その場しのぎの中に含めてもいいかもしれないし、その場しのぎの特殊型と位置付けることも可能だと思いますが、韜晦、について書いてみます。
"韜晦"を辞書で調べてみました。本心や才能、地位などをつつみ隠すこと。身を隠すこと。姿をくらますこと。と書いてありました。孤立型的ありかたの特徴とぴったり一致する、という感想が浮かびます。
そうすると、"韜晦"を"その場しのぎ"の中に含めて考えない方がいい気がしてきました。隠れている本心の側に近いところからだと"その場しのぎ"という表現が合って、隠そうとする防衛の側に近いと"韜晦"という表現が合う、という風に言った方がいいかもしれません。
ここで話が少しそれます。ここ最近は、孤立型的我の特徴を描写しています。そのうち依存支配型的我の特徴にも触れていく予定です。これらのことをする僕の願いは、自分の我はどちらだろう、どっちの特徴が優勢だろう、という素朴な疑問を持ってほしい、というものです。その疑問が生じたなら、あるいはすでに生じているなら、次に、自分の我を観察して行くための地図として役立ってほしいと願います。孤立型か依存支配型かという見方が、自分の我を客観的に見ていくために役に立つと信じるからです。
僕は最近、ある意味では人間の見方がとても単純になってきました。今は我というタームを使っています。ホーナイの言う、神経症的人格構造と同じ意味で使っているとどこかに書きました。それを普通の言葉で言えば自己中心性というのがピッタリだ思うのです。防衛という表現を使うこともあります。それらがすべて同じことを指しているように思えてきたのです。そして、人間にはすべて我があり、全ての人が本当は自己中心的だ、と見えるのです。
更に、我をなくしたり、神経症的人格構造を克服したり、自己中心性をなくしたり、防衛的でなくなったり、そういうことを成し遂げる事は出来ない、とも思います。自分の力では成し遂げられないと言った方が正確でしょうか。自分に出来ることがあるとすれば、自分のそういう面を自分で観察してわかっていくこと、自分の自己中心性はこういうところに出るんだなあと具体的体感的にわかっていくこと、それしかない。そのプロセスが進行すると、それにに伴って、思わぬ変化が自然に生じて来る。そこは不思議だとしか言いようがない。そしてその変化の方向は、自己中心性が減る方向にならざるを得ない。自分のこういうところが自己中心的だなあと仮に本当に感じたら、その点に関しては、人間それ以上自己中心的にはなりえない。ここが自己中心的だと本当に感じる事の出来る時点で、もうすでにその人の自己中心的でない部分がある程度育っている。
似たようなことを以前にも書いた記憶があります。まだ舌足らず感が残るので、そのうちまたこのテーマに触れることがありそうです。今回はこのぐらいにして、そろそろ本題に戻ります。
本当に色々な韜晦術があると思います。韜晦術というと忍者を連想するのですが、比喩的に言えば、忍者の技の多くを日常の人間生活で観察することが出来ると思います。まず、目くらまし、という言葉が浮かびます。煙幕を張る、も浮かびます。隠遁術、変装術ですね。
そもそも人と接しない。人目から姿を隠す。相手によって態度を変える。嘘をつく。事実を言わない。だまる。ごまかす。などというのはわかりやすい韜晦だと思います。わかりやすいものについてはここで特に詳しく述べる必要はないと考えて、ちょっとわかりにくい韜晦について書いてみます。そういうものを特に韜晦術と呼んでもいいかもしれません。韜晦であることがすぐにわかったらそれは術とは呼びにくい気がします。
まず、正直に事実を述べることが目くらましになっている場合があります。傷つけられた出来事を、その事実関係を詳しく話すことで、傷ついているというその気持ちを隠そうとする。ちっとも傷ついていないとアピールする意味で事の顛末を妙に正直に話す。
激しい感情表現や、聞いている人が驚きそうな、ショッキングな表現を選ぶ傾向、というのもちょっとわかりにくい韜晦の例です。こう書いてしまうと、あんまりわかりにくくないかもしれませんね。でも、その場では、その表現に、本心を隠す意図があるとは気が付きにくい。一応韜晦術の一つに入れておきます。
乗っているとか、調子のいい態度が韜晦術であると感じる事もよくあります。その場の話題に妙に熱心だなあ、という感じが、後から、そうか、本当は隠したいことがあったんだなあと気が付く。この感じは、ある種の面の皮の厚さとも感じられます。
とぼける態度もそうです。とぼける態度はどちらかというとわかりやすい韜晦かもしれません。が、とぼけた感じ、ボケる感じと近い意味合いで、この頃、"天然"という表現を良く聞きます。そう呼ぶ時、純粋とか、無邪気とか、とりあえずはそういう含意があると思います。確かにそういう面があることも間違いないと思いますが、実は、何かを隠さなければならないことと深く関係している場合が多いと僕には感じられます。
社会的役割をきちんとこなすことが韜晦術として機能している例は、珍しくありません。珍しくないけれども、結構わかりにくい程度が強いかもしれません。見抜かれにくい気がします。こういう時には防衛という表現を使うのが便利ですが、防衛が上手く成功している典型的な例です。孤立型的我が最も安定的でいられるのは、人の中にいて目立たない状態だと思います。
ここで疑問が浮かびました。俳優や舞台役者に孤立型が多いのをどう説明したらいいか、特に演技が上手いと言われる人達に孤立型が多い気がする、というものです。演技だということが前提になっている状況では、むしろ目立ってもいいし、感情表現が自由にできる、と考えると、矛盾していないのではないでしょうか。心理的には、人の中にいて目立たないのと同じことになるのではないでしょうか。
知的であること、弁舌さわやかで論理的であること、こういう態度が韜晦術である場合も珍しくなさそうです。こっちは結構わかりやすい場合もある気がします。
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