2012年2月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年2月のブログ記事

感じるということ

『感じるって?』に続いて、もう少し"感じる"ということについて書いて欲しいとのリクエストがありました。

 

 何かについて、「僕はこう感じる」と誰かが言い、別の人が「私はこう感じる」と言う。そういう会話が僕は好きです。何かは何でもいいんですが、例えば映画だということにしておきましょう。同じ映画を見た人が何人かで会話をしている状況です。「あの俳優が好きだ」「あの場面で感動した」「全体としてつまらなかった」「監督の意図がわかりにくかった」などと、ありとあらゆる感想があると思います。最初の、俳優についてだったら、「その人のどこが好きなの」との問いに、「ハンサムだから」と返事があり、「えっ私はちっともハンサムだと感じない。こっちの人のほうがずっとハンサムよ」というような会話がいい。その俳優について、映画評論家の誰かがこんなことを言っていたとか、その俳優は過去のどんな映画に出演していて奥さんはどこの誰だとか、そういう話も少しならいいんですが、ずっと続くとつまらない。それよりも、さっきのに続いて、「その人の他にも私はこんな人をハンサムだと感じる」「それは私の好みじゃない。大体私は顔にはあまり関心がない」「じゃあどこに魅力を感じるの」「演技力よ」とか、そんな風に続いていくのが素敵だと思います。この俳優のここが嫌いだいうお題のほうが、もっと盛り上がるかもしれません。いずれにしても、そう感じることが良いか悪いか、正しいか正しくないかから自由になって、それぞれの感じていることが主となって展開する会話が楽しい会話だと僕は思います。

 私のクリニックでは、定期的にケースカンファランスをやっています。セラピスト達が何人か集まり、一人が自分の担当しているケースを紹介し、他の出席者がコメントを述べるというものです。治療経験のほとんどない、新しい出席者のコメントが、ベテランのそれよりずっと魅力的、刺激的だと感じることが時にあります。ベテランのコメントは、ステレオタイプ、ありきたりで、新人のは初々しくて力があるんです。まとまっているとか、間違ったことを言わないとか、そういう点ではベテランにかないません。断片的であっても、その人が本当に感じていることを言っている時、べテランのコメントよりずっとインパクトが強いのです。

 私は、ケースカンファランスでは、自分が感じていることだけを話そうと心がけてきました。それをやっていると、孤独を感じます。自分が感じているのと同じように感じている人が自分以外にはいないと感じるからです。そんな時、自分の言ったことは間違っていたんじゃないか、見当はずれだったんじゃないか、という不安が生じます。「間違っていても、見当はずれでも、そう感じたんだから仕方がない」、理屈でそう言い聞かせても、不安はなかなか消えません。よくよく考えるとやっぱり間違えていた、浅はかだった、大事なところを見逃していた、ということが、まずはあります。そしてまた、自分の言ったことは、本当に自分が感じていることだっただろうか、感じていることを本当に正直に表現しただろうか、とも考えます。他の人の発言に影響されたり、間違いを恐れる気持ちが働いたりして、感じていることを歪めて言ってしまったと気が付かされることが少なくありません。本当に感じていることだけを表現するというのは、結構簡単ではないと痛感します。

 そんなことを繰り返し経験してきたことと大いに関係していると思いますが、孤独を感じることに大事な意味があるのではないかという感じが、少しづつ強くなってきました。孤独を感じ、不安に耐えることが、さっきの、新人の初々しさに通じている気がします。そう言えば、近藤先生のケースカンファランスでのコメントは、初々しと言うと少し違うかもしれませんが、いつも生き生きとして力強かったことを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 多くの精神科医が目指さないのに、何故この道を選んだのか?との質問をいただきました。

 

 『はじめまして』でも書きましたが、私には、多くの精神科医がどうして私と同じ道を選ばないのかが不思議で仕方がないんです。私にとっては、当たり前っていうか、精神科医になるならこれしかないじゃないか、という感じなんです。そう感じる自分が相当変わっているということになるのだと思います。

 日本では、変わっていると考えざるを得ないし、圧倒的に少数派ですが、世界標準だと、そうでもないかもしれません。精神分析がアメリカでもすたれてきているという話を聞きますが、最近の映画でも、分析治療のセッションと思われるシーンがよく出てきます。日本でよりは、精神分析が社会に馴染んでいるのは間違いないと思います。

