人間関係は誤解で成立している、という近藤先生の発言に強く印象付けられた、とはどこかに書きました。それと似た感じでよく思い出し、僕のオリジナルであるかのように使わせてもらっているフレーズがあります。
生きているっていうことは他人に迷惑をかけるっていうことなんだ。
親が子供に、他人に迷惑をかけないような人間になって欲しいと願う、という話は、そんなに珍しくなく耳にします。「うちの子には、どんな職業についてもいいし、金持ちになんてならなくてもいいから、とにかく他人に迷惑をかけないような人間になってねって言ってるんですよ。」という台詞が浮かんできます。近藤先生と話すようになるまでは、この台詞にそんなに違和感を感じていなかった気がします。経済的に自立する。公衆ルールを守る。人間関係において他人が嫌がることをしない。親が子供に望むこととしてはごく当たり前だというように、なんとなく捉えていたのだと思います。僕自身も母親からそういうメッセージを与えられていた気がします。
どんな文脈でその発言が近藤先生から出てきたのかは忘れました。でも、それを聞きその意味を教わって、ほっとするというか楽になるというか、そんな感覚が生じたことは記憶しています。目からうろこが落ちたとの表現がここでも浮かびます。
そうか、どんなに頑張ったって他人に迷惑をかけるのを防ぐことはできないんだ。人間存在をそう捉えるほうがしっくりくるなあ。そういうものだということを前提にしたほうが気持ちが落ち着く。
10年ぐらい前のことでした。二人ですれ違うにはちょっと狭いガードレールの内側を歩いていました。真ん中あたりで、行く先のガードレールが切れたところに、躊躇っている様子の人がいるのに気付きました。すれ違うのが窮屈なので僕がそこに着くまで待っていようかどうかを迷っていたのだと思います。その時、「あの人は俺のことを迷惑だと思っているんだろうな」との想像が浮かび、更に、ひょっとしたらこれって今だけの話じゃないのかもしれない、という気がしてきたことがありました。自分が動くっていうことは結局いつかどこかで誰かが迷惑することにつながっているんじゃないだろうか。そして昔の近藤先生の説明を思い出しました。何かを食べなきゃ生きていけない。その食べ物を作るのに多くの人が携わっている。その人たちに苦労を掛けている、迷惑をかけているということになる。そもそも食べるということは肉にしろ魚にしろ生きてるものの命を奪うということだ。その生き物には直接的に迷惑をかけている。食べること以外だって、君が生きていくために必要なことにどれだけ多くの人が関わっているか。
他人様に迷惑をかけちゃいけないんだよ、と教えるより、どうしたって迷惑をかけちゃうものなんだと教えるほうが、結果として迷惑をかける程度の少ない人間に育つような気がして仕方がありません。
他人に迷惑をかけないようにしなければいけない。この内的命令に多くの人が縛られています。そのことへの気付き方が増し、縛りが緩むこと、そのことが結果として迷惑をかける程度の少なさにつながる、そう言ってもいいのではないでしょうか。
ところでここで、ちょっと方向を変えてみたくなりました。他人に迷惑をかけたくないという表現は、孤立型の人からも依存支配型の人からも、そんなに頻度に変わりなく出てくる気がします。しかしその意味しているところに、微妙なというか、場合によっては相当な違いがある。
依存支配型の人が、「迷惑をかけたくない」と言う時、それはほとんどイコール嫌われたくない、と言っているようにように僕には聴こえます。依存支配型の人が「ご迷惑をおかけしました」と言う時の気持ちは、自分の言動によって自分への好意が失われても仕方がないと思っています(だから何とか許してください)、と言い換えられるように感じます。依存支配型の人にとっては嫌われないことに第一義的な意味があり、相手が迷惑をかけられたと感じているかどうかは第二義的だ、と言ってもいい。嫌われることが拒絶されることに直結している。
拒絶が最終的に怖いのは孤立型でも同じであるに違いありません。でも、嫌われることがそのまま拒絶されることにつながるわけではない。嫌われることは勿論気になるし嫌なことなのですが、たとえ嫌われても拒絶さえされなければいい、という気持ちがある。そして、自分の存在が相手にとって負担であること、邪魔であること、相手の手を煩わせることが気になる。迷惑をかけたら最後拒絶されるに決まっている、と感じている。違いを強調するために少し極端に書いた気もしますが、およそ僕の実感です。つまり、"他人に迷惑をかける"という表現は孤立型的在り方に親和性がある、と言いたいのです。
コメントする