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院長あいさつ

不安即安心

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 ブログの事は、いつも何処かで気になっています。久しくご無沙汰しているので、サボっている感があります。でも、今度書くならこのタイトルでと、タイトルだけはだいぶ前から決めていました。

 煩悩即菩提という言葉があります。近藤先生の発言としても記憶に残っています。一般的に受け入れられている表現のようです。一般的にと言うと間違いかもしれません。仏教に関心のある人たちの間で、と言い直した方がいいかもしれません。随分前から、僕は、この表現が気になって無視できない感じを抱いていました。なんだか大事そう、真理を衝いていそう、だけどいまいち身体感覚的にピンとこない、といった感じでした。

 10年ほど前のことだったと記憶しています。後輩二人との酒の席での会話でした。煩悩即菩提とは、煩悩をそれとして認識出来ることが菩提につながるという意味だ。そう僕が言い、それを聞いてなるほどと思った。二人のうちのどちらかがそう言い、もう一人も、確かに以前僕からそう聞いた、と言うのです。その時の「えっ俺そんな事を言ったの」と驚いた記憶が鮮明に残っています。いつそんなことを言ったのか記憶になかったし、更に、「あれ、今俺は本当にそう思ってるのかなあ」との疑いも浮かんできました。

 その二人が嘘を言うとは思えないので、自分の中で熟していない時に、思いつきで、悪く言えば口から出まかせ気分で言った、というところだったのでしょう。こういうことって珍しくありません。

 この出来事があった後も、煩悩即菩提という言葉は、僕の中で気になる存在であり続けていました。そして本当に少しづつ、徐々に、やっぱりあの理解でよかったんじゃないだろうかとの感じが増してきました。煩悩即菩提という言葉へのしっくりしない感じ、身体感覚的にわかった感じになれなさ、も減ってきました。そして今度は、不安即安心という言葉が頭に浮かんできてちらつくようになってきたのです。

 煩悩というのは仏教用語です。定義を言い出すと色々と面倒くさいので、僕は、煩悩を、自己中心性と同じものだと捉えておこうと思います。自己中心性と呼べるものの総体を煩悩と呼ぶ、ということにしようと思います。

 自分の中にある煩悩を煩悩として認識できるとしたら、それは自分の中に煩悩以外のものがあることを意味している。

 僕が何かを言う時、感じたことを言っているのか頭で考えたことを言っているのかをチェックしようとする癖があります。今の文は感じたことからのものだとはとても言い切れません。頭で考えたことを言っています。でも、どう考えても間違っていないよな、という気がするのです。

 自分の中に煩悩だけしかなかったら煩悩を客観視できるわけがない。煩悩を煩悩として感じるということは自分の中に煩悩以外のものが存在していることを示している。そして煩悩の見え方が増しその全体像がつかめる方向に進むということは、煩悩以外の所に立つ足場がしっかりしたものになってきたことを意味するはずだ。煩悩以外のところとは何だろう?どう名付ければいいのか?それを何と呼ぶにしろ、そこに足を置くことと菩提を得ることが無関係だとは思えない。無関係でないどころか、そこにしっかりと足を置き根を降ろすことイコール菩提を得ることなのではないだろうか。

 これと同じことが不安についても言えると思うのです。僕にとっては、煩悩という言葉より不安という言葉の方に馴染みがある。自分の不安とも長く付き合ってきたし、日々の診療の中で、クライエントの不安に注目し、「不安と友達になれ」と言い続けてきました。

 「不安と友達になる」、それは不安を否定しないこと、良くないものだと捉えないこと、すぐ無くそう減らそうともがかないこと、そして不安のメッセージは何だろうと自分に聴こうとすること。それは安心の存在なしには不可能だ。それができることは自分の中に安心がすでに存在していることを意味している。自分の中にある不安を不安として認識しそれを十分に実感し引き受けることそれはイコール安心だ。不安即安心。

 こう言うほうが、煩悩即菩提と言うよりも頭で考えて言っている感じが薄れます。しかし体験からのみ言っているわけではないのもまた確かです。体験のレベルのみで言えば、以前から気になって注目している感覚があります。この人は不安にじっと耐えているんだなあと感じた時、僕の中に必ず湧いてくる感覚です。言葉になりにくいのですが、あえて頑張って出してみると、思わず頭が下がる感じ、祈りが生じる感じ、が近いです。さらに最近、こんな感じが湧いてくる瞬間を経験するようになりました。自分の不安を自覚した時に、ああこれが一番確かなものだ、これだけは裏切らない、とでもいうような強い感覚に襲われるのです。そして呼吸法をやりたくなります。体の中にある不安と向き合いたくなります。

 大安心(だいあんじん)を感じる(体験する)ところにはまだ距離がありそうです。が、そこに行くには不安を通るしかない。これはどう考えても間違っていなさそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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