精神分析は宗教か?のお題は、少し置いておくことにします。必ず書き続けます。
強迫性と自発性。この題も、僕の関心事の一つです。
この題でブログを書きたくなったのには、実はきっかけとして、最近の僕の日常生活での出来事があります。それは後ほど述べることにして、どのような関心を以前から抱いていたのか、まずそれを書いてみます。
人間の行動のほとんどすべてに、強迫性と自発性が、両方同時に働いている。どちらか一方だけ働いていということはほぼないと言っていい。これが僕の最初の前提です。
ここで言う強迫性とは、「...しなければならない」と表現されるもの。自発性とは、「...したい」と表現されるもの。とりあえずはそう定義しておきます。
例えば今僕がブログを書いている行為。大分間があいた、待っていてくれる人がいるかもしれない、そろそろ書かなきゃ。そういう気持ちが働いています。自分の中に自然にたまったものを表に出そう、出したくなった。それだけではありません。前者を強迫性、後者を自発性と呼ぼう、というわけです。
そして、人間としての成長を、人間の行動のあらゆる面に存在する強迫性と自発性の比率が変化していくことだと言っていいのではないか、との考え。これが次の前提です。人間として成長するということは、その人独自の自発的なものが日常生活の中により多く豊かに表現されるということだ。
この考えは『性格を変えられるか?』(2012年6月3日)の中でも書きました。そしてそこでは、山歩きや髭剃りでの体験から、僕自身のメインの強迫性が「早く行動しなければならない」との表現がぴったりするものだと述べ、分析の経過を通じてその強迫性の程度が減ってきたと書いています。
「分析の経過を通じて」のところをもう少し表現したい気持ちが生じます。ここに僕が強調したいポイントがあります。
「分析の経過を通じて」を、自分の強迫性をそれとして見る(感じる)経験を積み重ねる、と言い直したいのです。
そして更に、強迫性をそれとして見る(感じる)回数が増せば増すほど、その感じ方が強ければ強いほど、あとは自然にその程度が減じ、自発的なものの比率が増す、と言いたい。
僕の髭剃りの例は(いつもと違ってゆっくり快適に髭剃りをしている感じがする)、自発性の方を直接感じている体験だと言っていいと考えます。僕の経験では、こういう方が珍しい。多くの場合、強迫性の方をそれとして感じる。
その時に、そうであることを責めないでそのまま感じるのが大事。やめられそうなら意志の力で止めようとするのは勿論ありですが、でも、それですんなりやめられたり減ったりするならそれはラッキーだと考えた方がいい。大抵はそう簡単に減りもなくなりもしない。場合によっては、やめようとすることが空回りを呼び罪責感を強めてしまう。だから、コツは、繰り返しになりますが、強迫性の存在を責めないでただ見る、感じる。そうすると何だか知らないうちに自発性が増す。自然治癒力が働く。強調したいのはこの点です。
ここまでを前置きとして、今回は、『性格を変えられるか?』を書いた以降、最近の出来事までの、強迫性をめぐる僕の体験を、思い出すままに述べてみようと思っています。
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