恥の感情 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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恥の感情

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 恥の感情について書いてほしいとのリクエストがありました。

 最近恥ずかしいと感じるようになってきた。感じるようにはなってきたが、喜び怒り悲しみといった感情と比べるとしっくりこない。恥ずかしいとは何かという疑問がわいてくる。自分としては、恥の感情というのは弱さ無力さ至らなさの露呈によって生じるものであると考えている、そしてその感情が自分にとってしっくり来ず,恥ずかしさとは何かとの疑問がわいてくるのは、弱さ無力さ至らなさを自分自身で十分に受け入れていないからではではないかとの仮説を持っている。この点についての僕の見解や連想を聞かせてほしい、というのが質問の趣旨だと理解しました。


 僕は多分相当な恥ずかしがりやなんだろうと思います。ご質問の、恥ずかしいという感情がしっくりこないという感覚が、もし馴染みがない感じがするということなら、それは僕には不思議です。ピンときません。僕にとっては、喜び怒り悲しみよりも恥ずかしさのほうがずっと馴染みだなあという感じです。近藤先生との分析の中でも、恥ずかしいという感情がテーマになることが少なくありませんでした。一週間の間の出来事を報告して、その時とても恥ずかしい思いをしたというものから、昔のある出来事を思い出すと恥ずかしくてじっとしていられない気持ちになるとか、少し前に自分が書いたものを読むと恥ずかしくて読み続けられなくなるとか、恥ずかしさをめぐる話題には事欠きませんでした。顔から火が出るとか、穴があったら入りたいとか、そんな表現を使うことも珍しくなかったと思います。そしていつ頃だったか、結構後半だったような気もしますが、近藤先生から「恥ずかしいという話はずいぶん聞いた。そろそろもっと深いところに進んでいこう」という意味のことを言われたことがあったのです。その時の衝撃が強烈で、恥の感情というとまずはそのことを思い出します。

 僕にとっては、それ以来、恥ずかしさというのは、どちらかというと克服するべきもの、いや、克服と言うとちょっと違います。その感情に留まることをよしとしないものと言ったほうが近そうですが、そんな捉え方になっています。そうか、恥ずかしいっていうのはそんなに深い感情じゃないんだなあ、もっと深い感情があるんだなあ、という感じです。質問者のしっくりこない感じというのは、この感じに近いのかもしれません。

 僕の場合は、そこから、恥ずかしさとは何かという疑問には向かわず、恥ずかしさについてまともに考えてみようとしないまま過ごしてきてしまいました。今回上記のご質問をいただいたので、ご質問を手掛かりにして、恥の感情について考えてみることにします。

 弱さ無力さ至らなさの露呈によって恥の感情が生じるという考えには非常に魅力を感じます。ですが、こんな反論が浮かびました。自分にとってとても大事なものとか、恋愛感情とか、そういうものは必ずしも弱さや無力さ至らなさとは言えない。でも、そういうものが露呈しそうな場合でも恥ずかしいではないか、という反論です。こう書いてみて、反論になっていないかもしれないという気がしてきました。大事だと思うもの、恋愛感情、そういうものを持つ自分に自信があれば、つまりそういう自分を弱いとか無力だとか至らないとかと捉えていなければ、露呈しそうになっても恥ずかしくないかもしれない。そうなったことがないから確信は持てないものの、多分そんなに恥ずかしくはなさそうだ。

 露呈しそうなものを自分がどう捉えているか、に行きつきそうです。他人からどう評価されるかを気にする心理を自意識と呼ぶことにするとはどこかに書きました。自意識と恥ずかしさが本質的に密接な関係にあるというのはほとんどの人にとって説明不要な事柄だと思います。他人からどう評価されるかを気にする時,つまり自意識が働く時、その判断基準は結局その人の中にあるもの、その人の主観的な価値観になるとしか僕には考えられません。となると、露呈しそうなものがその人の主観的な価値観からして弱くて無力で至らないと判断された時、恥ずかしいという感情が自覚される、と言っていいことになりそうです。

 ここまで書いて、恥の感情と罪の感情との関係を今の視点を持ち出して説明できないだろうか、との問題意識が生まれました。そして、弱くて無力で至らないというのを、縮めて、"劣っている"とまとめてしまったらどうだろうというアイディアが浮かびました。優劣を恥に対応させ善悪を罪に対応させるというアイディアです。

 恥ずかしいという感情が問題になるのは、その人の中にある基準が優劣を判定するものとして機能している場合だ。一方で善悪を判定する基準が作動すると罪悪感が問題になる。更に、基準そのものへの疑いが生じると、その時問題になるのが不安という感情だ。

 これまでも、恥の感情と罪の感情を不安の親戚だ、大きく言えば不安に含めてしまっていいのではないか、との感じを漠然と抱いていました。今回のご質問をいただいたことで、以上のように、ある程度きれいに整理がついた感じを持てました。感謝します。

 不安、恥の感情、罪責感、そういった感情を手掛かりにして、自分自身の主観的価値基準を客観的に見ていく、それは自分の自己中心性についての認識を増すということでもある。そのプロセスの延長線上に真の自己受容、われわれを超えたものに生かされているという体験、があるのではないか。結局は今まで述べてきたことの繰り返しになります。

 




 

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