依存支配型 その二 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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依存支配型 その二

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 繰り返しになりますが、孤立型の気遣いの仕方を"こび"と呼び、依存支配型の気遣いを"配慮"と呼ぶ、というのが僕の定義です。

 いづれも相手に合わせて相手との幻想的一体感を持つためのものです。合わせ方の特徴として、"配慮"の場合は、相手が自分に何を期待しているかにアンテナを張り、期待を察知し、その期待に応えようとする。相手の役に立とうとするとも言えるし、そのことは家庭の中で、集団の中で、社会の中で、自分の役割を見つけそれを果たそうとすることにつながる。『こび その三』で以上のように書きました。そしてそこでは、その合わせ方とは微妙に違う"こび"の様子を書く方向に進みました。
 
 今は、依存支配型的我を全体として描こうとしています。孤立型的我の描写を、まずその気遣いである"こび"を書くところから始めたように、ここでも、"配慮"についてまず述べて、次に全体の描写に進むという順番を取ろうと思います

 "配慮"という気づかいは、"こび"と比べるとわかりやすいと思います。気を遣うという時に多くの人が思い浮かべるのは、配慮のことではないかという気がします。要するに目に見えやすい。目に見えるような気遣いを配慮と呼び、気を使っているのかいないのかはっきりしないような気遣いを"こび"と呼ぶ。大雑把には、そんな風に言ってもいい気がします。だから、"こび"についての説明は必要でも、"配慮"についてはあまり説明の要がない、と言ってしまいたい気がします。

 しかしここで、"配慮"について、『こび その三』で書いた定義では不十分だということに気が付きました。期待に応えようとする、役に立とうとする、役割を果たす、と表現するのは、間違っていないし、本質をついていると思います。でも、"こび"でも、今のように表現するしかない場合があるなあ、とのひっかかりが僕の中に生じたのです。その違いをはっきりさせておく必要がある、と考えます。

 孤立型の人が、相手の期待を察知し、役に立とうとし、例えば妻として、母としての役割を果たそうとする時、それは、相手から認められよう、評価されたい、が第一義的な目的ではない。そのように振舞うことが、その場を収めるために必要だと感じているからと言ったほうが近い。自分がそう振舞うことが、その場の平穏を保つことにつながる、もめ事が起きないことにつながる。そのように振舞っていい人だと思われれば嬉しいが、それは、そう思われて直接喜んでいるというより、良い人でいればその場が和むことにつながるだろう、少なくてもその場での自分の存在が許されることにはなるだろう、だからそう思われるのが嬉しい、という感じ。その場しのぎが第一義だと言うのがいいかもしれない。

 "配慮"は、相手の期待に応え、相手の役に立とうとするのが、評価されたい、好かれたい、という気持に裏打ちされている。これを付け加える必要がありそうです。人間関係の中で直接的、積極的に安心を得ようとする感じ。集団や組織の中で役割を果たすことがストレートに安心につながる感じ。

 ここまでのことを戯画的に言ってみたくなりました。世話好きな人は大抵依存支配型だ。でも世話好きな人たちの中に、たまに、孤立型の人がいる。その人たちが世話を焼くのは、評価されたいから、好かれたいからというより、自分がやらなきゃその場が収まらないと思っているからだ。

 "配慮"についてはこのぐらいにして、依存支配型的我全体の特徴に進みます。

 まずは優等生性です。

 ここでの優等生は、学校の成績のことではありません。良い子性と言ってもいい。いわゆる真面目な感じ。努力を厭わないところがある感じ。そしてその努力は、いわゆる付きの、正しいもの、いいもの、綺麗なもの、ポジティブなものが実現される方に向かう。いわゆるを言い直すと、世間常識的な意味合いで、がいいかもしれない。そして秩序志向的。

 優等生性を浮き彫りにするために、先ほど、配慮について使った方法をまた用います。孤立型の人でも優等生だと形容したくなる場合がある。そう表現せざるを得ない場面がある。偽物の優等生性、と言っておきます。そこをはっきりさせることが本物の優等生性に迫ることになるのではないか、という試みです。

 公衆道徳にうるさい、公衆的なマナーを破る人に過敏にと言っていいぐらいに反応する。これは大抵孤立型の人だ、という印象があります。行列に割り込む。並んでいる人がいるのに食事が終わってもなかなか帰らない。という例を今思い浮かべています。いずれの例でも、自分が直接被害にあっているから怒っているのではない。自分のことは置いておいて、その場にいる自分以外の人たちの間の平等にこだわっている、という感じがある。これは本物の優等生性ではない。

 僕の言うところの本物の優等生は、常に自分自身が正しいこと、いいことを行おうとの努力をしている。他人が間違ったことをしているのは、その間違いで直接自分が被害にあうとか、間違いを犯した人がなおかつ評価されるということでもない限りそんなに気にしない。自分の属している集団への所属意識が強く、その中で自分への評価が平等になされているかどうかが第一関心事。その集団の中での自分の位置を常に気にしている感じがある。そしてその集団、組織の秩序が維持され調和がとれている状態を希求する。が、ほとんどの人が、不公平感、不遇感、自分は恵まれていないという感じを抱いている。

 

 

 

 

 

 

 

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