2017年6月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2017年6月のブログ記事

不安 その五

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 最初の高血圧発作の時、「鉄槌を下された」感じがした、と書きました。ガーンと後頭部を殴られた感じ。僕には、何か目に見えないものが自分を叱っている、傲慢さに気が付けと言っている、そんな風に感じられたわけです。そして、その後現在まで、何をどのように叱られたのかを知りたい、という気持ちがくすぶり続けています。そのためには、高血圧発作の後新たに生じた不安が大きな手がかりになるような気がします。その不安のメッセージを正確に受け取ることが、鉄槌に意味を知ることにつながる。そう思えて仕方がありません。

   今現在、下腹部に感じられる不安感がすっかりなくなったわけではありません。しかしそれでも、主に呼吸法をしている時に、そこに向き合う、そこの部分と対話する、そこからのメッセージに耳をすますつもりになる。そういうことを繰り返しているうちに、高血圧発作直後のそこの感じが少しづつ確実に和らいできていると感じます。その変化と並行して、不安からのメッセージをどのように受け取るか、言葉として浮かんではいてもなんとなくぼんやりしていたものが、次第に確信と呼べるものに近づいてきました。

 コロンブスの卵という言葉があります。わかってみればとてもシンプルで当たり前に思えることなのにわかるまでには苦労する(工夫がいる)、と解することが許されるなら、僕にとっては、以下がまさにコロンブスの卵のような発見に思えるのです。

 自分の力で何とか生き延びようと必死になることが自己中心性の元だ。

 そして、これが不安からの僕自身へのメッセージだ、という気がして仕方がないのです。

 自分の中に常に生き延びようとする力が働いている、自分の力で生き延びようとしている。これがハッキリしたのは、不整脈の出現によってです。不整脈のせいで心停止が起きるかもしれない、もしそうなったら何とか手を打つべく常に心拍を観察し見張っていなきゃいけない。そういう心理でいる自分に気が付いた。そして、これってナンセンスだよな、という気持ちと同時に、俺は生き延びたいんだなあ、そのためにはなんだってやろうと思ってるんだなあ、というような感慨が生じたのです。

 そう気づいてみると、癌ノイローゼの時にも同じ心理が働いていたことに思い至りました。ちょっとした体の不調を癌ではないかと想像する心理が症状を引き起こしている。最悪の事態を想像している。最悪の事態を想像する心理というのは、日常の臨床で本当に良く遭遇する心理です。その想像が悪循環を呼び不安を拡大させる。パニック発作ではその悪循環の様子が最も見えやすいが、色々な症状がこの心理と関係して出てくるのは間違いない。

 そしてこの想像が出てくる出どころは、実は、何とかして生き延びたい、そのための絶対の安全保障が欲しい、という必死な思いにある。危険を間違いなく回避するためにはあらかじめ最悪の事態を想定しておかなければならない。保険を掛ける心理だと言ってもいい。その心理が暗示として働いて症状が出現、症状が出ると検査を受けずにはいられなくなる。検査結果が出てとりあえずの安全が保障されたとたんに症状がなくなる。しばらくすると、無意識は更なる安全保障を求めて次の症状を産出する。そのように考えると、なんとまあ俺は自分のことしか考えていない自分勝手な奴だという感慨とともに、あの年の9月から12月の自分の行動の説明がつくように思えるのです。

 不整脈の時の身構える感じ、この感じはまた、高血圧発作の時の、不安を隠そうとする態度に通じます。身体の感覚としてそっくりです。ゆだねられずに自分で何とかしようとする。そしてそれが悪循環を呼び症状が悪化する。そこも似ています。

 不安を隠そうとするというのは、近藤先生との間ではっきりさせてきた僕の"こび"の根元にある心理です。自分の不安を押し殺し、呑み込んで、母からそれを隠すことが母に見捨てられない道だ。それを別に言えば、母との間で生き延びるためにはそうするしかなかった、ということになるのではないでしょうか。

