敏感さについて その一 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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敏感さについて その一

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 最近立て続けに、二人のクライエントから、そんなことを言うのは先生しかいないと言われました。一人は孤立型の男性、一人は依存支配型の女性です。いずれも、敏感であることに価値を置く僕の発言に対してで、その反応がクライエントから出て来るまでのやり取りもほとんど同じようだった、と記憶しています。単なる偶然ではない気もするので、ますはそのやり取りを紹介して、そこからの僕の連想を書いてみます。

 話題は、人と会うと緊張する、というものでした。二人とも、人間関係に苦手意識があります。苦手の中身は、僕からみると大分違うのですが、そこには今は触れません。いずれにしても、主観的な苦手意識が強く、実際の人間関係場面での緊張を苦にしています。緊張しないで人間関係を結びたいと願い、緊張するからうまく人間関係を持つことが出来ない、と捉えています。僕の口癖の、不安(緊張)と友達になれ、という言葉に違和感を感じています。緊張することを良いことだとはとても思えません。

 そこで、緊張するということは敏感さの顕れだという側面がある、という意味の発言をしてみました。それには二人とも思い当たらないではないようでした。なので、敏感な素質を持っていることが良いことだというのには異論がないんでしょう?と言ってみました。それに対して、すぐに肯定的な返事が返らなかったのも共通していました。二人とも、素質としての敏感さが自分にあることは認めざるを得ないようです。そして悪いことではないかもしれないが、と言って、でも、と、反論が始まりました。敏感さは弱さに通じる、弱いより強いほうがいいのは当たり前な気がする。強さ、明るさ、頭の良さ、容姿に恵まれている、そういう方が価値があるのではないのか。そうでなければ、目標に向かって努力し頑張ることが最も大切なことではないのか。鈍感力という題の本が売れたぐらいだから鈍感な方が成功しやすいのではないか。などなどでした。そのひとつひとつにもその時浮かんだことを話し、結論的に、「僕にとっては敏感なことが人間として一番大事なことだと思えるんだ」というようなことを言ったんだと思うのです。それへのレスポンスが冒頭にあげたものだった、というわけです。

 「そんなことを言うのは先生しかいない」との二人の発言に、批判の気持ちは含まれていないと感じました。そういうことをもっと他の人も言ってくれたらいいのに、という気持ちだと取れました。そして、確かにそういうことを言う人はあまりいないかもしれないなあとの思いが浮かびました。それだったら少し詳しく自分の考えを書いてみよう、そんな気持ちになりました。

 今紹介したやり取りでの敏感さとは、人の気持ちに対しての敏感さ、という意味でした。五感とは一応分けて使っていました。「目に見えないもの、すぐには結果が出ないもの、人間の気持ちもそういうもののうちのひとつだけど、そういうものへの敏感さが大事だと思う。」僕はそんなことをよく言います。でも、考えてみれば、五感を含めての敏感さと言ってもいいかもしれません。どんなことであれ敏感であることはすべていいことだと言ってしまったほうがすっきりする気がします。

 どんな人間にも必ず生きる意味が与えれている、なんらかの使命がある。という考えがあります。僕は、そうだと確信するには至らないのですが、その考え方に魅力を感じます。そうだったらいいなあ、ひょっとしたらそれが真実だという気もするなあ、といった感じです。今これを書き出してから思いついたことなのですが、どんな人間にもその人なりの敏感さが与えられているとは言えそうな気がします。何かには鈍感でも、この人はこういう領域に対してだけは敏感だ、ということがありそうな気がします。それが人それぞれすべて違っていそうな気もします。とすると、その人にとっての敏感さを発見し磨いていくこと、そのことをその人の使命と呼ぶのかもしれない。そんな仮説が浮かんできました。

 ひところサッカーをよく見ていました。リーガエスパニョーラのバルセロナとリアルマドリッドの試合が中心でした。メッシとロナウドというフォワードがそれぞれのチームにいます。フォワードとしては現段階では世界最高峰の二人だと言っていいと思います。二人は、体格やプレースタイルがかなり違います。メッシは小柄で俊敏、ロナウドは大柄でスピードや力強さにその特徴があると、対比的に形容できそうです。性格もかなり違っていそうです。でも僕には、二人に共通するものがある、と感じられます。ゴールへの嗅覚という表現は耳慣れたものですが、まあそうとでも言うしかないような何か共通した、ある種のものに対しての敏感さがある気がします。

 サッカーはいい例かもしれません。サイドの選手は足が速いほうがいいとか、センターバックは背が高くてガッチリした人がいいとか、そういうこと以上に、サイドはサイドに求めらる感受性があり、センターバックはセンターバックに求められる感受性がある、そういうもののほうが大事だ、と言えそうな気がします。それを最も感じるのは中盤のプレーヤーにです。セスク、アロンゾ、日本の選手でいえば遠藤、彼らには共通した敏感さがある、そんな気がして仕方がありません。

 一流の選手はそれぞれのポジッションでそれぞれの敏感さを発揮している、と言えるとしましょう。敏感であればあるほどプレーすることへの怖さを感じざるを得なくなる。これは理屈を抜いて当たり前な気がして仕方がありません。だとすると、怖さを感じた上で怖さを引き受けることが(怖さ、緊張と友達になることが)一流としての条件になる、そんなことが言えないでしょうか。

 敏感であればあるほど恐怖や緊張を感じざるを得なくなる。当たり前な気がすると書きましたが、これは皮膚接触、触覚、を例にとるとわかりやすいかもしれません。皮膚感覚の敏感な人は、雑だったり、ちょっと強かったり、刺激的だったりするものへの接触に、そうでない人より痛みを感じやすい。ということは、緊張しやすくならざるを得ない。

 敏感さと緊張や不安、恐怖との密接な関係にこだわっていますが、これには理由があります。不安や恐怖、緊張を感じること。引き受けること。そのことが治療にとって重要な意味があるとの僕の考えは、これまでも繰り返し述べてきました。友達になる、というのは僕独特の表現です。最近、僕が思っていたより、多くの人にとって、不安と友達になるのは難しいことのようだ、と感じさせられる機会が増えています。今回例に挙げた二人もそうですが、そもそも不安や緊張にプラスの意味があるという感覚からは相当遠い。とてもいいことだとは思えない。そして更に、そういうものを引き受け、耐えるのでも、それがいいことだと思って耐えるのと、嫌だ嫌だ、でも良くなるためには仕方がないという気持ちで耐えるのと、結果に違いがありそうな気がしてきたのです。敏感さとのつながりに目を向けることで、不安や緊張が耐えやすいものにならないだろうか、嫌わないでいられるきっかけにならないだろうか、それがこだわる理由の一つです。

 

 

 

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