 私は、医学部に入る時から精神科医になりたいと思っていました。そして精神科医とはこんなことをする職業なんじゃないかという漠然としたイメージのようなものを持っていました。精神分析関係の本を読んでいたわけではないのですが、なんとなく、とにかく患者と話をする、その中から何か変化を目指す、というようなイメージだったような気がします。大学を卒業し、実際に精神科の医局に入って、そのイメージが現実と大きくはなれていることに気づかされました。治療と言えば薬物療法、精神療法は個々人にまかされているという感じでした。薬物療法の専門家はいても、精神療法の専門家はいないんです。

 ここまで書いて、この辺りのことをもう少し詳しく述べたくなりました。精神療法の専門家がいないというのは、私の主観としては正直なものなのですが、丁寧な言い方ではありません。その当時(今から38年前)、医局の中に、三つの研究グループがありました。生化学、神経生理、精神病理の三つです。前二つは、直接的には臨床と関係のない研究です。生化学の人たちは、ネズミを相手に向精神薬を使って色々な実験をしているようでした。神経生理の人たちは、脳波とか、眼球運動とかを機械を使って測定していました。いずれにしても、実験し、データを積み上げて論文を書くことを目指している人達なんだなと、それらの分野にほとんど興味のない私には、そんな風に見えていました。そして、ここのグループに属している人達は、精神療法がどうのこうのとかというようなことを、そもそもほとんど言いません。ところが、精神病理のグループに属している人達は、そうですね、精神病理学というのがどういう学問かということをまず説明しなければいけません。患者の病的な心理について理解しようという建前から、哲学用語などの難しい表現を用いて、ああでもないこうでもないと言葉を連ねる学問、という感じでしょうか。実験をするわけではなく、患者との臨床場面が直接の素材になるせいか、他のグループからは、精神療法についても一家言持っているとみなされる傾向があったんです。本人たちも、精神療法についての議論は自分たちの領域だとの気持ちを持っているようでした。

 ところが研修医の私から先輩たちの臨床を間近でみていると、生化学や神経生理のグループの人たちのほうが、精神病理のグループの人たちより、ずっと治療が上手いんです。患者のよくなり方が違うんです。この違いは、薬物療法によるものではなく、精神療法などと特に意識していない人達のほうが、ずっと精神療法的だというところからのものだと感じました。この印象は、このころの私にとって、結構強烈なものでした。

 今から思うと、ポイントは、頭でっかちかどうかだ、という気がします。精神病理グループの人達に、はっきりとその傾向があったと思います。

 この頭でっかちさは、その頃何回か出席してみた、日本精神分析学会でも感じました。精神病理グループの頭でっかちさと、質は微妙に違うのですが、外国の文献を引用するのが大好きで、自分で感じたことよりも、すぐにそっちの話になるところは、全くそっくりでした。質が違うと感じるのは、引用する文献が、片方がドイツ語圏、片方が英米圏であるせいかもしれないと、今書いていて思いつきました。

 当時読んだ本で最も印象に残っているのは、フリーダフロムライヒマンという女性精神分析家の、確か、Principles of Intensive Psychotherapyという題のものです。内容はもうほとんど記憶していないのですが、この人はちゃんと自分で精神療法を苦労してやって、その体験をわかりやすい言葉にしている、という感じがしました。この人のようなセラピストから教育分析を受けたい、と思っていました。

 近藤先生に出会う前の記憶をたどってみて、あらためて、自分は師匠を求めていたんだな、と感じます。何故セラピストを目指したかと問われても、冒頭に述べたように、自分にとってはそれしかなかった、という感じです。

 

 

 

 

 

自費診療

保険が使えない自費診療である理由は?という質問がありました。

 

 1991年の6月に開業しました。それまでは、大学の精神科医局、私立精神病院、公立総合病院の精神科に勤めましたが、すべて保険診療でした。保険診療の範囲内で、精神療法が出来ないものかと試みていました。

 精神療法的に接しようと思うと、一人の人との診察時間に時間がかかります。開業後は、一人50分と決めていますが、保険診療の中では、50分は取れないにしても、ゆっくりある程度は時間をかけようと思うと、色々な摩擦が生じ、ストレスが絶えません。外来では、待っている患者の待ち時間が増えます。受付事務から苦情が来ます。私のほうも、待っている人のカルテが増えてくるのを見るだけで、焦りの気持ちが強くなります。病棟では、定時の時間内だけでは、診察を終了することが出来なくなります。消灯時間の直前まで患者と会っていると、夜勤の看護者から文句が来ます。保険診療に伴う書類を書くのに結構な時間をとられるのもストレスでした。

