2012年6月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年6月のブログ記事

沈黙

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沈黙について書いて欲しいとのリクエストがありました。

 

 沈黙というと、セッション中のクライエントの沈黙をまず連想します。

  ちょうどいい機会なので、診察室での、僕とクライエントの位置について書くところから始めてみます。

 初回は、必ず対面です。治療契約を結んで、時間(一回50分です)が余った場合、その日から、ベッドに横になって話すようにお勧めしています。そうでない場合でも、二回目か三回目には試して貰っています。仰向けに天井を向いて横になり、僕は、頭の斜め後ろにほぼ同じ方向を向いて座ります。僕の顔が見えません。

 この位置取りの意味についての近藤先生の考えは次のようなものでした。「一つは、セラピストとクライエントが同じ方向を向いているということ。共通の目標に向かって共に歩んでいることを表していることになると思う。もう一つは、沈黙している時にクライエントが孤独を体験出来るということだ。」

 この位置取りを試してみること自体に抵抗感を感じる方もいますし、試してみて、やっぱり対面の方が話しやすいという方もいます。その場合はもちろん、対面でのセッションが続くことになります。

 対面の方が3割で、ベッドが7割です。

 セッション中のクライエントの沈黙は、ベットの場合が多いという印象があります。顔が見えない方が黙っていやすいのは当たり前かもしれません。

 一人、僕にとっては忘れられないクライエントがいます。5年ぐらい定期的に通院していた30代の男性です。初めから、連想に詰まりがちで、沈黙の時間の多い人ではありましたが、途中から、50分、最初から最後まで一言も話さない回が出てくるようになりました。50分過ぎてブザーがなると、黙ったまま立ち上がり、身振りで別れの挨拶をして帰ります、そして受付で、次の予約をしていきます。そういうセッションが2,30回はあったと記憶しています。受診理由の一つは職場に行けないというものでしたが、沈黙のセッションが続く頃、勤務は続けられていました。でも結局は、治療が中断することになりました。

 さて、近藤先生の言う、沈黙の治療的意味ですが、僕自身の被分析体験から言うと、そんなにピンときません。その理由の一つは、どこかにも書きましたが、僕が連想に詰まって黙っていると、先生の方が話し出すので、孤独を感じている暇がなかった気がするからです。

 むしろ先生の孤独を感じたと言うと、ピンとくる感じがあります。孤独を引き受けている、その上でゆったりとそこに存在している、その雰囲気が伝わってくる感じがあった、と言っても近いです。僕が話している時はとにかくよく聴いてくれるし、不自然な口の挟み方をしません。黙っているならいつまででも黙っていそうで、そもそもが沈黙的態度だった、とも言えそうです。

 さっき例にあげたクライエントの沈黙に対して、「話せないのにも理由があると思うからそこも含めて受容しているつもりでいる。話せるようになるのを待っている。」と伝え、後のほとんどの時間、僕も黙っていました。僕にはそうするしかありませんでした。その時間、僕が何を感じていたのかと、今、思い出そうとした時、クライエントの孤独と、孤独を引き受けられなさを感じていた、というセンテンスが浮かびました。当時、そんな風に言葉になっていたわけではありません。そして、僕のその時の沈黙が、表面的に話しているかいないかとは別にして、近藤先生のような質のもので(孤独を引き受けた上でのもので)、彼からして、僕が近藤先生に感じたような感じを僕に感じられていたら、もっと違った展開になっていたかもしれない、との考えも浮かびました。

 

 

転移と逆転移

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カウンセリングにおける転移、逆転移を先生がどう捉えているかを書いて下さい。転移するのも逆転移するのもどちらも不安で戸惑うと思います。セラピストであれ患者であれ、転移で困っている人へのメッセージがあればお願いします、とのメールをいただきました。

 

 この文面から、転移という表現で言いたいのは、セラピストへの恋愛感情か、あるいはそれに近縁の感情のことではないかと察せられます。その推察をもとにして書いてみます。

 まずは、そういう感情が出てくることに驚くな、自然で当たり前のことだと捉えろ、と言いたいです。密室の中で、自分の感じていることを表現していく、言葉を用いて心を開いていく、そういう状況ですから、受け入れられている、わかられているとの感じに伴って、そういう感情が出てくるのは、多くの人にとっても想像が難しくないのではないでしょうか。

 教科書的に言えば、そういう感情が出てきたらそれも話すようにしなさい、ということになるのだと思います。しかし現実には、相手へのそういう感情を口にするのには躊躇いがあって当たり前だと思います。もちろん話せそうなら話すのが一番いいし、それに伴う不安や戸惑いを含め、自分を知るためのとてもいい材料になるのは間違いありません。

 僕は、その感情を自覚した上で、とりあえずはその感情に触れないでいるのもありだと思います。その感情が、自己表現、自己観察への意欲を高めるということだってありそうです。その場合なら、治療終了までその感情についての話題が出ないこともありうると思います。セラピストへの感情を表現しないと正しい自己理解に至らないということはないと思います。