 自分の力で何とか生き延びようとする。そしてそのことが、自分の神経症的人格構造、すなわち我、を作り出す大元のエネルギーだ。自力で生き延びようとすることイコール自己中心性だ。そう考えると、鉄槌の意味もわかる気がしてきます。あの頃の自分は、開業して10数年、医局では初めての自費診療のクリニック。そんなやり方で経営が成り立つのかと多くの先輩や同僚から心配されたけど、今は一日8枠がすっかり埋まり、キャンセルが出ると待っている人がいる。大したもんだって思ってもらえているんじゃないか。そんな風に誇る気持ちがありました。1日8人とのセッションは、本当は相当きつく感じているのに、その感じを軽視していた。軽視して無理を重ねてしまううところに、自力性が大いに関与していた。そういう自分を自分で誇りに思う気持ち、まさに傲慢と呼ぶのがふさわしい。そこに対しての鉄槌だったのではないか。

 最後に、ここが一番大事かもしれないことを書こうと思います。

 自分の力で生き延びようとしていることへの実感が増せば増すほど、実際に自分が今生きているのはそのこととは無関係だということがハッキリしてきます。自分の、その生き延びようとする努力があるから生きているわけではない。その努力はむしろ自分の生命を害する方に働いている。今自分が生きているのは何か自分を超えたものに生かされているとしか考えようがない。

 

 

 

 

 

 

不安 その四

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  仙台での診察で降圧剤の飲み方を教わりました。テノーミン25ミリグラム1錠を4分割して、血圧が上がりそうな感じがあった時にその4分の1片を頓用で服用する、というものでした。その飲み方を教わったおかげで、その後、高血圧発作に襲われることはなくなったのですが、今度は、頓用で飲む薬が喉に引っかかる感じがしてきた。魚の骨が引っ掛かって気になって仕方がないのと似ている。1錠丸ごとではなく4分の一にすると角があるからひっかかりやすくなって、実際にひかかっているのではないかと半ば真剣に解釈し、なんだか喉が気になって仕方がない。

 そのうちに、喉のところに異物感を感じるようになってきました。そして、喉頭がん、咽頭がん、食道がん、という単語が浮かんできて離れない。たまらず、近所の耳鼻科を受診し、何も異常がないと言われた途端、喉の異物感は消え、薬がひっかかる感じもなくなりました。

 しばらくすると、今度は、胃の調子が悪い感じが出てきました。胃がんではないかとの疑いが膨らんでいくのに耐えきれず、生まれて初めての内視鏡検査。異常なし。ただ、ピロリ菌が発見され、除菌を勧められるという副産物がありました。その気になって一週間抗生剤を服用しましたが、その間も、検査前にあった胃の不調感を感じることはありませんでした。

 仙台に行ったのが7月、近所の耳鼻科を受診したのが9月、胃の内視鏡検査が10月というような間隔だったと記憶しています。胃の内視鏡検査後しばらくすると、今度は、右下腹部に鈍痛を感じるようになりました。大腸がんではないかとの不安から逃れられず、大腸の内視鏡検査。これも初体験。何も見つからないと言われると、右下腹部の鈍痛は嘘のようになくなりました。

 このシリーズの最後は、前立腺癌ではないか、との不安でした。尿の出方が今までと違っているような気がして仕方がない。まっすぐ飛ばなかったり線が2本になったり。最近の変化のように思えて悪い物の存在を示唆しているのではないかとの疑いが消せない。都内の病院にいる友人の泌尿器科医を受診。前立腺がんのマーカーの値が正常範囲内だとの結果がわかるまでの1週間、12月の下旬だったと記憶しています、待つのが辛かったのをよく憶えています。

 以上のように、喉頭がん、胃癌、大腸がん、前立せんがんの不安は、それぞれ、検査結果が出る度になくなり、それと同時に症状もなくなりました。ですが、「不安 その三」で書いた、下腹部の不安は続いたままでした。今から振り返ると、喉頭がんの不安がなくなると、その下腹部から指令が来て胃の症状を出し、胃癌の不安がなくなると、また同じところから指令が来て腸の症状を出す。そんな感じだったような気がします。

