孤立型的我の特徴についてさらに書き進めます。"傍観者性"の次は、"その場しのぎ"です。
"その場しのぎ"は、"こび"の項目で詳述したい感じもあるのですが、対人関係の場面以外にも出るので、今ここで述べることにします。
相手の問題を解決しようとする、相手が困っていると助けずにいられない、という心理を取り上げます。この心理に出会うと、世話好き、配慮的、という印象を受け、依存支配型的かも、という連想が浮かびます。しかしその人が親や配偶者、さらには子供の問題を解決しようとしているその様子を何回か聴いているうちに、どうもちょっと違うなあという感じが出てきます。確かに世話を焼いてはいるのですが、底に、そうするしかない、目の前の火の粉を振り払おう、この場を何とかしなければならない、とでもいうような気分が流れています。相手を支配するとか、好きになってもらおうとか、そういう気分からではない行動だなあと感じます。
強迫的に相手の問題を解決しようとする行動に二通りある。二つを分けるポイントが"その場しのぎ"だ、と感じたことが、"その場しのぎ"に注目するきっかけだったような気がします。
注目してみると、この心理が、孤立型的我にとって本質的に重要だ、との確信が徐々に増してきたわけです。
孤立型的我の発生の瞬間を、想像を膨らませてイメージしてみます。
母親の感情表現は、母親と比べて圧倒的に無力な存在である赤ん坊にとって、それが優しくここちよいものでなければ、強く、荒々しく、激しい、そして恐ろしく、とても太刀打ちできないようものだと感じられるのではないでしょうか。その感じは、台風に直撃された一軒家というのがピッタリしたたとえになりそうな気がするのです。気配をひそめて家の中に閉じこもり、家の周りに土嚢を積んだり雨戸につっかい棒を打ち付けたりして過ぎ去るのをただひたすら待つ。
この、とりあえずの応急処置を施して首をすくめてやり過ごす感じ、この感じが染みついて、パーソナリティーの一部になる、孤立型的我を形成する、と言いたいわけです。
その人にとって困難だったり危険だったりする状況、あるいは嫌いなものをやらなければならない状況、そんな時に、この感じ、すなわち"その場しのぎ"が見えやすくなります。
早く時間が過ぎてくれ、早く終わってくれ、早く解放されたい、といった気分が底に流れています。今やっていることを楽しんでいないと言ってもいいし、自分の全体でその状況に関わっているわけではないという表現も可能でしょう。どこか投げやりな気分があるとも言えます。
投げやりな気分について,少し詳しく述べてみます。その気分が昂じてなのかあるいはその気分の変種だと言った方がいいのかはともかくとして、やけっぱちとか捨て鉢とか破れかぶれとかの表現がぴったりするなあと感じられるぐらいになる場合もあります。それらの気分のちょっとした違いや、それらの気分を自覚する程度の違いなどによって、"その場しのぎ"の表現型は、いい加減にささーっと済ましてしまうという形をとる場合と、逆に、過剰に立ち向かうという形をとって表れる場合との間に様々なバリエーションがある、そんな風に言えると思います。
やけっぱちな気分と過剰な立ち向かいがセットになっている(目をつむって危険なもの嫌なものに飛び込んでいく感じ)場合があると書いてみて、そこからの連想で、死を空想することが生きる支えになっている、という心理に触れたくなりました。日常の臨床で割と珍しくなく出会う心理です。依存支配型の人にもあるかもしれませんが、今思い出すのはすべて孤立型の人です。生きることが辛く苦しいからいつでも死ねるという思いにすがって何とか生きている、と言うだけでは不十分で、そもそも死を空想することと生きのびることが最初からセットになっているという感じがあります。最初から、滅ぶとか、消えるとか、この世からいなくなるとか、そんなイメージと伴に生きていという言い方が出来そうなのです。元々息をひそめて素の自分を殺しているようなものだからそういう空想が自ずと生じやすい、そんな想像が浮かびます。
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