 問題になるのは、恋愛感情があることで自己表現や自己観察に向かう気持ちが阻害され、停滞してしまう場合です。最も極端なのは、意識的にせよ無意識的にせよ恋愛を成就しようとの方向にばかり気持ちが向かってしまう場合です。極端だと言いましたが、実はこれはそんなに珍しくないのです。カウンセラーとしてある程度経験を積んだ人なら思い当たる例が必ずあるのではないでしょうか。

 僕はひところ、治療契約を結んだ直後に、「今こんなことを言うとびっくりするかもしれないけど、治療が進んでいく途中で、僕に対しての恋愛的な気持ちが生まれてくることがあってね、もし仮に将来そういうことがあったら、なるべくそのことも話すようにして下さいね。そういう感情が芽生えること自体はいいことなんだけど、でも、一種の失恋を味わわなきゃいけないこともわかっておいて下さいね」と言っていました。

 逆転移について、セラピスト側に生じるクライエントへの感情、という意味だと捉えて書いてみます。

 治療の場で起きる感情は、どんなものであれ、クライエントを身体感覚的にわかるために役に立つ。というのが僕の考えです。その時の感情が、自分の問題点とどの程度関係しているかどうか、それと同時に、相手のどこに反応して生じたものか、つまりは自己観察。そのことと相手についての理解の深まりが直接的、体感的につながっている、という感じです。クライエントに対する自分の感情に不安や戸惑いを覚えたことは、振り返ってみて、あまり記憶にありません。

精神分析で性格を変えることは可能か、との質問をいただきました。

 

 『治療って?』を読んでくれた上での質問だと仮定します。『治療って?』の中で、治療の目標について、人間としての成長、パーソナリティーの変化、などと述べています。そのような表現で意味するものとはつまるところ性格が変わるということか?という質問だと解して答えることにします。

 変化を目標にするわけですが、その変化とはどんなものなのか、まずは、抽象的に、そして対比的な言葉を使って表現してみます。

 強迫性が減って自発性が増す。浅いところが減って深さが増す。幻想性が減ってリアルさが増す。依存性が減って自立的になる。

 これらは全て同じ事を言っていますが、強迫性、自発性の対比が最も説明に便利なので、それを使って、次は、なるべく具体的に述べてみます。

 僕は山歩きが好きです。東京近郊の低山を一人で歩きます。その時、本当に自分のペースで歩いているわけではないんだなあと感じます。自分に取り付いているものに歩かされている部分があると感じます。そこを言葉にすれば、早く歩かなければならない、急がなければならない、という強迫性です。

 山歩きの時にははっきり感じるこの強迫性が、日常生活でもほぼ無意識のうちに働いているのは間違いないと感じます。

 先日、髭剃りをしている時、いつもと感じが違うことに気が付きました。石鹸を顔につけた後手を洗っている時、いつもより丁寧なんです。その手をタオルで拭く時も、タオルをタオルかけにかける時も、その後、シェイバーを使っている時も、丁寧で、強迫的でない感じ。本来の自分のペースでやっている感じ。一連の動作を楽しいと感じました。染み付いていてなかなか離れない、早く行動しなければならないという強迫性から、束の間ではあれ、解放され自由になった瞬間だったと考えています。

 このような強迫性の染み付きは、程度の差はあれ、すべての人にあるのではないでしょうか。言葉にしにくいものもありますが、言葉にしやすいものを並べてみると、「早くしなければならない」「間違いのないようにしなければならない」「結果を出さなければならない」「勝たなければならない」「もめ事をおこさないように振る舞わなければならない」「嫌われないように注意しなければならない」ほかにも沢山ありますが、このぐらいにしておきます。

 僕の例、「早く行動しなければならない」に戻ります。分析の経過を通じて、これを感じる度合いが増し、少しづつ減ってきました。分析を受け始めたころの僕は、どこに行くにも、自分で車を運転し、そうでなければ、ちょっとした距離でもすぐにタクシーを利用していました。電車に乗ったり、歩いたりということがほとんどありませんでした。そもそも山歩きを好きな人の気持ちなんて全くと言っていいぐらいわかりませんでした。その頃までの僕を良く知っている人は、今の僕を知ると驚くかもしれません。休みの日は山に行き、タクシーに乗るより電車を好み、街の中もよく歩きます。そしてこの変化が「早く行動しなければならない」との強迫性と本質的なところでつながっているのは、僕には、疑いがありません。

 自分の例を使って、変化の中身について、こんな感じだというのを述べてみました。こういうのを性格の変化と呼ぶかどうかは、僕にとってはどうでもいいことです。こう変えようと思っていたわけではない、やっているうちにこうなった、ということを付け加えます。

 

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