2012年4月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年4月のブログ記事

孤独とつながり

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『孤独とつながり』について教えてくださいとの質問がありました。

 

 この質問者のメールから、最近友人と会い、いつものような会話をしていたつもりが、自分にとっては重要なことについての自分との感じ方の違いがはっきりし、今までその友人とつながっていると思っていたことに疑問を感じた、といった体験があった様子が読み取れます。それがきっかけになって出てきた質問のように受け取れました。

 また近藤先生の言葉です。「人間関係っていうのは誤解でなりたってんるんだよ。」分析を受け始めたころに聞いた気がするので、もう30年以上前です。その後、その言葉が繰り返されることはなかったのですが、強烈に印象に残っています。

 僕の今までの友人関係を振り返ってみると、大雑把に言えば、段々段々誰ともつながっていないことがはっきりしてきた、という感じです。つながっているという誤解が醒めてきた、孤独を実感する度合いが増してきた、ということでもあります

 孤独を、恐怖感、自己嫌悪、自責、さらにはセンチメンタリズム、それらの感情とは別に感じることが大事なのではないか、という気がします。孤独感を他の感情を混じえずに感じる。あるいは、混じっていることがわかりながら感じる。そのように感じる孤独だと、感じれば感じるほど、結果として、人に優しくならざるを得なくなる気がします。

 孤独を自覚せず、あるいは上記の感情と分離しないまま、人とのつながりをどうしても求めてしまう。それが人間の姿だと思います。そこには自分については勿論のこと、相手の正しい理解もありません。さっきの近藤先生の言葉を、このように解することが出来ると思います。

 孤独を感じないでいられるように他人との一体感を求めざるを得ないのが人間というものだが、その一体感は幻想だ、と言おうとしています。一見人間関係をほとんど持たない引きこもりの人も、孤独感を、恐怖や自己嫌悪や自責、センチメンタリズムと別に体験してはいませんし、むしろ、孤立していながら孤独感を全くと言っていいほど感じていない場合も珍しくありません。

 質問者に対しては、この質問のきっかけになった体験に質問者の成長が出ている、と言いたいと思います。友人とのずれを感じて動揺するでしょうが、その動揺を、自分がおかしいと結論付けたり、相手に無理に合わせることで解決しようとしたりせず、動揺に(孤独にと言ってもいいかもしれません)耐えるつもりになって欲しいと願います。

話すということ

治療で話しをすることの意味は?という質問がありました。

 

 話すということを言い換えると、言葉を使って表現する、になると思います。治療にとって本質的に大事なことは、表現することにあるのだと思います。言葉でではなくても、箱庭でも、絵でも、ジェスチャー、踊り、なんでも可能(治療的意味を持ちうる)だと思います。言葉というのは、表現するためのひとつの道具に過ぎない、というのが僕の考えです。ただ、多くの場合に、他の道具より圧倒的に便利で使いやすいとは言えそうです。

 話すこと(言葉を使って表現すること)の治療にとっての最初の意味は、それによってセラピストとの交流が生じる、というところにあると思います。交流が生ずることで、通じた、わかられていそうだ、という感覚が積み重なり、クライエント自身の自己観察力も育っていく、というのが理想ですが、そう簡単に進んでいかない場合も少なくありません。セラピストに対して、傷つけられたと感じたり、腹が立ったり、不信感が生じたり、ということが珍しくありません。そういう時は、そのこともまた言葉で表現し、それによってセラピストのクライエント理解が深まり、結果として"わかられた感"が増すことにつながれば、これもまた一つの道筋です。

 第二の意味は、表現するということ自体が治療的だ、ということです。内面に溜まっていたものを正直に言えた、すっきり出せた感じがする、その時に感じる清々しさは経験しないとわからないかもしれません。近藤先生のご自宅から都立大の駅までの帰り道、そういう感じを味わいながら歩いたことが少なくなかったのを思い出します。つい先日の経験ですが、比較的大量の固めの大便が出て結構すっきりした後しばらくしてまた便意を催し今度は下痢気味の便が少なからず出ました。その時の、気が身体中を走る感じを伴った清々しさ。この感じと、あの時の感じは似ているよなあ、と思いました。

 三つ目は、セッション中の表現が瞑想の習慣につながる、という点です。セッション中に話したことが引き金になって、終了後、後を引く感じになることが多いものです。「あんなことを話して先生にどう思われたかなあ」「ああ話したけど、こう言ったほうが正確だったんじゃないか」「こんなこともあったことを思い出した。今度話さなきゃ。」などの思いとともに、セッション中の気分がすぐには消えません。このことは、言葉によって表現された元のもの(感じていること)への感覚を鋭敏にする為に役立つと思います。

 分析を受け始めの頃、僕は、すぐ消えてしまうのが特徴でした。「軒醒め、バス醒め、家醒めって僕は呼んでるんだ。君は軒を過ぎる(先生宅の軒という意味です)前に醒めちゃうみたいだね」と言われたのをよく憶えています。

 段々醒め方が遅くなり、外側にばかり向かっていた自分の意識が少しづつ内側に向かうようになるプロセスを体験しました。途中で先生から呼吸法を教わったことも加わり、一人になって内面と向き合う時間を取ることが増してきたのは、その延長だという気がします。

 ここでまた近藤先生との会話を思い出しました。「人間の成長にとって表現することが本質的に大事なもの、必要なものだと感じるようになったが、そうすると、ただ座っているだけの禅をどう考えればいいんでしょう」と質問したことがあります。返事は「そんなことを考えていたのか。座るのも表現なんだよ。静かな表現だ。湖だって表現だろう」というものでした。先生の言葉を正確に憶えているかどうかには自信がありませんが、湖が表現だ、との一言で、目からうろこが落ちたように感じた記憶は鮮明です。

カウンセラーの資質

これからのカウンセラーに求められる資質について教えてくださいとの質問がありました。

 

 この質問を読んでパッと頭に浮かんできたのは、道心という言葉です。

 浮かんだ後で少し考えてみましたが、やっぱり、これに尽きると言っていいと思います。道心の強い人が資質のある人だ、ということになります。

 道心というのを、思いつくだけ言い換えてみます。

 道を求める。世俗的世間的でない何か目に見えない価値を実現したい。変化、成長したい。自分を知ろう。自分に向き合おう。

 ここまで書いて、また、近藤先生から聞いた話を思い出しました。道元の言葉だそうです。

 仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり。

 この道元の言葉についての僕なりの理解を試みてみます。

 いいカウンセラーになろうとするなら、自分を知ろうとしなければならない。自分を知れば知るほど、自分自身の自己中心性をつくづくと感じるようになり、自分に絶望する。自分というものを捨てる(忘れる)しかないと感じる。その時、我々を超えた大きなものに生かされていることを実感する。その実感によって自分も救われるし、他人が救われるための役にも立ちやすくなる。

 これだときついと感じる人がいそうな気がするので、少し言い方を変えてみます。

 いいカウンセラーになろうとするなら、自分を知ろうとしなければならない。自分を知れば知るほど、自分の中の深いところに傷があることを感じるようになる、傷を感じれば感じるほどそれは過去のものになる(忘れられる)。その時、我々を超えた大きなものに生かされていることを実感する。その実感によって自分も救われるし、他人が救われるための役にも立ちやすくなる。

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