自己観察力が増すことと感じる力を育てること。
この二つが密接不可分な関係にあるとの感じは以前から抱いていました。今から思うと、その密接不可分な関係を、感じる力を育てるために自己観察力を高める訓練をする、というように捉えていた気がします。
その捉え方はちょっと違う、正確ではない、因果関係的に捉え過ぎている、浅いと言ってもいいかもしれない、実は、その二つは全く同じ事象を別な角度から表現したものだ、そう感じさせられる出来事があったので、書いてみたくなりました。
孤立型の男性です。引きこもりが続いています。僕のところに通ってくる以外ほぼ外出をしませんが、比較的最近、近所のスポーツジムに週一で通うようになりました。担当の女性トレーナーがついています。ある日その人がたまたまいなかった。急な用事が発生したらしい。それを知った時の気持ちを「こんなにがっかりするとは思わなかった」と表現したのです。
僕はこの発言に注目しました。新鮮なものに感じました。実感がこもっていると同時に、がっかりする自分を見ている態度があると感じたからです。この人にこの態度が育ってくることを待ち望んでいたからです。
僕は「自分が感じたことを見られるようになってきたみたいだ、今までこういう言い方をすることがなかった」と話しました。それへの本人のレスポンスが「自分としては、自分を見られるようになってきたかどうかはわからない。以前だったら仮に同じようなことがあってもこれほどはがっかりしなかった気がする。そう言いたかった」というものだったのです。
このやり取りが僕には面白かった。貴重なもののように思えました。自己観察力が増すことと感じ方が増すこととは同じことだったんだ、それをこの人が証明してくれた。僕の直観がそう言っていると感じ、発見した気分になりました。
この人とは30年の治療関係が続いています。治療意欲が強く、熱心に通ってきます。感じていることを表現しようとの努力も怠りません。表現力もかなり豊かなものがあります。であるにもかかわらず、自己観察力がなかなか育ちません。
自己観察を巡って、この発見の少し前にも、僕にとってはやはり発見と呼びたくなる出来事が起きていました。
自己観察的態度が育つためには不安との付き合い方が問題になります。不安を引き受けることができるかどうか、僕の表現だと、不安と友達になれるかどうか、そこが重要なステップだと考えています。
その点について、この人とは同じやり取りがほぼ30年間ずっと繰り返されています。「先生のその考えは不安の強くない人にしか通用しない。僕には無理だ。そんな余裕はとてもない」というものです。
不安を引き受け不安を観察する態度を取ることはできないと頑なに主張しますが、不安を回避するためのこの人なりの方法について、セッションの場で、振り返っての話し合いは可能です。むしろ積極的、協力的です。二人の間での共通認識が蓄えられています。そのうちの一つ、相手の考えや気持ちに一致させようとするという傾向について話しあっている時のことでした。僕が、それをやっているその最中にそこを見ようとしてほしい、と言ったんだと思います。彼のレスポンスが「それが怖いんです。見ることは離れること。離れることは何かが壊れること。多分見捨てられること」というものでした。
この発言が僕を強く刺激しました。そして以下の言葉が浮かんできました。「そうか、呪いはその正体をみられたら効力を失ってしまうっていうことか」
不安を回避するために相手の気持ちに一致させようとする心の動きは、僕に言わせると、いわば呪いです。幼少時期の環境の中で、本人からすると、そうするしか安心を得る手段がなかった。他に選択肢がない。好きでそのやり方を選んだわけではない。洗脳と言ってもいい。呪いや洗脳の側からすると、そうだと見抜かれないためには、見られる事を拒絶したくなるに違いありません。この人の場合、その拒絶の程度が強い。そう考えると、この人の自己観察力の育たなさが説明できそうな気がしたのです。
それがあったすぐ後の「こんなにがっかりするとは思わなかった」との発言でした。僕に特別意味のあるもの、発見、との感じが生じたのは、この経緯の関与も大きいに違いありません。
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