 癌ノイローゼは前立腺癌で止まりました。

 今度は、それから1,2年後のことになります。その話はこのブログの「生きているのが辛い」に書きましたが、繰り返します。

 早朝、前夜の酒の醒め際に、不整脈が出ることに気が付きました。気が付いた当初は、昨日飲み過ぎたせいだと、あまり気にしたつもりはありませんでした。ところが、一旦意識したことがきっかけになったのか、酒の醒め際でなくても結構不整脈が起きていることに気が付いてしまいました。前述の循環器内科の友人に電話し「それはよくあることで心配ないと思うよ」と言われて、その時はホッとしたのですが、すぐに、癌ノイローゼの時と同じように、不安が膨らんでいく心理状態に陥りました。「本当に心配ないんだろうか?」「検査しなくてもいいんだろうか?」「ちょっと不整脈の頻度が多すぎるんじゃないだろうか」「心臓に何か疾患があるんじゃないか?」「急に心臓が止まったりしないだろうか?」そして、心臓の動きを常に見張っていて、止まりそうになったら何とか手を打とうと身構えている自分に気付きました。

 結局、もう一度仙台まで行き、診察を受け、ホルター心電図などの検査をし、不整脈はあるが特に治療の必要はないと言われるまで、その心理状態から解放されることはありませんでした。

 

不安 その三

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 近藤先生が亡くなった年が1999年。それから10年弱経過した、2007年か2008年だったと思います。3月の日曜日(当時は金曜日から火曜日が仕事。水木が休みという一週間のスケジュール。)でした。11時の最初のセッションが始まって間もなく、突然、後頭部に衝撃が走りました。ガーンと何か鈍器で殴られたような感じ。そして頭を上にあげられない感じ。上げるとまた痛みが襲ってきそうな感じ。そのセッションは対面だったのですが、下を向いたまま顔を合わさず、何とか50分を過ごし、その日のあと7人との面接も、対面の人とはやはり下を向いたまま、やっとの思いで、穴をあけることだけは何とか免れた、という感じでした。その時すぐだったか後からだったか、「鉄槌を下された」という言葉が自分の中に浮かんだのを良く憶えています。

 高血圧発作でした。
 
 循環器内科の友人に相談し、降圧剤を飲み始めました。よく効いたのか、血圧は比較的すぐに安定し、セッション中の発作がその後起こることはなかったのですが、近藤先生との別れ以降ほとんど自覚せずに過ごせていた不安感が再燃したのです。今度はそれを下腹部に感じる。昔はもっと上で感じていた不安感が、臍を挟んでちょうど反対側、下に降りて来た、という感じでした。そして、以前の不安出現時にはなかった睡眠障害も出現。昼間の安定剤、夜の睡眠導入剤なしには過ごせなくなりました。

 数か月後、冷房を使うようになった頃から、今度は、休みの日に、最初の時と似た症状が起きるようになりました。外出先の喫茶店とか蕎麦屋で、外の気温と中の冷房との温度の違いが刺激になっていたような気がするのですが、何か気分が悪くなってくる。常に携行していた手首式血圧計で血圧を確かめたくなる。でも、一緒にいる妻の目や店の人や客の目が気になってその場ですぐ測れない。トイレに行くタイミングを狙っている。そんなことをしているうちに、特有の頭痛、めまいが起きてくる。座っていられず、店の外に出る。外に出て歩いていると少し楽になる。そういうことが頻繁に起こるようになってしまいました。