 この事情を少し角度を変えて述べてみます。一人に50分時間をかけ、一日6人の診察があると仮定した場合、それを保険診療で行うとすると、得られる収入は一日2万4千円弱にしかならないのです。月額にすると50万弱になりますが、これだと、事務所の家賃に少しおつりがくるぐらい、受付事務の人件費も出せません。私には全く収入がないどころか、毎月赤字が重なっていくということになります。一人に時間をかけることにこだわる限り、保険診療でクリニックを維持していくのは、全く不可能だと言っていいと思います。

 以上のようなことから、開業する時に、自費診療で始めることに迷いはありませんでした。近藤先生がそうしているということも大きかったと思います。私の属していた医局では、自費診療で開業する例が初めてだったので、経営的に成り立っていくのかと、心配してくださる方が結構いました。1958年に近藤先生が開業する時も、医局の先輩から、日本ではそういう形での診療所は無理なんじゃないかと言われたそうです。近藤先生の開業時からすでに60年以上過ぎているわけですが、今現在でも、精神療法専門(自費診療にならざるを得ない)のクリニックは、精神科クリニックの爆発的な増加の中で、きわだって少ない、という印象です。

 医師以外のセラピストがオフィスを開くというのが、少しは増えているのかもしれません。しかし、経営的に大変だという話が耳に入ってきます。彼らが臨床をやろうとする場合、最も現実的なのが、保険診療のクリニックに雇われることのようです。クリニックの医師の依頼を受けてセラピーに携わるということになります。依頼する側の医師は精神療法を実際に行ったこともないし、精神療法についてほとんど何もわかっていません。そのような医師が主治医であり、立場としては上だということになりますから、この治療構造の中で依頼された人との精神療法を続けていくのは相当にやりにくいもののようです。臨床心理士からそういう話を聞かされることが少なくありません。セラピストとして成長していくのも簡単ではない環境だと思います。

 一方、精神科を訪れる人たちは、ただ薬で症状がやわらげばいいというだけではない、『治療って?』の中で述べたような、人間としての成長を求めるというニーズをお持ちの方が少なくないと私には感じられます。もしその私の感じが間違っていないなら、患者の求めるものを全くと言っていいぐらい提供出来ていないのが現在の精神医療の現状だと言えるのではないでしょうか。

 このミスマッチを少しでも解消していくには、そのニーズに応えられるセラピストが少しでも多く育つことがなによりも大事なことでしょう。その人たちを育てる教育の場所も、現状では、自費診療の現場の中でないと難しいのではないかと考えています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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津川クリニック

感じるって?

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 ホームページのタイトルが『感じる力を育てよう』になっているところにも表れているように、"感じる"ということを強調しているようだが、その意味は?という質問をいただきました。

 近藤先生の話は、これからも何度となく出てくることになると思いますが、この質問にも、近藤先生の名前を出さずに答えるのは不可能です。近藤先生の著書に『子供の命に呼びかける』という一冊があります。以前は、『感じる力を育てよう』というタイトルでした。20年前、私のクリニックの開業時、パンフレットを作る必要がありました。分析の時間に「パンフレットのタイトルを『感じる力を育てよう』にしたいのですが?」と先生にお願いしました。正確な言葉は忘れましたが、即座に、「どうぞ使ってくれたまえ」というような内容の返事がかえってきました。パンフレットのタイトルをそのままホームページのタイトルにもしているわけですが、許可を得たとはいえ、まあ言ってみれば盗作です。
 
 
 近藤先生は、1999年に87歳で亡くなられました。命日が2月3日なので、明日でちょうど丸13年経つことになります。亡くなられる直前、前年の1998年秋まで、21年間、ほぼ毎週、先生のご自宅に分析を受けに通い続けました。先生が"感じる"ということの大切さを主張なさっていたところが、私にとっては、先生の魅力の相当重大な要素です。
 
 "感じる"ことに関しての先生の言葉を、思い出すままに記してみます。「実感することが大事だ」「直接的に感じることが大事だ」「肌で感じる」「痛感する」「内部感覚を磨け」「直観力を磨け」「頭よりハートだ」「ホーナイも、ケースカンファランスの時、弟子たちに、そこでどう感じたかとしょっちゅう質問していた」「道元の言葉に、知解、情解、体解というのがある、体解を目指せ」とまあ、すぐにこれだけ出てきましたが、ここまで書いて、そもそも普段の先生の態度がそうだった、いつも言葉が腹から出てきている感じだった、自分が感じたことや体験したことしか言わない態度を率先垂範していた、ということに思い至りました。
 
 感じることを大事にするというのは、私にとっては信仰のようなものなのかもしれない、という考えが今浮かびました。それが大事であることはそれこそ理屈ではない、大前提だ、当たり前のことだ、という感じです。
 
 

 

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