精神分析は宗教か その一 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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精神分析は宗教か その一

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 このブログを書き始めるきっかけは、セラピストを目指している二人の女性クライエントからほぼ同時に、「先生の治療についての考え方を文章にして欲しい」と依頼されたことでした。そのうちの一人はその後分析治療から離れてしまいましたが、最近、以下のようなメールをくれました。「自分のブログに堀田クリニックの紹介文を書いた。間違っているところがあったら訂正するから、ブログ記事を読んでほしい」という内容でした。実は僕は彼女のブログの愛読者の一人で、そのメールを貰う前に既にブログ記事を読んでいました。そして、ちょっと困ったなあ、との気持ちを抱いていました。堀田クリニックが紹介されているそのブログ記事の中に、僕が精神分析を宗教だとみなしている、という意味の文があったからです。そこで、彼女に以下のような内容の返事を書きました。「僕が精神分析を宗教だと認めているという一文に引っ掛かりを感じた。書いている本人が感じたことを率直に書いるだけだというのがわかるから、訂正は望まない。でも、それを読んで誤解する人が少なくない気がするので、真意を伝えるべく、このところサボっていた自分のブログの更新のためのちょうどいいテーマが与えられたと受け取ることにする。」

 以上のような経緯で、上記のタイトルの元に、浮かんでくることを書いてみようと思い立ったわけです。結論から先に言ってしまいます。

 宗教とは何かという問いに対しての僕の答えを良しとしてくれるなら、精神分析は宗教そのものだと、むしろ積極的に主張したい。

 なので、僕の宗教観をまず語ることになります。何回かに分けることになると思います。僕の文章は起承転結のないのが特徴かと思いますが、今回その傾向がもっと強くなりそうです。自由連想風だと受け取ってもらえたら幸いです。
 
 僕の育った家庭は宗教というものから縁が遠かったなあ、という感慨が浮かびます。両親ともに無宗教。仏壇も神棚もない。お墓参りもしたことがない。初詣の習慣もない。

 初詣からの連想です。初詣は別に宗教的なものではない、と言う人がいそうです。初詣に行く多くの人たちが、特に宗教を意識せずにお参りしている、というのは事実だと思います。クリスマスにプレゼントを買ったりもらったりするのと同じ感覚で初詣に行っている。意識レベルではそうだろうと思います。でも、無意識まで考慮に入れると、多くの日本人にとって、クリスマスは全くと言っていいぐらい宗教的なものではないが、初詣はちょっと違う。その人の深いところにある宗教性とつながっている。そんな気がして仕方がありません。

 3年前に福島に引っ越してからは、また初詣に行かなくなりました。それまで住んでいた西早稲田のマンションの近所に、穴八幡神社や水稲荷神社、もう一つ名前を忘れてしまいましたがなんとかという神社があって、数年間は、その三つの神社か、年によっては二つの神社の、初詣はしごをしていました。暗い中、除夜の鐘の前後から行列ができていて、その列に並び、お参りの後、すぐ横に置いてある酒樽から紙コップに日本酒を注ぎ、豚汁や蕎麦を振舞うテントの前にまた少し並んで、一つ手にとっては焚火のそばに行って場所を探し、しばらく落ち着いて、最初が蕎麦だったら次には豚汁を貰いに行く。そしてまた人混みの中を焚火の傍に戻る。別の神社に移動する途中にも大勢の人と出会うわけですが、皆急ぐでもなく、多くの人は談笑しながら、どことなく普段とは違う雰囲気を漂わせて歩いている。そんな中にいて、なんとなくとしか言いようがないのですが、先ほど書いたような感じ、別な言い方をしたら、そこに霊性が働いている感じ、を感じた気がしました。

 元に戻ります。
 家庭に宗教的な雰囲気が全くなかった。学校もそうでした。キリスト教系の学校ではないし、寺の跡継ぎでお坊さんの資格を持っているという教師が何人かいましたが、別に仏教の話をするわけでもなかった。公立の小中高校って、全国どこでもそんなものだと思います。新興宗教の誘いにあったという話をよく聞きますが、僕を折伏する人にも出会わなかった。

