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院長あいさつ
 この題のもとで何か書き残しているものがある感じがしています。

 精神分析的な人間理解を地図として自己観察を続け、気づきが積み重なり、変化していくと、その行き着く先には、我々を超えたものによって生かされているとの体験がある。そのような体験の存在を信じ、その体験が自分に訪れ、確信の度が十分なものになるのを願う。と同時に、そのような体験の実現があらゆる人に開かれているとの可能性を信じる。

 この信念が僕の日々の臨床の支えになっています。クライエントのいる場所に自分の身を置き、体感的にその人を理解しようとする時、共にその体験に開かれているもの同士だとの信念を必要とする感じがあります。

 信念と書きましたが、これを信仰と呼びたいという気分があります。そう呼んだ方がスッキリする感じがします。宗教性という表現があるとしたら、この僕の信念(信仰)は、それがまさに色濃く顕れたものである気がして仕方がありません。

 ここまで書くと、勢いのついた感じが出てきました。むしろ、先ほどの僕のスッキリする感覚こそが宗教の本質を正しく捉えたものなのではないだろうか?と言いたくなりました。

 神や教義を信じるのが信仰の本質ではない。この世の真実を体験できる可能性を信じること、それが信仰の本質だ。その体験が十分なものであることを信仰の深まりとか、宗教的境地の完成と呼ぶ。その体験の深まりを目指して生きていく生活を本当の信仰生活、真に宗教的な生活と呼ぶ。科学が実証的に、知的に、この世の真実を探求するものであるとするなら、宗教は、体験的に、直観的に、この世の真実を探求するものだ。前者は意識性に重きを置き、後者な無意識的なものに重きを置く。

 人間にとっての深く根源的なニーズにリンクしているのは間違いのない宗教という言葉。その意味は本来そういうことなのではないのだろうか?もしその理解が間違っていないなら、精神分析よりずっと歴史が古い"宗教"という言葉に敬意を表する意味でも、精神分析は宗教そのものであると言いたい。
 
 この題のもとで書き残した感じがあったもののうちの一部は表現した気がします。まだ残っている部分としてはっきり自覚できるのは、我々を超えたものに生かされているとの体験に至る道筋です。自分自身の体験が十分なものになってから書こうとの気持ちがありましたが、それでは書かないままになってしまいそうな気がしてきました。体験が不十分でも、想像を交えて書くことは出来そうです。キーワードは孤独です。が、稿を改めることにします。

 

 

 

 

 

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