完全主義を100パーセントマイナスなものだと捉えていたが、入院中の病院の医療スタッフから、「完全主義をいい方に向けられるといいですね」というアドバイスを受け、その言葉が心に残った、という内容のコメントをいただきました。触発されるものがあるので、書いてみます。
完全主義をいい方に向けるという発想が新鮮に感じられた、ということだろうと思います。完全主義は問題点であり、マイナスのものだから、克服しなければならない、ところがなかなか思うように減らないしあっちにもこっちにもある、そうすると気が付くたびにどんどん嫌になってくる、そういう悪循環から抜けるための救いの言葉に聞こえる、というような気持ちなのかもしれません。
ここに完全主義が出ていると感じる事。それは、自己観察が一つ進んだということです。自己観察力が育つことイコール治療の進行であるとの僕の考えからすると、無条件にいいことなのですが、気が付いた本人がそう感じられるようになるまでには、相当の治療期間を必要とするのが普通です。
完全主義に気が付くと、気が付いたことに喜びを感じる事が出来ないどころか、そこを責めはじめる。自己嫌悪が刺激される。すぐに自分でなおそうとする。この感じは本当にしょっちゅう経験します。責めるところや100パーセントマイナスだと感じてしまうところに同じ完全主義が出ていると感じて、そう話すと、たまには、目からうろこが落ちたような感じを持つ人もいますが、大抵は困ったような様子になります。そこで、気が付くだけでいいんだ、広がり具合がわかってくるだけでいいんだ、責めないでいるのが大切なんだ、完全主義そのものは良いも悪いもないんだ、気が付き方が増せば現実的でないものは自然に減るんだ、意識して完全を目指すならそれも場合によってはありなんだ、無意識に癖として働いているところが問題なんだ、などと色々と話すことになります。何回も何回も繰り返して話すことになります。
良い悪いの判断をまじえずに見る、という態度が確立されてくるのは、僕がそのことについていろいろ話したから、それを受けて実行できるようになった、という感じではありません。もっと治療の全体の流れの中で段々そうなる、という感じです。我々の力を超えたものが働いてそうなるという感じだ、と言ってもいいです。一人で自己観察力を育てていくことの難しさがここにある、セラピストの存在の意味はここにある、という言い方も出来そうです。
「完全主義をいい方に向けられるといいですね」とのアドバイスが、心に残り、完全主義をマイナスだと感じる感じ方が薄まり、完全主義傾向を発見していくことへの抵抗が減るなら、それは素晴らしいことです。僕も試しに、方便と割り切って、そんな風に言ってみようか、と思わないではありません。でもやっぱり僕には出来そうもない、と思い直しました。何か僕の原則に抵触する感じがあります。表面的、操作的、テクニック的といった言葉が浮かびます。自分に向き合う方向とは逆に進めと言っているような気がしてしまいます。
100パーセントマイナスだと受け取らずに完全主義傾向を見ることが出来る方向を目指して、あせらず、あてにせず、あきらめず、治療を続けてほしいと願います。
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