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院長あいさつ

不安は裏切らない

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 『不安即安心』で、不安に耐えている人に出会うと思わず頭が下がる感じがするとか、自分の不安を感じた時に不安は裏切らないという感覚に襲われる、などと書きました。これらの感じを、もう少し詳しく表現してみようと思います。

 感じることと考えることを比較した場合、感じることの方に重きを置く。感じることを考えることより優先する。考えることは感じることがベースにあっての上でなら意味があるが、そうでないと空疎なものになる危険が大きい。まず先に感じがあるのが大切だ。この事には疑いがありません。感じることしか信用しない、と言ってしまった方が僕の気分には合う。考えることは知性により結びついている感じがします。知的なものへの劣等感がそう信じる要因になっているのではないかとのツッコミが浮かびますが、劣等感があるとしても、それとこれとは別だと言いたい。それこそ考えではなく、心の底からそう信じています。

 感情と思考とを対比的に捉える捉え方は割と一般的だと思います。僕が言う"感じ"は、しかし、感情と全く同じものではないかもしれません。悲しみ、怒り、喜び、驚きなどの感情。それらとはちょっと別の"感じ"、でも思考ではない。思考と感情の対比からしたらずっと感情に近い。大雑把に言っちゃえば感情に入れてもいいという感じの"感じ"が沢山あると思います。

 さて不安です。不安を感じると、あるいは感じていなくても、まずは、不安が減るようにあるいはなくなるように、なんとかしようとするのが普通だと思います。それが成功する場合は少なくない。しかし、すぐにはなんともできない、ただ不安を抱えているしか他にどうしようもない、そういう類の不安が存在するのも確かです。

 ぱっと思いつくのは、大事な人が手術を受けているのを手術室の外で待っているというシーン。自分は何もできない。ただ待っているしかない。祈るしかない。映画やテレビでそういうシーンに出くわした時、登場人物のその姿に、なんだか頭が下がる感じ。

 「祈るしかない」がキーワードかもしれません。祈るしかないという気持ちでいそうな人を見ると頭が下がる感じに襲われる。なんだか話が合っている気がします。

 面接場面で不安をめぐる話し合いになることは珍しくありません。まずは、どういう不安なのかをその人の立場に立ってわかろうとします。すぐピンときて「それはよくわかるよ」と言える時もあります。しかし、そうでない場合の方が圧倒的に多い。すぐにはわからないなあと感じる場合、まず例外なくその不安にはその人の主観性(思い込み)が入っています。その主観性(思い込み)がどのようなものかパッと見当が付き、これこれこういう思い込みがあるから不安になっているんだ(不安が耐えられないものだと感じられるんだ)とクライエントに納得できるような形で示せる場合もたまにはあります。でもたいていの場合は、不安について話し合い、一緒に耐えて、不安のメッセージを探し、その人の主観性を発見し、ああこういう思い込みがあったからこんなに強い不安になっていたんだと気が付いていく、気づきが重なるに伴って徐々に不安が減っていく、そういうプロセスをたどります。

 不安が存在するのは明らかなのにそれに気が付いていない人。不安の存在は感じていてもそこに主観性があるとの感覚からは遠い人。ひたすら回避しようとする人。不安を解決する道を目指して努力する人。いろいろなケースが思い浮かびます。さっきのプロセスはなかなか順調には進行しない。

 そんな中で、不安を引き受けた上でそのメッセージを受け取ろうとの態度を取るのが難しくない人がいます。また、途中からスッとそういう態度がとれるようになる人もいる。そういう態度に出会った時、尊敬する気持ちが湧きます、思わず頭が下がります。

 頭が下がる感じからの連想です。自宅から、雪をかぶった吾妻連峰と安達太良山脈が奇麗に見えます。神々しい感じ、頭が下がる感じが生じる瞬間があります。でも、山を見た時に生じるこの感じは、単独峰を見た時の方が強い気がします。富士山ももちろんそうですが、津軽の岩木山を見た時に、強くそういう感じに襲われた記憶が残っています。ぽつんと一人でじっと耐えている。不安にじっと耐えている態度に出会った時の頭が下がる感じは、孤独に耐えている人へのものに通じていそうです。

 ここから先は自分の不安についてです。最近の、不安が一番信用できるという感じ、不安は裏切らないという感じ。これは、冒頭に書いた、感じることしか信用しない、という気持ちとつながっています。感情はそもそも不安定なものです。怒りも、悲しみも、驚きも、喜びも、たいていの感情は長続きしない。長続きしないのが感情の法則だとさえ言える。不安も感情の一つだとしていいなら、不安という感情だけは例外です。隠れることはあっても、必ずまたすぐ顕れる。ずーっと自分と一緒にいるという感じがする。

 幸せを実感することが僕の人生の目標だとこのブログの『精神分析は宗教かその2』に書きました。今現在でも、幸せや、安心を、感じることがないとは言いません。しかしその強度、安定性は、不安の実感からするとはるかに劣ります。そして、この常にあると言っていい不安の実感の先に、より確かな幸せや安心の実感がありそうな予感がします。祈る気持ちが生じます。

 大雑把には感情に入れてもいいと述べた、狭い意味での感情とは一応分けた方がいいかもしれない"感じ"。クライエントを理解しようとする時、そういう自分の"感じ"をベースにしようと心がけています。クライエントに直接感じる"感じ"、やり取りの間に自分の中に浮かんでくる"感じ"、それらの色々な"感じ"を感じ、手掛かりにしながら、その人の一点を探ろうとします、あるいはその人の全体像が見える方向を目指します。そもそもそれらの一つ一つの"感じ"がそんなにはっきりしたものではないことも多い。そして当たっているかどうかに自信が持てない、心細い。そういう不安を常に感じながら、先ほどの方向を目指す。目指してもそれがなかなか「これだ」というものにはなってこない。曖昧でぼんやりした感じが続きます。その状態もまた不安と呼んでよさそうです。そしてそのような不安に耐えているうちにだんだんと、時にはスッと、ハッキリしたもの("感じ")があらわれてくる。

 ここまで書いて、わかるためにはわからないという感じに注目し手掛かりにしていくしかない、と以前に書いたことと同じことを言っているなあと気が付きました。でも以前そう書いた時は、不安は裏切らないという風には感じていなかった。結論は同じでも、表現の仕方の違いに意味があると思うことにします。
 

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