2014年4月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2014年4月のブログ記事

仮説

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 完全主義についてはまだまだ書き足りないのですが、筆が進みません。僕の中での熟し方が足りないのかもしれません。少し置いておいて、先に、孤立型と依存支配型について書いてみようと思いつきました。その前に、これまでに出てきた仮説を整理し、まとめておきたいと思います。

 潜在的孤独感というのが僕の仮説のキーワードです。子供の自発性と母親の自己中心性がぶつかることによって子供側に生じ、無意識に刻印されたものだと定義しています。

 ぶつかった衝撃をそのまま衝撃として感じられない。ずれをずれとして認識できない。そこで、自発的な部分をダメなものだとする感覚が生じ、自己嫌悪の元となり、母親との一体感を得るため(見捨てられないため)の無意識的(後には意識的にも)な努力が始まります。環境に適応するための努力と言ってもいいでしょう。母という環境に適応するためのやり方が、若干の修正はあっても、ベースのところはほとんどそのまま、社会環境に適応するためのやり方になります。僕は、自発性と強迫性とを対比的に使うのが好きですが、この努力は強迫性を帯びざるを得ないということになります。

 次に、このようにして始まった、環境に適応しよう(生き延びよう、安全を得よう)との努力を、価値づける心理が生じます。そして、外からの色々な刺激とあいまって、理想の自己イメージが形成されます。これらのプロセスのほとんどは無意識のうちにおこなわれます。

 努力が向かう先、理想の自己イメージ、に対する態度の違いを、(狭義の)ナルシシズムと完全主義とにわけました。自己イメージに割と簡単に同一化出来てしまうグループと、なかなか同一化出来ずにさらに努力を続けようとするグループです。
 
  次に、努力そのものの質の違いを、大きく、孤立型と依存支配型にわけようと考えています。そしてこのような努力の総体を"我"と呼んだらどうだろうと提案します。孤立型と依存支配型という見方を横軸に、完全主義とナルシシズムという見方を縦軸にして、その人の"我"の全体を理解しようというわけです。

 もう一つの提案があります。心を三つの層にわける見方をここで導入したいのです。これも近藤先生からのものです。盗用して僕なりに使わせていただくことにします。
 
 繰り返しますが、我とは、潜在的孤独感を潜在的にしておくための意識的無意識的な努力の総体です。その努力のうち、知的な面、思考、想像、イメージなどを第一層、感情や本能,身体性に関わる部分を第二層と呼ぶ、ということにしたいのです。

 第三層というのを、我より深いところにあるもの、我と拮抗する傾向があるものとして捉えています。誰にでもあるけれども、殆どの人が自覚していない層です。我々を超えたものに生かされていると感じる事が、その層の体験を代表します。祈り、感謝、安心、歓喜の層であり、創造性の源でもあります。霊性とか宗教意識とかの表現がピンとくる方がいるかもしれません。人間の深い自発性と連帯している層だとも言えるでしょう。
 
 この見方を導入して、治療の流れを描写してみます。まず、第二層に注目します。色々な感情を少しづつ掘っていきはっきりさせる。そして受け入れられるようになる。別に言うと、不安を友達として、怒りや嫉妬に向き合い、次第に潜在的孤独感に近づいていく。その方向への動きと軌を一にして、第一層を含めた我がそれとして全体的に見えてくる。それらの進行とともに、母とのずれによって伸びることが抑えられていた自発性が、息を吹き返し、育ってくる。
 
 三つの層に対応させて、我が全体として見えてくるプロセスを第一プロセス。浅い感情から深い感情まで徐々に受け入れていくプロセスを第二プロセス。自発性が育ってくるプロセスを第三プロセスと呼ぶ、というアイディアが浮かびました。
 
 治療というのは、この三つのプロセスが有機的に関連しあいながら進行していくものだ、と言えそうです。第二プロセスが進行し、ついに、過去の母親とのずれが傷として刻印されていることを感じるようになった時、つまり、潜在的孤独感が潜在的でなくなった時、その地点では、我が全体として見えるようになっていることにもなります。それまで少しづつ育ってきていた自発性が、その地点を境にして、場合によってはひとっ跳びに、その深さを増し、ついに第三層からのものとして感じられるに至る。その体験を治療の最終目標だと位置づける。これが僕の仮説の概略です。
 
 
 
 

 

 

完全主義 その五

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  完全主義を100パーセントマイナスなものだと捉えていたが、入院中の病院の医療スタッフから、「完全主義をいい方に向けられるといいですね」というアドバイスを受け、その言葉が心に残った、という内容のコメントをいただきました。触発されるものがあるので、書いてみます。
 
 完全主義をいい方に向けるという発想が新鮮に感じられた、ということだろうと思います。完全主義は問題点であり、マイナスのものだから、克服しなければならない、ところがなかなか思うように減らないしあっちにもこっちにもある、そうすると気が付くたびにどんどん嫌になってくる、そういう悪循環から抜けるための救いの言葉に聞こえる、というような気持ちなのかもしれません。
 
 
 ここに完全主義が出ていると感じる事。それは、自己観察が一つ進んだということです。自己観察力が育つことイコール治療の進行であるとの僕の考えからすると、無条件にいいことなのですが、気が付いた本人がそう感じられるようになるまでには、相当の治療期間を必要とするのが普通です。
 
 完全主義に気が付くと、気が付いたことに喜びを感じる事が出来ないどころか、そこを責めはじめる。自己嫌悪が刺激される。すぐに自分でなおそうとする。この感じは本当にしょっちゅう経験します。責めるところや100パーセントマイナスだと感じてしまうところに同じ完全主義が出ていると感じて、そう話すと、たまには、目からうろこが落ちたような感じを持つ人もいますが、大抵は困ったような様子になります。そこで、気が付くだけでいいんだ、広がり具合がわかってくるだけでいいんだ、責めないでいるのが大切なんだ、完全主義そのものは良いも悪いもないんだ、気が付き方が増せば現実的でないものは自然に減るんだ、意識して完全を目指すならそれも場合によってはありなんだ、無意識に癖として働いているところが問題なんだ、などと色々と話すことになります。何回も何回も繰り返して話すことになります。
 
  良い悪いの判断をまじえずに見る、という態度が確立されてくるのは、僕がそのことについていろいろ話したから、それを受けて実行できるようになった、という感じではありません。もっと治療の全体の流れの中で段々そうなる、という感じです。我々の力を超えたものが働いてそうなるという感じだ、と言ってもいいです。一人で自己観察力を育てていくことの難しさがここにある、セラピストの存在の意味はここにある、という言い方も出来そうです。
 
 
 
 
  「完全主義をいい方に向けられるといいですね」とのアドバイスが、心に残り、完全主義をマイナスだと感じる感じ方が薄まり、完全主義傾向を発見していくことへの抵抗が減るなら、それは素晴らしいことです。僕も試しに、方便と割り切って、そんな風に言ってみようか、と思わないではありません。でもやっぱり僕には出来そうもない、と思い直しました。何か僕の原則に抵触する感じがあります。表面的、操作的、テクニック的といった言葉が浮かびます。自分に向き合う方向とは逆に進めと言っているような気がしてしまいます。
 
 100パーセントマイナスだと受け取らずに完全主義傾向を見ることが出来る方向を目指して、あせらず、あてにせず、あきらめず、治療を続けてほしいと願います。
 
 
 
 
 

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