2012年7月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年7月のブログ記事

虐待の連鎖 その一

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親の呪縛から解放されて命を育てることは出来ますか?傷から傷を受け継ぐことになりませんか?子供を育てることとは?という質問をいただきました。

 

 これは嬉しい質問です。書きたいことが沢山浮かんで来ます。、少し長くなるかもしれません。何回かに分けることになるかもしれません。

 先日パンダの赤ちゃんの映像をテレビニュースで見ました。随分小さいのに驚きを感じました。親との体格差の物凄さに注意が惹かれました。出生時に、人間ほど親との体格差がある生き物はいないんじゃないかと漠然と思っていたのですが、そうではないことを知りました。でも、親との体格差が人間ほど長い時間続く生き物はいないのではないでしょうか?生命を維持するためにほぼ全面的に親に依存しなければならない時間を人間ほど長く必要とする生き物が他にいるでしょうか?

 僕たちのほとんど全員が記憶していない時期のことを言っています。親と比べ圧倒的に小さい自分。全くあらがいようのない自分。そして、生き延びるために、親に見捨てられるわけにはいかない自分。記憶にないから想像するのも難しい感じがありますが、それでもあえて想像を逞しくすると、無意識のうちに、どうすればこの親に見捨てられずにすむのかと、必死の思いだったのではないでしょうか?

 一方、実は僕には子供がいないのですが、子供がいたらどうだろうと、親になった場合の自分の気持ちを想像するのは難しくない気がします。子供への愛情が、本当に純粋で、無垢で、子供への思いやりに満ちたものであり得るだろうか?無私で無償の愛情を注ぎ続けることが出来るものだろうか?僕にはとても自信が持てません。これは僕が男だからでしょうか?男よりも母性に恵まれているだろう女性には可能なのでしょうか?女性にとっても、多分、不可能なことのような気がしてならないのです。

 子供に向ける気持ちの中に、多かれ少なかれ、自己中心性が混ざることは避けられないのではないでしょうか?

 そうした場合、そのことの子供への影響がどれほど大きいか、これまた想像でしかありませんが、圧倒的に無力な存在である子供にとって、とてつもなく大きいものなのではないでしょうか? 大人の目から見るとたとえ些細な自己中心性でも、子供にとっては全く違う大きさになるのではないか、この視点が大事だという気がして仕方がありません。

 虐待というのは、一般的には、暴力とか、無視とか、そういうものを指して言われていると思います。大人の自己中心性のわかりやすいあらわれです。些細なものだとは言えないでしょう。このように、大人の側の自己中心性の程度の問題も勿論重要です。しかし、子供からすれば、大人の視点からは些細なものでも、とても些細なものだとは受け取れないような気がするのです。極論だとは思いますが、すべての子供は虐待を受けて育つ、そう言おうとしています。

 子供の側からの有形無形の自発的な動きをどう感じどうレスポンスするか。親の側の自己中心性が、そのレスポンスの適切さを妨げ、子供の自発性との間でずれを生じさせる。そんなことが起きているに違いないと想像します。子供にとってはずれることがイコール虐待だ、そんな風に言いたいのです。

 大人なら、相手とのずれを感じると、がっかりしたり、ショックを受けたり、傷ついたり、孤独を感じたり、腹が立ったり、感情の種類は様々でしょうが、とにかく、何らかの感情を感じることが出来ます。ところがどうも、その頃の子供は、僕の今までの臨床経験をベースにして想像するところでは、大人なら感じるだろうずれた時の感情を、感じないように、なかったことのようにするしかないようなのです。傷つくどころか、自分がいけないんだだめなんだとの罪責感や自己嫌悪がそこから生まれてくるようなのです。生き延びるためには親との一体感を維持するしかないと必死になってありとあらゆる無意識的な努力をしているように見えるのです。このことを親の呪縛と呼ぶのは無理がないことと思います。

 すべての子供が親から虐待され、親の呪縛のもとに大人になっていく。そこに人間存在の悲しさがある。ここまでが、この質問に答えるための、前置きのようなものになります。

 

 

 

精神分析と仏教

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近藤先生の「人間存在の愚かさや自分の自己中心性に気が付いた時に、念仏を唱えるしかない、念仏だけは自分を裏切らない」との教えがいまいちよくわからない?という質問をいただきました。

 

 前回の『絶望と救い』と似たような結論になりそうですが、『精神分析と仏教』というタイトルに魅力を感じるので、重複を気にせず、書いてみます。

 歎異抄の冒頭部分に、「彌陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」とあります。我々を超えた大きなものの力に助けられて往生出来ると信じ、念仏を唱えようとの気持ちが生じる時、我々を超えた大きなものの力の恩恵に与かる、ということですが、これを単純化して、救われると信じて念仏を唱えたくなった時に救われる、と言えるのではないかと思うのです。

