2016年2月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2016年2月のブログ記事

依存支配型 その一

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 孤立型については,自分のことを書けばいいから気が楽だ、手を付けやすい、という感じがありました。依存支配型の全体像について書こうとすると、筆が進む予想が立たず、書き出せないまま今に至ってしまいました。この辺で思い直し、現時点で書けることを書いて、そうしているうちに何か熟してくるものを待つという気持ちになって、とにかく取りかかってみます。

 まず、依存型と支配型をまとめて依存支配型としてしまうこと、僕にはそのほうがしっくりする感じがあるのですが、その感じについて書くところから始めます。

 典型的な支配型の人はなかなか我々の前に現れない、と言えそうな気がします。メンタルなことで他人の援助を求めるという行為自体が、支配型的な在り方と正面からぶつかりそうです。支配型的在り方で生きていくことに挫折を経験した人の多くは、解決のために別の方法を求めそうです。実際、こういう人を典型的な支配型っていうんだろうなあと感じた人は、僕の今までの経験の中でたった一人しかいません。その人の場合も、治療が長くは続きませんでした。支配傾向を指摘し、本人も自分にその傾向があるとちらっと口にするところまではいきましたが、その傾向に向きあって一緒に検討してみようというモードにはなれませんでした。

 ということで、依存傾向が前景に出ている方々と多く接しているというのが僕の現実ではないかと思います。その現実をそのまま移して支配型をカットしてしまうことにしたかというと、それはちょっと違います。依存傾向が前景に出ている方々でも、程度の差はあれ、皆さん例外なく支配傾向を有していると僕には感じられます。他人を自分の思うように動かしたい。動かそうとする。ストレートに、命令する、要求する、指示する、という形を取らない場合でも、従属し依存する態度を取りながら、場合によってはその態度を利用して、相手を思うように操ろうとの意思が見え隠れしている。相手の期待に応え相手の期待を実現しながら、見返りを求める気持ちが働いている、何かを相手に期待している、あてにしている。

 僕の記憶の中のたった一人の典型的な支配型の人。社会的に成功し、経済的に余裕がある。仕事を精力的、かつ完ぺきにこなし、部下に命令的、指示的に、厳しく接する。家庭内でも家族を自分に従わせる。車を何台も保有し、自分の歌をCDにし、自伝的な本を出版する。自己拡張的であり、直接的に他人を支配する。支配という観点から見たら、まことにわかりやすい。

 前景に依存が出ていて支配が陰に隠れていたりストレートじゃなかったりという場合と、ストレートでわかりやすい支配。その関係をどう考えたらいいか。

 前述の、典型的支配型の人と会っていた時の感触が記憶に残っています。話の中身と比べて、僕に対しての物腰は、他の、依存傾向が前景に出ている多くの方達と変わらないなあ、基本的に柔らかく、同調的だなあ、というものです。社会的な場や家庭内ではほとんどの人から怖がられ、本人も偉そうな態度を取っているに違いありません。その片鱗が面接場面で全く出ないではないのですが、しかしほとんどは頭が低い感じ。僕に配慮的に気を使う。こっちの感じのほうがこの人の元なんじゃないか、primary defenseはこっちだ、という気がしたものでした。

 元は依存で、条件が整うと支配が前面に出る。そう考えていいのではないだろうか。

 平の時に上司に胡麻をする傾向の強い人が、出世して上に立つと部下に対して支配的になる。運動部でしごきに唯々諾々と従っている人ほど先輩になると後輩をしごく。そんな現象を珍しくなく観察できるとしたら、依存と支配が結局は同じ事だ、元は依存だ、ということの証明にならないだろうか。

  依存支配型の大きな特徴の一つに、上下関係への敏感性、というのを挙げたいと考えています。そのことについては項を改めて書く予定なのですが、ここでは依存と支配が結局は同じだという説明のためにこの観点を持ち出してみます。人間関係における上下関係へのアンテナが発達していて、自分を相手の下に置くか、あるいは上に置くか、常に立場を気にしている。前者が依存で後者が支配。前者がベースにあって、いつか自分が、依存しているその相手の立場になろうとする。すきを狙って後者の立場をうかがう。そのような心理が存在するような気がするのです。

 依存と支配を一つにまとめ、依存するにせよ支配するにせよいずれにしてもあくまで人間関係の中で孤独感や不安の解決を求めようとする態度。その態度がメインである一群を依存支配型とする。それに対して、むしろ人間関係から離れることで安心を得ようとする一群を孤立型とする。このように人間全体を二群に分けてみる視点。三つや四つではなく、二つというところに意味があるような気がして仕方がない。

 そして、一人の人間の中にも両方の傾向が存在している。割合に違いはあってもほぼ例外なく併存している。その人の本質を体感的に理解しようとする時、この人は根っこのところではどちらが優勢だろうかとの疑問が生じ、その答えを見つけようとする。答えが出ればその確証を得ようとする。僕が日々行っていることを、このように言ってもいい気がします。

