孤立型的我の特徴のうちで、"こび"に含めるのが難しそうなものについて書いてみようと思います。
まずは傍観者性について。
他人事のような態度。評論家的、批評家的態度。皮肉屋。などの表現も浮かびます。
人と関わろうとすると"こび"になりますが、関わらなくてもいい時にはこの態度が前景に出ます。あるいは、こびている中にもこの感じがちらちらと顔を出すと言ったほうが正確かもしれません。本音のレベルでは人と関わらない、本音を隠すことで安心を得る。そこが元になっていると考えると、この態度がこのタイプの特徴であることは想像しやすと思います。
道を歩いていて目の前で交通事故がおきてもそのまま通り過ぎるとか、公共交通機関の中で急病人が出て呼び出されても知らん顔をしている医者とか、そういう例はわかりやすいと思います。われ関せずえん、との言葉が浮かびます。
次の例も心理的にはほぼ同じだと言っていいと思います。
テレビのワイドショーでのコメンテーターの態度によく出ている感じです。対象から遠いところにいて、その対象の立場に立ってみようとはせず、自分の観点から、場合によっては決めつけるように、あるいは論理的、知性的に、あるいは冷笑的、嘲笑的に、対象についてあれこれコメントします。自分はその対象とは違うんだぞとか、自分だけは安全な場所にいるんだぞ、というような気分があるのを感じます。
傍観者性が他者への批評家的態度として表れる。これは、別にワイドショーのコメンテーターにだけでなく、日常生活でしょっちゅう観察可能です。
"批評家"からの連想でまた少し話がずれます。
一般的に言って、女性の方が批評家として優れているのではないだろうか、との印象を持っています。人物評はもちろんのこと、その人がある程度関心を抱いている領域については、その領域における経験がなくても、随分と正確で鋭い発言が出来るものだなあと感心する事が多いのです。
孤立型と批評家的態度には親和性があり、批評家として優れていると感じられる人にも孤立型が多いとは言えそうな気がするのです。しかし、女性に孤立型が多いわけではありません。孤立型と依存支配型の比率は男女で変わらないというのが僕の感じです。とすると、女性に優れた批評家が多いとの印象をどう説明すればいいかとの疑問が浮かびます。
この疑問は残したままにして話を元に戻します。
自分自身に対する傍観者性について触れてみます。治療の中で、その人の気持ちについて、例えば、不安だったんじゃないの、と指摘すると、特に表情も変えずに、「誰がですか?」との返事が返る場面が浮かびます。いくらかは思い当たる場合でも、「論理的に考えるとそうなるんでしょうねえ」とか、「当たっているかもしれませねえ」などと、自分のことなのに、実感的でない、まるで他人事のような返事が返ってきます。
雄弁にしかも正確に、微に入り細に亙って自分の問題について語る人がいます。しかし、その問題点を自分のこととして実感しているかというとそうではない。自分のことですから、もし実感していれば、思わず嘆息が出るとか、涙が出るとか、口調が変わるとか、何か身体的な変化を生じそうです。ところがあくまでも淡々と冷静に話します。自分が自分に対しての優れた批評家になっているとの表現がぴったりだと感じます。
自嘲や自責を、そこに傍観者性が出ているとの観点から理解するのが有意義な場合があります。自分自身に対して、前者は皮肉っぽい批評家であり、後者は厳しく断罪的な批評家だ、という意味合いです。
傍観者性は、比較的早い時期から僕の分析のテーマの一つでした。今思い出したことがあります。もう初期とは言えない頃だったと思いますが、セッションで小中学校の同窓会の話題を提出し、「同級生達と比べて、僕はその頃のことを憶えていない。多くの昔話的な話題についていけない。」と話しました。近藤先生から「そこにも君の傍観者性が出ているんじゃないか」と指摘されました。多くのものごとに対して他人事のように接していれば、感じ方が浅く、そして弱くならざるを得ない。当然のことながら記憶に残りにくい。「そうか」「もうその頃からそうだったんだ」と、これも目からうろこでした。
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