 救われると信じて念仏を唱えたくなる時とはどういう時か、それが大きな問題だと思います。

 本当の意味で絶望した時だというのが、前回書いたように、今のところの僕の答です。

 苦しみから脱することを強く望み、その為に役に立つかもしれないと考えて、心に関する本を読み漁るクライエントがいました。徐々に、精神分析関係の本と、禅の本に集約されていったようです。そして、「禅の本には、悟った後の心境が書いてある。確かにそこに至れば苦しみから解放されそうだ。精神分析の本は、心の変化がどうのように起きるかということやそのプロセスには触れているが、それで僕が楽になれそうな気がしない。悟るところまでは書かれていない。だから両方とも結局は役に立たない」との感想を洩らしました。10年以上前のことですが、強いインパクトがあったので良く憶えています。

  彼の役に立つようなものをそのうち書けるようになりたい、と思いました。精神分析が究極的に目指すところは"悟り"だと考えていいのではないか。だとしたら、そこに至るプロセスを述べることが可能かもしれない、と考えたのです。

  僕の考えでは、精神分析とは、とりあえず、自己観察力を育てることです。

 自己観察力が増せば、おのれのごうまんさ、浅ましさ、自己中心性に嫌でも気づかざるを得ません。気づきかたが増すに連れて、自然にそういう面が減ってくることを体験します。自分の意志でどうにか減らそうと思ってもどうにもなるものではないことにも気づかされます。なくなることはありませんが自己中心性の度合いが自然に減ってくることもあって、逆に、なかなか本当の絶望には至りません。自己観察の目を逃れて、今までのやり方が続いているのだと思います。そして、意識的に念仏を唱えても、救われたような感じにはならないし、長続きもしません。

 本当の絶望、心の底からの祈り(念仏)、自己観察を続けながら、それが向こうからやってくるのを信じて待っているしかないのではないか、それが今の僕の心境です。

 さっきの彼の役に立つようなものからはいまだ程遠そうですが、このテーマは、これからも再三出てくることになると思います。

 

 

絶望と救い

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「絶望と救いは紙一重だ。本当に絶望すれば救われる」と聞いたことがあるが本当か?どういう意味か?という質問をいただきました。

 

 近藤先生が、折に触れて、そういう意味の発言なさっていました。この頃やっと、こういうことではないかと見当がついてきた感じがします。ちょっ理屈っぽくなってしまうかもしれませんが、説明を試みます。

 絶望という時、必ずその人の価値観が問題になる、とまでは言っていいと思います。その人にとっての価値観、主観的価値、これをキーワードにして、絶望と救いの関係についての僕の考えを述べてみます。

 その人が価値を置いているものが失われた時、あるいは、価値を実現出来ない現実に直面した時、絶望という感情を体験することになる。

 こう書いてみると、この言い方は間違いではないにしろ、正確でないことに気づかされます。その人にとっての主観的価値がその人に意識されているならそう言えそうですが、無意識的な場合には、絶望というより、うつや不安として体験されそうです。

 しかしここではその違いにはこだわらず、後者の場合も、大雑把に、絶望(無意識的な絶望)であると考えることにします。

 主観的価値。それが、お金や地位や名誉だと、一般的だし、目に見えるものでもあるので、わかりやすいかもしれませんが、実際には、人によって実に様々で、かつ、微妙で、イメージしにくいものも少なくありません。いずれにしても、人間というものは、意識的無意識的に何かに価値を置き、それを実現しようと意識的無意識的な努力をし、それを支えに生きているものだなあと、自分を見ても、日々の臨床の中で皆さんの話を聴いていても、つくづくと感じます。

 本当に絶望するとは、まず、自分の主観的価値がなんであるかをはっきり認識し、次に、それを実現しようとする努力が実は自己中心性そのものであると知ることだと思います。それが実現できれば幸せで安全だと思い込んでいたに過ぎないと知ることです。今までの繰り返しになりますが、ここでの"知る"も、実感する、痛感する、という意味です。そしてまた、そうとはわかっても、まだ主観的な価値を追ってしまう自分を自覚することです。

 そういう風に自分が見えてくるというところに、つまり、自分の努力で自分を救うことは出来ないと絶望するところに、我々を超えた大きなものの力が働いています。そして、そういう風に自分が見えてきたら、我々を超えた大きなものを信じるしかない、そこに向かって助けてくださいと祈るしかない、身を委ねるしかない、そういう気持ちにならざるを得ないのではないでしょうか。

 祈る気持ちの実感イコール救い、それが今のところの僕の考えです。

 

 

 

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