 依存と支配はそもそも別物ではないということに加え、依存と支配をまとめて依存支配型とし孤立型と対比させる視点が有益なものだと感じる。今回言いたかったポイントにやっと近づいた感じです。



他人に迷惑をかける

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 人間関係は誤解で成立している、という近藤先生の発言に強く印象付けられた、とはどこかに書きました。それと似た感じでよく思い出し、僕のオリジナルであるかのように使わせてもらっているフレーズがあります。

 生きているっていうことは他人に迷惑をかけるっていうことなんだ。

 親が子供に、他人に迷惑をかけないような人間になって欲しいと願う、という話は、そんなに珍しくなく耳にします。「うちの子には、どんな職業についてもいいし、金持ちになんてならなくてもいいから、とにかく他人に迷惑をかけないような人間になってねって言ってるんですよ。」という台詞が浮かんできます。近藤先生と話すようになるまでは、この台詞にそんなに違和感を感じていなかった気がします。経済的に自立する。公衆ルールを守る。人間関係において他人が嫌がることをしない。親が子供に望むこととしてはごく当たり前だというように、なんとなく捉えていたのだと思います。僕自身も母親からそういうメッセージを与えられていた気がします。

 どんな文脈でその発言が近藤先生から出てきたのかは忘れました。でも、それを聞きその意味を教わって、ほっとするというか楽になるというか、そんな感覚が生じたことは記憶しています。目からうろこが落ちたとの表現がここでも浮かびます。

 そうか、どんなに頑張ったって他人に迷惑をかけるのを防ぐことはできないんだ。人間存在をそう捉えるほうがしっくりくるなあ。そういうものだということを前提にしたほうが気持ちが落ち着く。

 10年ぐらい前のことでした。二人ですれ違うにはちょっと狭いガードレールの内側を歩いていました。真ん中あたりで、行く先のガードレールが切れたところに、躊躇っている様子の人がいるのに気付きました。すれ違うのが窮屈なので僕がそこに着くまで待っていようかどうかを迷っていたのだと思います。その時、「あの人は俺のことを迷惑だと思っているんだろうな」との想像が浮かび、更に、ひょっとしたらこれって今だけの話じゃないのかもしれない、という気がしてきたことがありました。自分が動くっていうことは結局いつかどこかで誰かが迷惑することにつながっているんじゃないだろうか。そして昔の近藤先生の説明を思い出しました。何かを食べなきゃ生きていけない。その食べ物を作るのに多くの人が携わっている。その人たちに苦労を掛けている、迷惑をかけているということになる。そもそも食べるということは肉にしろ魚にしろ生きてるものの命を奪うということだ。その生き物には直接的に迷惑をかけている。食べること以外だって、君が生きていくために必要なことにどれだけ多くの人が関わっているか。

 他人様に迷惑をかけちゃいけないんだよ、と教えるより、どうしたって迷惑をかけちゃうものなんだと教えるほうが、結果として迷惑をかける程度の少ない人間に育つような気がして仕方がありません。

 他人に迷惑をかけないようにしなければいけない。この内的命令に多くの人が縛られています。そのことへの気付き方が増し、縛りが緩むこと、そのことが結果として迷惑をかける程度の少なさにつながる、そう言ってもいいのではないでしょうか。

 ところでここで、ちょっと方向を変えてみたくなりました。他人に迷惑をかけたくないという表現は、孤立型の人からも依存支配型の人からも、そんなに頻度に変わりなく出てくる気がします。しかしその意味しているところに、微妙なというか、場合によっては相当な違いがある。

 依存支配型の人が、「迷惑をかけたくない」と言う時、それはほとんどイコール嫌われたくない、と言っているようにように僕には聴こえます。依存支配型の人が「ご迷惑をおかけしました」と言う時の気持ちは、自分の言動によって自分への好意が失われても仕方がないと思っています(だから何とか許してください)、と言い換えられるように感じます。依存支配型の人にとっては嫌われないことに第一義的な意味があり、相手が迷惑をかけられたと感じているかどうかは第二義的だ、と言ってもいい。嫌われることが拒絶されることに直結している。

 拒絶が最終的に怖いのは孤立型でも同じであるに違いありません。でも、嫌われることがそのまま拒絶されることにつながるわけではない。嫌われることは勿論気になるし嫌なことなのですが、たとえ嫌われても拒絶さえされなければいい、という気持ちがある。そして、自分の存在が相手にとって負担であること、邪魔であること、相手の手を煩わせることが気になる。迷惑をかけたら最後拒絶されるに決まっている、と感じている。違いを強調するために少し極端に書いた気もしますが、およそ僕の実感です。つまり、"他人に迷惑をかける"という表現は孤立型的在り方に親和性がある、と言いたいのです。

