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院長あいさつ

不安と完全癖

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 自分のものにしろ、クライエントのものにしろ、不安に注目し続けてきました。「不安と友達になれ」と自分にもクライエントにも言い聞かせてきました。そして、クライエントとの間でクライエントの不安がテーマになり、どうもその不安が僕にはピンとこないなあと感じた場合、そこにはたいていクライエントの主観性(思い込み)が存在している。『不安は裏切らない』では、そのように書きました。

 現在、日本中、いや世界中の少なくない人数の方々が感じているらしい不安。毎日のニュースからそう感じるわけですが、今回のコロナに関するその不安が、僕にはどうもピンとこないのです。このピンとこなさが、直接クライエントと不安について話し合っている時に感じるピンとこなさと似ている気がするのです。

 その観点から、思いつくことを書いてみたくなりました。

 多くの人々が感じている不安に過剰さがある、思い込みの存在がその過剰さを促している。どのような思い込みか?それは完全主義心性だ、僕が言いたいことはこの一点に尽きる気がします。

 完全主義心性が即思い込みだ、と言い切るのは無理があるかもしれません。完全主義心性がどのように思い込みにつながるか、完全主義心性の幻想性と言ってもいいと思いますが、まずはそこに焦点を当ててみます。

 以前と同様に、床から本を積み上げるという行動を喩えとして使おうと思います。高く積めるならその方がいい。高さを競う気持ちがあるとする。競ってやっているうちに天井まで届く例が出てきた。今度は、天井に届くことを目標にしようとの気持ちが生じる。そのうち、目標を達成しないと意味がない、そのための努力ならおしまない、という気持ちになってくる。天井に届いていなければ積み上げていないも同然だという気持ちすら生じてくる。ついには、天井に届いているかどうかだけを問題にするようになり、ある程度積みあがっても、全くなっていないと感じる。

 完全主義心性の思い込み(主観性、歪み)をある程度説明していると思います。本来はスタートラインから見てどの程度実現したかを評価すべき時に、視点が目標の方に移ることによって生じる歪み。どうしても結果から見てしまう、結果にとらわれてしまう、などの表現も可能でしょう。 

 しかしこの例は、完全主義心性の幻想性を十分に説明しきれているとは言えません。今の例では、目標、到達点、ゴールが、目に見えるものでした。完璧であることの喩えとして天井という目に見えるものを使いましたが、現実に存在する完全主義心性では、その目標である完璧さは目に見えるものではありません。はっきりしていないと言うか、具体的な何かではない。完璧であるようなイメージと言うのが近い。また、完璧を目指しているという感覚がほとんどない場合も珍しくない。はっきりとして具体的で目に見えるものではないからこそ、そして無意識的であればあるほど、完璧であるとの思い込みが成立しやすく、幻想の存在やその持続が許される、とも言えると思います。それはともかくとして、意識的無意識的に何か完璧なものを目指している心理であることは間違いないのですが、ここで、そもそも人間の力で、なんであれ、完璧を達成、実現するということが可能なのだろうか?との問題にぶつからざるを得ません。

 人間には完璧を実現することは出来ない。それなのに、それが可能であると思い込んでしまう。思い上がりと言ってもいい。完璧主義心性の幻想性の本質はここにあると思うのです。

 東日本大震災の時の記憶が蘇ります。特に原発事故に関して、あの事故はこうすれば防げたはずだ、安全のためには最悪の事態を想定するのが常道だが、その想定が足りなかった。津波についても、過去の歴史をさかのぼれば今回の事態の想定は出来たはずだ。そして備えが出来ていたはずだ。そのようなコメントにメディアが占領されていたという印象が残っています。僕はそれを聞きながら、強烈な違和感を感じていました。

 ここで僕は、このブログに頻出している"強迫性"の替わりに、"自力性"という言葉を使いたくなりました。吟味はしていませんが、言葉の意味する中身はほぼ同じだという気がします。でもここではこの言葉、自力性、の方がぴったりする。原発事故を防ぐために、津波の被害を逃れるために、ああすればよかった、こうするべきだった。そうしていれば防ぐことができていたはずだ。そう話しているテレビの中の出演者の多くに感じるもの。自力性の権化。万能感。

 この世の中に完璧はない。今回の事故や天災被害を参考にして、そこから何かを学び、次に備えよう、完璧に近づける努力をしよう。この態度と完璧があると思い込んでいる態度との違いを問題にしています。あの頃のテレビの出演者たち、原子力や防災の専門家たち、に問いただせば、前者のような答えが返ってくるのかもしれません。意識的にはそうかもしれない。本当にそうなら何の問題もないのですが、僕にはとてもそう感じられなかった。

 最近のテレビ報道やその他のニュースを見ていて、全く同じものを感じるのです。マスメディアの住人達、更には政府や自治体の首長たち、感染症が専門だという医者たち、それぞれにそれぞれの自力性を感じます。「ウイルスと戦う」という表現がまさにそのことを象徴していると言いたくなります。それぞれがそれぞれの自力性を垂れ流し、結果として、寄ってたかって国民の完全主義心性を強化している。国民を神経症的なつまりは不健康な心理状態に誘導している。国民全体が呪いにかかっているようなものだと言ってもいい 、僕にはそんな風に感じられます。

 呪いの効力が失われるのは呪いの正体を見極めることです。呪いの正体は完全主義心性です。自分の中にいかに完全主義心性が巣食っているか、そこを感じれば感じるほどその幻想性にも目が向き、幻想性の実感が増せば増すほど完全主義の程度が緩む、ピリピリしなくなる。そういう循環が生じると思います。

 自分の事を書いてみます。コロナの問題が出始めた当初から、僕の直観は、早く感染して免疫をつけるのが一番いいと言っていました。ほとんど不安を感じなかった。その後の感染状況を冷静に見れば、その直観が間違っていないことが証明されているように思えます。死者数を取れば、危険度はインフルエンザよりかなり低い、交通事故より低いかもしれない。感染して発症する確率もそんなに高くなさそうだし、ましてや重症化する可能性は相当低い。ところが最近、その直観とは相反する反応をする自分に気づかされることが重なりました。スーパーで並んでいた時、後ろの二人連れが盛んに何か話している。距離もそんなにあけていない。「もっと距離をあけて黙っていろ」と言いたい気持ち、怒りの気持ちが湧きました。また、買い物して自宅に帰った時、手を洗うだけでなく、買ったものとか買い物袋、着ていた服とかを除菌処理せずにいられなくなっている自分がいたのです。この二つの例はともに、不安の存在と完全主義心性が巣食っていることの証明です。認めざるを得ない。同時に、ああ呪われているんだなあ、という感慨が生じました。そして、この不安に向き合ってみると、感染して発症して死ぬのが怖いとか、家人や同僚にうつすのを怖れているというのではない。発症してそれがわかると周囲の人に煩わしい思いや不利益を生じさせるのを怖れている。と言うより、その結果自分が批判されることを怖れている。要は他者評価を気にしている。

 このように自分の完全主義心性に気づかされ、そこに向き合うことで、改めて自分の傾向を確認したと感じます。保身であり自己中心性です。そうはっきりしてしまえば、力が抜けます。感染防止策をやめることは出来ないにしても、少なくても、他人の努力不足に怒りを感じるのは減りそうな気がします。

 


 

 

 

 

 

 


 


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