暫らく放っていた完全主義に戻ります。
面接に必ずと言っていいぐらい遅刻する、という人達がいます。
自費診療で一日数人の方とだけお会いする毎日を送るようになって、およそ四半世紀になります。それを始めたかなり初期の頃から、この現象が気になっていました。一回50分の面接に、数分から長い人だと30分、毎回大体同じぐらいの時間遅れます。そのことについて、いつでもではないにしても直接話題にする機会も少なくありませんでした。そんな積み重ねから、比較的最近、この現象が完全主義と本質的に関係しているんだと確信するようになりました。
はじめのうちは、本人は否定するけれども面接に来るのが実は嫌なんじゃないか、僕への不信感の表れではないか、治療に取り組む動機が薄いんじゃないか、などの説が僕の中で有力でした。次第次第に、それらは全く間違いだとは言えないかもしれないが相当見当外れだ、と感じるようになりました。来るのが嫌だという気持ちを抱いていないらしい、それは意識レベルでだけではない、嫌だという感じがある場合でも、来ることを本心では大事なことだと思っている、そんな感じをほとんどのケースで感じるようになってきたのです。
この時間に出れば間に合うということがわかっていても、その時間に出られなくなってしまう。その時間の来る前には今日は大丈夫だという感じがしている。前回も前々回もそう思って結局遅れたけど、なんだか今日に限っては大丈夫だと思う。そして、今やっていることにひきずられて結局今日も同じことになってしまう。今やっていることに引きずられると言うより、頭の中であれもやろうこれもやらなきゃという想像がかけめぐり、それを全部満たしたい、満たせるはずだという思いに引きずられていると言った方が正確かもしれません。
頭の中の想像は、今やっていること関連に留まらず、出かけた後のことにも及びます。完全主義その四で述べた、シミュレーションです。例えば、今日出かけるのは久しぶりだから、ここでこれを買って、あの用事を済ませてと、際限なく広がります。また、この用事をこなす必要があるとすると、今日の外出を滞りなく済ませるためには、ここで荷物を預けて、この路線にして、ここでタクシーを使った方がいいかもしれない、という方向にも進んでいきます。今日の面接で何を話そうかというシミュレーションもあるでしょう。
いずれにしても、あれもこれも、ああでもないこうでもないとの想像の方にエネルギーが行って、さてこの時間に出なければならないという現実に気持ちが向かわない。ここまで書いて、このブログのどこかで書いた自分の心理とそっくりだとの考えが浮かんできました。鍵をかけ忘れたのではないかと何回も確かめる確認強迫です。あれも、頭の中の想像に気が向かっていることで今鍵をかけているという自分の行動に気が向かわない。遅刻の心理と確認強迫が本質的なところで同じ心理だと、今、発見した気分です。
要は、現実からの要請より、完全主義的内的理想イメージからの要請が優先する、ということだと思うのです。遅刻の場合は、完全主義的理想イメージがその人におまじないをかけて、大丈夫じゃないのに大丈夫だと思わせてしまう。そのせいで、本当は面接を大事だと思っているし、だから遅れないで行きたいのに、なんだかいつでも遅れてしまう。
こんな描写が真実に近そうです。
面接への遅刻は、完全主義が、自分を本当の意味で大事にする方向とは逆向きの心理だということを象徴的に示す現象ではないか、そう主張したい気持ちがあります。
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