 
 

 

正直について

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 "正直"っていうのは、僕にとって、何か特別に気になる、見過ごせない単語です。僕にとって重要なものは大抵近藤先生からだという感じがあるので、近藤先生がこの単語をよく使用していたかどうかを思い出そうとしてみましたが、特に頻度の高いものではなかった気がします。正直という言葉に手垢がついている感じがあり、道徳臭みたいなものが付きまとうから、誤解を呼びやすいとお考えだったのかもしれません。正直という言葉を拠りどころにする必要性を感じないでいられる境地に至っていたとも考えられます。

 今拠り所と書いてみて、僕にとっては、正直であろうとすることがまさに拠り所だったし、今もそうだ、と思い当たりました。

 感じていることをできるだけ正確に表現しよう。出来るだけ借り物でない、自分にとってぴったりする表現を選ぼう。嘘をつかないようにしよう。一言で言えば、正直でいよう。そういう意識を持ち続けると決め、そんなつもりで日常生活を送ってきました。

 そうしてみると、また嘘をついちゃった。その場の勢いで思ってもいないことを言っちゃった。ちょっと大袈裟に言っちゃった。あの時嘘をつくつもりじゃなかったけど今考えてみると言いたいこととは違っているなあ。あの場面では言ったほうがいいことだったのに隠しちゃったなあ。要は、正直になれなかったなあということですが、そう気づかされて胸の痛む思いをした記憶が数限りなくある気がしてきます。

 正直でない態度を取っていることに自覚的でない場合も少なくないに違いありません。

 一方で、嘘かどうかというのはそんなに単純なものではない、という感じも生じます。自分が感じていることを話す時には、どうしても事実関係の説明が必要になります。その際、その事実が客観的事実と必ずしも一致しない、食い違う。形容詞とか数字とか、そこら辺り、事実とちょっと違うことを言ってしまう。ほとんどの場合がそうだと言っていいような気もしますが、これをすべて嘘と呼ぶかどうか。正直でないとするのが適切か。白髪三千丈というのは李白の詩だったと思いますが、むしろ客観的事実と違った表現のほうが心的事実には正直な場合があるのではないか。

  ずいぶん昔のことになりますが、友人が酒酔い運転で逮捕されました。客観的な証拠は揃っているのに、飲んでいないと言い張り、弁護士の説得にも応じないと聞きました。その時、直観的に、彼にとっては飲んでいないのが心的事実であるに違いない、という気がしたことをよく憶えています。その時の僕の直観が正しかったかどうかはともかくとして、でも、殺人を実際には犯しているのに、本人にとっては犯していないのが正直だ、というようなことってあり得る気がして仕方がないのです。

 嘘か正直かというのがなかなか一筋縄ではいかない例として、こんなこともあると思います。ひところ僕は、同僚や従業員から、「先生は正直ですね」と言われることがよくありました。そう言われると、うれしい気持ちになると同時に、僕に騙されているな、というような思いが浮かんだものでした。上述のようにちっとも正直じゃない場合が沢山あるからというだけでなく、自分の正直さに防衛性があると感じるからです。言わなくてもいいことをあえて晒そうとするというか、露悪的というか、不自然な正直さと言うのがいいかもしれません。

 ごく最近、呼吸法をしている時に、そうか正直っていうのはこういうことなんだ、とわかった感じがありました。

 下腹部の不安に促される感じで呼吸法を始めました。呼吸法をすると、どうしても不安に向き合うことになります。どうしてもというのは正直でない気がしてきました。場合によって不安に正面から向き合える時がある、と言ったほうが嘘が少ない。その時はそうなって、しばらく続けていると、スーッと身体が楽になる感じを味わいました。心身脱落という禅語が浮かびました。その時、そうか、正直っていうのは真底自分に向き合うっていうことなんだ、とわかった感じがしたのです。

 そう思ってみると、自分の中でいろいろとつながってくるものがあります。まだ言葉にできない感じですが、あえて一つだけ書いてみます。思いつきをどう捉えるかという問題です。普段しょっちゅう、クライエントに、思いつくままになんでも話してくださいと言っています。思いつきは無意識を掘っていくための有力な武器だという意味で重要なものであることは間違いないと思います。"考え"を話すより正直度が高い、とも言えそうです。でも、思い付きの多くは、口から出まかせという表現が示すように、嘘八百に通じている感じ、つまりは"正直でなさ"も内包しています。

 さっきのわかった感じの後、思いつきが自分に向き合おうとする気持ちに伴われていればそれは正直と呼んでいいんだ。あるいは、向き合うことでそれが自分の深いところに根差しているのを発見すればそれをもう思い付きと呼ばなくてもいい。というように、矛盾が解消された感じになれたわけです。

 

 

 

 

 

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