親子関係だけでなく、会社でのパワハラ、学校でのいじめなど、無意識の虐待が多い世の中だと感じている。何故起こるのか、構造として理解できるのか、食い止める方法はあるのか、それらについての意見を述べてほしい、とのリクエストがありました。
パワハラやいじめに加えて、DVもそうですよね。
そういうものが多い世の中だという意見には賛成です。でも、今の世の中に特に多いのではないかという意味が含まれているとすると、そこは僕にはわかりません。昔には生きていないので、昔が少なかったのかどうかわからない、という言い方が浮かびます。
というか、実は、昔からほとんど変わらないのではないか、という気がして仕方がないのです。
人間性の本質にそういうものがある、というのが僕の意見です。
相手を虐待している、攻撃している、いじめている、そのこと自体をその時に意識していることはあるかもしれません。何故攻撃するかをその人に問えば、いろいろ理由を述べるかもしれません。でも、本当のところはその人自身にもわかっていない。無意識に存在する攻撃性の発露だという面が大きい。それが事実に近いと僕は思います。
ご質問の『無意識の虐待』を、人間にとっての攻撃性の問題だ、と大きく捉えることが可能だと思うのです。
個々の事例で、何故起きたか、どういう構造か、食い止めるためにはどうすればよかったか、を検討することには意味があると思います。ただし、条件を付け加えたくなります。その検討から何かを学ぼうとする姿勢が必要だと思うのです。何かとは何か?自分の問題に通じると捉え、そこから自分の問題に関する発見を目指す、という意味合いです。
個々の事例から離れて一般的な問題として、また、自分の問題とは切り離していわば評論家的に、起こさないようにするために検討しようというのなら、それは僕の好みではありません。他人を変えることは出来ないし、世の中からそういうものがなくなることもあり得ないと思います。あり得ないことを議論するのは空しくて馬鹿馬鹿しいと感じます。
ついでに、攻撃性について、今思いつくことを書いてみます。
攻撃性はすべての人間に存在する。生命力というか生命的エネルギーというか、そういうものを仮にいくつかの要素に分解できるとすれば、最も重要な構成要素のうちの一つである。だから本来は健康的なものである。
健康的な攻撃性は、次のような場合によく表れます。真理を追究する。本音を主張する。人を理解しようとする。問題を解決しようとする。目標に向かう。悪や危険と戦う。ライバルと競う。
男性と女性どちらに多いかと問うとすると、男性の方が豊富に持っているとするのが一般的でしょうが、それは疑っておいた方がいいと思います。
この人の攻撃性はどのようなものだろうか?という視点が、その人を理解するのに役立ちます。その際、健康的な攻撃性とそうでないものとに分けて見る癖が僕にはあります。攻撃性そのものは本来健康的なものだが、僕の言うところの『潜在的孤独感』にリンクすると、健康的だとは言えなくなってくる、と考えています。
さっきの、健康的な攻撃性がよく表れる場合でも、現実には、潜在的孤独感にリンクした攻撃性、健康的なものだとは言えない攻撃性、がまず例外なく混ざっていると感じられます。今回のテーマの『無意識の虐待』は、あまり健康的でない攻撃性の発現の典型例だ、と言ってもいいでしょう。
潜在的孤独感と攻撃性がどのようにリンクするのか?攻撃性に注目してだんだん掘っているうちに潜在的孤独感に行き着く。そのことは、自己分析からも臨床での実感からも、僕にとっては疑いようがなく、だからリンクしていることには確信があるのですが、どのように?を理論として、あるいは一つのストーリーとして提示できるほどには熟していません。そのうち書く機会が訪れるような気もします。
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