 その頃は、目白のクリニックに歩いて通える距離の新宿区西早稲田に住んでいました。前述した循環器内科の友人が仙台にいる、彼の診察を受けに行くしかない。そう決心し、7月の水曜日、妻と一緒に東北新幹線に乗りました。乗車する前から、血圧が高い感じがありました。呼吸法をすると血圧が下がることを体験していたので、乗車して妻と並んで座った直後から、呼吸法を始めました。呼吸法をしていることを妻になるべく知られないように。自分が今血圧を気にしていることを知られたくない、隠しておきたい、という心理でした。上野仙台が約2時間です。とにかく長かった。呼吸法がちっとも効果を発揮せず、血圧が徐々に高くなっている感じを感じる。不安を隠せなくなって、手首式血圧計を取り出しトイレに行って測ったら、最高血圧が200を超えている。それを見たらますます症状が増し、仙台駅に着いた時は、まさに頭が割れそう。最初の発作の時は一瞬だった痛みが、その強度を増して持続し、収まりそうもない。改札を出たところで円状に歩き回り、必死の思いで、仙台に着いた旨を友人に電話、救急車を呼んで方がよさそうだと訴えると、大丈夫だからタクシーで来い、との返事。妻に引っ張られるようにタクシーに乗り、仙台市郊外の友人のクリニックに向かいました。

 20分ほどで、依然来たことのある風景が目に入り、やっと着きそうだと感じた時、さっきからずっと続いていた割れるような頭痛が、スーッと引いていくのを感じました。もうすぐ着くぞという気持ちと症状の軽減がリンクしているのは間違いない。なんだ、この症状は相当心理的なものなんだ、と考えざるを得ない。

 クリニックに着いて、友人と会った時、友人も、さっきの電話での指示に自信があったわけじゃあないんだな、と感じました。後に、「俺も不安だったんだ、実はあの時おまえをどこに入院させようかと考えていたんだ。」と聞いて、その感じが間違っていなかったことがわかりました。そう(友人の不安を)感じたこととつながっているかどうかは定かでないのですが、向かい合って診察が始まると、涙が出てきて抑えられませんでした。半ば泣きながら友人の質問に答え、僕の方は、安心してすっかりゆだねる気分になっていました。白衣の友人のお腹のところに、小さく黒い仏像が座っているように見えた、一種の幻視だと思いますが、という感覚もありました。

 ここまでのところで注目するべきは、不安を妻を含めた周囲に悟られないように動いてしまうことと症状の悪化との関係だと考えます。逆に、同じことの裏返しだと言っていいと思いますが、循環器内科医として信頼を置いているから何も隠さないくていいと思っている友人にもうすぐ会えそうになると、それだけで症状が軽減する。

 もう一つここで述べておきたいことがあります。自分にとってのその時点での最大関心事を隠すという、この傾向についてです。最大関心事と書きましたが、少し大袈裟に言えば自分の生命への不安だし、ぼんやり言えば弱みです。この傾向を自分の性癖だと呼びたくなります。性癖という言葉に含意されているように、根深いものだという感じがあります。そして、それは母との関係に由来しているに違いないのです。具体的な母との間の幼少期のエピソードを思い出すわけではありません。でも、そうに違いない。その確信は体感的なもので、僕にとっては揺るぎようのない感じなのです。



 
  

不安 その二

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 今まで、自分自身の不安体験について、主に『不安』と『呼吸』の中で述べて来ました。ふと思いついて読み返してみたのですが、自分にとって大きかった比較的最近の出来事が抜けていることを確認しました。その出来事から現在に至る中で感じたことも含めて、不安についての僕自身の体験の推移を、改めて、順を追って振り返ってみたくなりました。

 28歳の時に近藤先生の分析を受け始めました。1年も経たない頃から、胃のあたりに、痛みというか違和感というか、そんな感じが現われてきました。心窩部違和感という医学用語がありますが、心窩部よりはもう少し下だった気がします。近藤先生に、それが不安だ、不安の身体への表れだと言われて、新鮮な感じ、新たな視点を当たられた感じ、そして、思い当たるというか腑に落ちる感じがあった記憶があります。そしてその身体感覚と共に、そこからその感覚が身体全体にびまん性に広がっていく感じ、が出てきました。身体が熱を帯びている感じ、だるい感じ。そしてそれを心理的に表現すれば、落ち着かない感じ、じっとしていられない感じ、何かで紛らわせたくなる感じ、ということになる。自分の中で、身体感覚と不安とのつながりがますます間違いないものになってきました。

