりあえずは引っ込めて、「ああ自分にはこういう感情(自分をダメだとか嫌いだとかと思う)があるんだなあ」と捉えられるようになることを目指してください。また抽象的な言い方になってしまいますが、それが自己嫌悪を客観視するということです。このステップを通ることが自己嫌悪が思い込みであるとの感覚が育っていくための(自己嫌悪がなくなっていくための)王道だと思います。
「お腹がすいたなあ」と感じる。「眠くなってきたなあ」と感じる。尿意を感じる。習慣的自動的に誰でもがやっていることです。いや、そういう感じをちゃんと感じず、食事をしたり、床に就いたり、トイレに行ったりしていると言った方が正確かもしれません。それをちょっと自覚的に、意識してやってみてください。自分の中に自然に生じてきたものを感じる(見る、聴く、注意を向ける)という態度を育ててください。その感じを掴めれば、自己嫌悪を客観視するというのも、態度としては全く同じなので、決して不可能なことではありません。
自己嫌悪に対しても、完全主義に対しても、それらを客観視する態度が持てるようになったら、それらを見ながら浮かんでくるもの、何か気が付くこと、をさらにまた観察してください。治療を受けているのなら、それをセラピストに話してください。
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