『こびその一』の読者から、「相手と気まずくなることを避けてこびるのは悪いことなのでしょうか」とのご質問をいただきました。この質問に触発されるものがあるので、それを書いてみることにします。
こびをキーワードにして、孤立型的なあり方全体を描き、それと対比させながら依存支配型的あり方を描く。そういう予定です。今はあり方と書きましたが、そこを、"我"とか"防衛"とかと書き換えることも可能だと思っています。
ここでは"我"というタームを採用して話を進めます。
我のない人はいないと言っていいでしょう。その人の我の特徴を描写するのに、孤立型と依存支配型という視点がかなり有力なものだという気がして仕方がありません。少なくても、孤立型か、依存支配型か、どちらが優勢かというアプローチの仕方が、その人の我を理解るのに役に立たないという例を想像するのは難しい気がするのです。
我を理解する、という表現を使いました。一般化しようとすると、どうしてもこの表現になってしまいます。自分で自分の我を理解することについて言うなら、色々な気づきが重なって、次第に我が全体として見えてくる、と言った方がずっとしっくりきます。知的なものではなく、体験だ、と言いたいのです。
自分なりに自分の我が見えてきた体験。毎日の臨床の中でクライエントの我について感じる事が積み重なった体験。この二つの体験を通じて、"こび"というタームをキーワードに一般的な我の描写が出来るかもしれない、という気がしてきたわけです。
体験することが重要だ。少し極端かもしれませんが、体験することにしか意味がない。それが僕の考えです。信念と言った方がいいかもしれません。良いことか悪いことかと言ったら、体験することに悪いことはない、とさえ言えるのではないかと思っています。
そう書いてみて、自分の中に、こんな体験はしないほうがいいという悲惨な体験があるではないか、との反論が浮かびました。確かに、そうとしか思えない出来事がありそうです。でも待てよ、とまた別の考えが浮かびました。そういう出来事に遭遇し、その時には感じられなかった傷つき、悲しさ、ショックを、後から感じられるようになる、ということがあります。そういうことを本当の意味での体験と言うのかもしれません。体験するということをそう定義すれば、やっぱり、体験することはすべていいことだと言えそうな気もします。
もう一つ反論が浮かびました。体験にしか意味がないなら、多くの人が体験しているものを体験しないと劣っていることにならないか、というものです。確かに、そういうことが劣等感の原因になったり強めたりということはありそうです。でも、それは錯覚です。錯覚であることを説明しようとすると理屈っぽくなりそうなので、今はやめます。体験することはすべていいこと、イコール、とにかく何でも体験すればいい、体験の数や量が多ければいい。そう言いたいわけではないとだけ述べておきます。
こびること自体は良いも悪いもない。こびている自分を感じるという体験が大事だ。そういう体験が積み重なることがいいことだ。そう言いたいのです。
我についての描写が、自己観察に向かうきかっけになって欲しい。自己観察体験を続けるための地図として役立って欲しい。そんな願いを持ちながら書き進めるつもりです。
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