自分を理解出来ている程度にしか他人を理解することは出来ない。
これが真理だという信念が最初からあったかどうかには自信がありません。でも、自分を知るために、そしてそのことがセラピストとしての実力を磨くことになると考え、分析を受け始めたわけです。近藤先生という素晴らしい人に出会うことが出来、それから21年は、分析を受けながらクライエント理解に努めてきました。近藤先生の死後、現在までの15年は、自己分析をしながら臨床に向かう日々を送っています。
その経過の中で、自分を理解する程度が増す事と臨床との関係について、感じたことを思いつくまま並べてみます。
自分についての気づき方が増すにつれてクライエントの見え方が変わってくる。今まで見えなかったところが見えてくる。それは囲碁や将棋が上達していく時に手筋や急所が見えてくる感覚と似ている。
自分についての気付きがあると自分がいつのまにか変化する。その変化に対応してクライエントにも変化が生じるようだ。自分の変化と直接の関係はなしに変化してくれる人も大勢いるが、なかなか変化の生じない人に変化が生じる時は、まず間違いなく自分の変化に対応している。
ここで少し話がずれます。自分の変化とクライエントの変化に本質的なつながりがあると感じると、自分より成熟度の高いセラピストに出会っていたら、目の前の人はもっと早く変化できていたことになるなあと、罪責感に近い感情が生じます。ここは、縁だとするより仕方がない、と考えることにしています。自分に失望して他のセラピストを探すのはクライエントの自由なわけですが、そのクライエントの決断が遅くならないためにも、自分を正直に出すことが要請されているとも考えます。
話を戻します。近藤先生との分析を振り返ると、前半は、"こび"の問題との取り組みだったなあ、との記憶が残っています。
自分自身の"こび"についての見え方が増すにつれ、自分とはちょっと違う"こび"もありそうだと感じるようになりました。"こび"とは呼ばない方がいいと思える"気遣い"、"配慮"、があることもはっきり見えてくるようになりました。
近藤先生との分析の後、比較的最近、"こび"は隠ぺいや諦めと、"配慮"は克服、解消とつながっていると感じるようになりました。 ここのところを、僕の仮説を使いながら、少し図式的に説明してみます。
"こび"と"配慮"というのは、その人の人間関係の在り方、"気遣い"の質、に対して用いています。隠ぺいや諦めと克服や解消という言葉は、その人のその人自身の感情に対する態度に用いています。潜在的孤独感が潜在を維持されるのに、大別して二つの方法があると考えます。潜在的孤独感とは"ずれ"による衝撃が無意識に刻印されたものです。衝撃にリンクする感情(孤独感、傷つき、理不尽な感じ、嫉妬、怒りなどなど)を自分の中からも隠し、人間関係の中で解消するのを諦め、我慢し、結果としてそれらの感情が麻痺、凍結される方向に向かう場合が一つ。何とか人間関係の中で解消することを目指して、それらの感情を克服、コントロールしようとする場合がもう一つです。
"こび"と隠ぺい、諦めのセットが孤立型的我を形成し、"配慮"と克服、解消のセットが依存支配型的我を形成する。
現実には、この二つが一人の中で混在しています。しかし、どちらが優勢かと見極めようとすることが、その人をわかっていくのに役に立つ、と感じられて仕方がありません。
自分自身の"こび"に向き合うところから始まって、このように、"こび"が、他人を理解するために役立つ、キーワード的なものになり得るかもしれないとの考えを持つに至りました。
ここではまず、"こび"の特徴を、"配慮"との比較を意識しながら、箇条書き的に述べるところから始めてみようと思います。
相手に合わせる。サービス。貢献。相手にとって自分が魅力的に見えるように振舞う。相手に気に入ってもらえるように振舞う。相手の問題を解決する。
本当の意味では人間関係に参加しない。自分の中の本音を出さない。
諦め。わりきり。
とぼける感じ。韜晦術。
道化師的。カメレオン的。
もめ事を嫌い、避けようとする。
その場しのぎ。
あっさり。たんたん。静か。
次回からは、今箇条書き的に挙げた項目の幾つかについて、少し詳しく説明する予定です。
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