 周りに宗教的なものがない環境に育っているのに、どうもそういうものに対しての興味、関心、親和性みたいなものが、昔からあったのかもしれない。ひょっとすると自分は宗教的な人間なんじゃないだろうか。実はこの頃、そう思うようになって来たのです。今、二つのことを思い出しました。

 一つは、小学校の低学年頃のことです。、夜一人で神様に向かってお祈りをしていた記憶があります。特定の神にではなかった気がします。何をどのように祈っていたのかも、はっきりとは憶えていません。具体的な何かが実現するような願い事だったような気もするし、ただ自分を守って下さいと祈っていたような気もする。そして、そんなことをする自分を子供っぽいと感じていた。子供はみんなこういうことをするものだと思っていた。恥ずかしいから誰にも言わなかったし、祈っているところを誰にも見られたくなかった。実際に家族の誰にも知られなかったと思う。

 二つ目は、近藤先生との2回目のセッションの思い出です。一回目は治療契約を結ぶためのものだったはずなので、実質的にはこれが初回だと言ってもいいと思います。「僕は、ホーナイの言う自己実現と禅の悟りとが同じものだと思います。」と言ったのを憶えているのです。自分がそう言ったということよりも、それに対しての近藤先生の反応をより憶えている、と言った方が正確です。いやこう書くと、実はそれも不正確だという気がしてきました。厳密に言うと、近藤先生の具体的な反応ではなく、僕のその発言を先生がどう受け取ったのかを必死に感じ取ろうとし、その結果僕の中に生じた感じを憶えている、がいい。それは、否定はされなかった、と言うのが近い。多分、「ほう」とか「面白いねえ」とか、具体的な先生のレスポンスは、そんな風だったんじゃないかという気がします。とにかく否定はされなかった、このテーマは自分の中で暖めていていいんだ。僕はそう受け取った。

 僕の神経症的人格構造の特徴は、浅さ、です。表面的なスムースさを求める。そして、目に見えるもの、つまりは結果を出すことに気が向かい、結果が良ければそれでいい。勉強でも運動でも楽器でも、何かをやると、すぐ、ある程度出来るようになってしまう。結果が出てしまう。だから表面だけ見れば華やかでもある。夜だけ華やかな繁華街のネオンサインのようだね、と近藤先生に言われたことは、このブログのどこかに書きました。今、ふと思い出したこの二つは、年齢に開きはあっても、その神経症的人格構造が出来上がっていた頃、うまく機能していた頃のことだと言えば同じです。だから浅さがあるはずです。確かに、祈りも、分析の場での発言も、浅いものではあると思います。でも、浅いだけではない。必死さ、真剣さ、のようなものもある。子供のころに祈っていた時の気分は今でも思い出せます。二つ目の、近藤先生の反応を察知しようとする時の真剣さに通じている気がします。

 二つの思い出とも、神経症的人格構造の後ろに隠れ、心の奥で自覚されないまま潜んでいたものが、なんかの拍子に表に出てきた瞬間だった気がします。実はさっき、「とにかく否定はされなかった、このテーマは自分の中で暖めていていいんだ」と書いたのですが、そう書くまで、ちゃんとそのように言葉になるレベルで自覚していたわけではないのです。特に、自分の中で暖めていていいんだという方は、さっきこの表現を思いついて、ああこれだ、と腑に落ちる感じがありました。

 ひょっとすると、近藤先生の反応を感じ取ろうとするずっと前から、無意識のうちに、このテーマを暖めていたのかもしれない。もしそうなら、このことが、実は自分にとっての唯一無二のテーマなのではないか、最大関心事なのではないか。そんな気がしてきています。自己実現と悟りが同じではないかという問いは、まさに、精神分析と宗教は同じか?という今回のテーマとぴったり重なるわけで、暖めてきたものがあるなら、それをそろそろ表に出す時期が来た、と考えることにします。
 
 

 


 



 
 

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