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孤独 その三

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 「孤独 その二」で、看取りについて触れたところからの連想です。

 ペットの看取りについて、非常に似た感情、強い罪責感、を表現したクライエント達のことを思い出します。さっと4人の顔が浮かびます。年齢は様々ですが、全員女性です。

 愛するペットの死の瞬間に立ち会うことができなかった自分を責める責め方が、まさに異口同音との言葉がぴったりな感じなのです。

 睡魔に負けてつい眠ってしまった。一人のまま逝かせてしまった。さみしい思いをさせてしまった。可哀想だった。自分はなんてひどい飼い主なんだ。そこから更に、看取りから遡って、あの時こうしていれば良かった、もっとやれることがあったのにしてあげられなかった、との後悔の言葉が続く。

 本人たちにとってのペットの存在の意味、重要性、そこも大いに共通していました。唯一無二、かけがえのない大事な存在。気持ちが通じ、応えてくれる感じのする存在。一緒にいて最も安心できる存在。彼女たちにとってのペットは、お母さんでありまた自分自身でもある、僕の中にそういう連想が浮かんでくるという点でも共通していました。依存対象であると同時に、付き合い方に、母からこのように接してほしかったとの願いが込められている。

 彼女たちの表明する罪責感に接した当時も、自分を責めすぎている、ペットの方には死の瞬間に立ち会えなかったあなたを責める気持ちがあるとは思えない、というようなことを言っていたはずですが、自分自身が一人での死を迎えたいとの気持ちが固まって来た最近になると、その自分の発言への確信が深まってきました。彼女たちの罪責感の過剰さへの確信、そして過剰な罪責感を生じさせるところにあるはずの幻想の存在への確信です。

 夜爪を切ると親の死に目に会えないという迷信があります。これが迷信だというのはおおよそ共通認識になっていると思いますが、親の死に目に会えないことを良しとしない感覚もまた多くの人に共有されているのではないでしょうか。臨終に間に合うために急いで病院に駆けつけた、間に合った、間に合わなかった、という話は何度も聞いた記憶があります。医療者側も、家族が臨終に間に合うかどうかを意識して、不必要な延命措置を講じたり、偽って臨終に間に合ったことにしたり、といったことがあるに違いないと想像します。

 ここにも同じ幻想がある、と言っていいと思います。とすると、この幻想はかなり一般的なものだということになると思うのです。一般的な幻想、言葉を換えれば共同幻想。

 彼女たちとの経験がこの共同幻想を理解するために役に立つということはないだろうか?罪責感の強さが際立っているからこそ、そこにある幻想の姿がくっきり見えやすくなるのではないだろうか?また、全員女性だというところにも偶然ではないものがあるかもしれない。女性がペットを可愛がるところに母性が深くかかわっている。これは恐らく誰にも異論のないところだと思います。とすると、この共同幻想は母性の幻想性に通じているのではないだろうか?

 この問題意識に現段階でどこまで答えられるか?試みてみたいと思います。

 彼女達のペット愛は人間不信と強く結びついている。人間は裏切るがペットは裏切らない、との感覚が強い。そして、彼女達の人間不信が母子関係に根ざしている。母親との依存関係が強いと同時に、決して母親に心を許していない。母親とのセンスのずれが激しい。母親は、世間的には成功者、主婦としての場合もあるし職業人の場合もあるが、いずれにしても周囲から一定の評価を得ている。本人は、目に見えないもの、自然や人の気持ち、への感性に優れたものを持っている。その本人の特性が、母親に評価されていないどころか、ほとんど感じ取られていない。それなのに、彼女達自身は、母親との感受性のズレをあまり感じていない。

 先に述べたことに加えて僕が彼女たちに共通して感じたことを列挙してみました。これらから、僕は、彼女達が潜在的孤独感(このブログの『仮説』を参照して下さい、僕の造語です)をペット達に投影しているのは間違いない、と言いたくなるのです。実は彼女たちの秘められた孤独感こそがこの幻想を作り出している。

 お母さんは私に孤独感という傷を与えた。あまりにも無力でお母さんに守ってもらうしか生きるすべのない私はその事実をそのまま受け止めることができなかった。痛みを封印することで必死にお母さんとの一体感を得、保ってきた。でもこの一体感にはどこか満たされなさがある。何か物足りない。命あるものの世話ができるようになった今、愛らしい動物の姿を見ると、ペットとの交流でその物足りなさを埋められそうな気がしてならない。飼って世話をせずにはいられない。お母さんが私を世話したやり方に改善を加えたい。こんな叫びが聴こえてくる気がするのです。

 ここで、この幻想を理解するキーワードが孤独だ、と言えそうな気がしてきます。彼女たちは、ペットたちに孤独を感じさせたくなかった。死の瞬間、ここぞという瞬間、にこそ自分が居合わせて孤独の苦痛を少しでもやわらげたかった。この幻想を、良い母性があれば愛する相手に孤独を感じさせないことができるはずだ、と表現してみたらどうだろう?

 こう表現してみると、それは幻想ではない、母性とはそういうものだ、との主張もありそうな気がしてきます。主張はしないにしても、漠然とそんなイメージを抱いている人は結構いそうな気がします。共同幻想たり得るに十分だという気がします。

 僕としては、だからこそ、これが幻想であると認識することの重要性を強調したい気持ちです。幻想であるとの認識がはっきりすれば、余計な罪責感から解放されるからです。

 孤独を感じさせないことがより良い母性だとは言えない。これは僕にとっては疑いようのない事実です。そもそも、どんなに母性的な愛情を注いでも孤独を感じさせないことは難しい、いや不可能だと言っていい。仮にそれに成功した状態をを想定したとしても、それを真の愛情と呼ぶのは大いに疑わしい。むしろ、孤独を感じることが成長のための契機になることは少なくない。何らかの縁があって更に孤独を引き受けることが出来る方向に進んでいければ、それはイコール成熟への歩みだ。『孤独 その二』で述べた、「親父は死の直前に孤独を引き受けて仏になったんだなあ」との直観。あれは孤独を引き受けることの難しさと大切さを僕に教えてくれた体験だったのではないか。

 そしてこの考えの上に立つと、いろいろと辻褄が合ってくる気がします。まずは、僕にこんなことを考えさせるきっかけになったクライエント達が全員女性だったこと。やっぱり決して偶然でなかったのではないだろうか。母性との関係で生じた傷を、自らの母性で癒そうとする。そりゃあ女性の方がチャレンジしやすい。更に、この幻想が共同幻想になることの説明も難しくなさそうな気がします。潜在的孤独感はもちろん男性にもある。男性はそこからの回復の試みに自らの母性を使うほどそもそも母性に恵まれていない。だから母性を使ったチャレンジには進んでいきにくい。でも、だからこそ、良い母性への憧れが強くなる。


 


 

 



 

 

 

 

 
 

 
 

 

 

 


 

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