   近藤先生から、君のその不安は主観的なもの、神経症的なものだが、不安を主観的なもの(神経症的なもの)と客観的なもの(現実的なもの)とに分けて捉えるようにすると役に立つよ、と教わったことも良く憶えています。
   後者について、こういう場面で生じるものをいうんだよと、具体例を言ってくれた気がしますが、どんな例だったかは忘れてしまいました。要は、こういう状況だったら誰だって不安になるよなあという場面で生じる不安、ということだったと思います。
   また、 今感じているその感覚は、新たに出てきたものなのか、それとも前からあったものを最近感じるようになったのか、どちらか、という意味の質問をされたことも良く憶えています。前からあったものだと感じる、と答えました。

 不安の中身について言えば、仕事に関するものがほとんだったと思います。個別具体的な件での不安が去っても、すぐ不安が結びつく別の案件が生じる。それと、漠然とした不安という表現がピッタリする、具体的なものに直接つながらない不安。今から振り返ると、そのいずれも、医者としての自信の持てなさに通じていたと思います。
   都立大の駅から先生宅に向かって歩いている途中、ガス管工事だったか道路工事だったかの現場を通ることがよくありました。そこで働いている作業員を見て、羨ましく感じたことも忘れられません。この仕事だったらこんなに不安にならないでいられそうだ、という気持ちでした。

 仕事をしている最中にはそれをあまり感じずに過ごせました。不安が生じないようにとの必死の思いだったから不安を自覚する余裕がなかったとも言えるし、仕事をすることが不安の紛らわしとして機能していた、とも言えるでしょう。ところが休日になると、不安をすっかり紛らわすことが出来ない。そして動きたくなくなる。何をするのもだるくて億劫で面倒くさい。一日中パジャマのままで布団の中で過ごす。布団から動かず、テレビをつけっぱなしにしている。集中力をあまり必要としないもの、軽い小説、漫画、を何冊も枕元に置いて、酒が飲める時間が来るまでひたすらそれらで暇つぶし。ほとんどのものが最後まで続かず途中で他のものに手を伸ばす。

 その当時、布団から出たくなくて、尿意を催した時、代わりに誰かにトイレに行って欲しいと願ったことを良く憶えています。

 一週間に一度近藤先生に会って、感じていることを表現する。それが結構苦労でもありました。うまく表現できない。途切れ途切れ詰まりながら、でも、一生懸命言葉を探し、先生に励まされながら、何とか絞り出すように喋っている感じでした。エネルギーを大量消費する感じがあり、疲れると言えば疲れるのですが、50分が終了した時の疲れ感は、いつものだるさとは全然違う。さわやかで清々しい感じ、リフレッシュされた感じ。あの頃は、1週間に1度先生のところに行くことを支えに不安に耐えていた、という感じでした。

 休みの日をほとんど布団の中で過ごすというのは、少なくても数年は続いたと記憶しています。30代の半ばごろから少しづつ変化が生じ、日中は布団から離れられるようになり、近所の散歩や外食に出かけるところから始まって、40代になってからは、山歩きにでかける日が増えてきました。エネルギーが出やすくなってきている感じ、年を追うごとに元気になってくる感じ。そしてそのことが、胃のあたりの違和感が徐々に減っていくプロセスとパラレルに生じている感じ。

 分析が始まって21年間経過した時点で、胃のあたりの違和感はほとんどなくなり、主に休日に感じていた漠然とした不安感も相当減っていました。津川クリニックを開業して6,7年経ち、仕事の面でも、自分なりに張り切って毎日を過ごせていました。近藤先生が亡くなった時、支えを失って困った、という感じがほとんどなかったことを記憶しています。

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