2012年5月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年5月のブログ記事

ナルシシズム

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 ナルシシズムを実感し理解するとはどんな感じかを教ええてください。以下のことはポイントになるでしょうか?1、ナルシシズムと恥ずかしいという感情は関係しているか。2、ナルシシズムと健康的な自己肯定感の違い。3、相手を思いやるということ。    という質問をいただきました。

 

 ナルシシズムの僕なりの定義から始めます。ナルシシズムを説明するために、まず、自意識を取り上げる必要があると考えます。自意識を、自分が他人にどう見られるかを気にする心理、と定義します。他人からどう見られるか、どう思われるか、自分が他人にはどう映るか、そこを気にする自意識心理のない人はいない。そう言っていいと思います。よく、「人目を気にしないで、自分のやりたいことを大事にしなさい」というアドバイスがあります。アドバイスとしてはいい場合が多いし、目指す方向としてなら賛成ですが、実現はほぼ不可能です。自意識がなくなることはまずありえないと僕には思えるからです。客観的には不可能ですが、そうアドバイスされた人の主観にとって、人目を意識している感じがなくなることは有り得ます。その時の心理状態をいわゆるナルシシズムと呼びたいのです。自意識が無意識になっていると考えていいと思うのです。これが可能になるのは、人からどう見られるかを気にする必要がないからです。それはつまり、見られる自分に疑いがない、自分に酔っている、難しく言うと、自己イメージに同一化している、ということ以外にはないと考えます。他人から受け入れられ賞賛されるに決まっているとの思い込みに成功している、とも言えるでしょう。

 "いわゆ"ると書きましたが、"狭義の"ナルシシズムがこれだ、と言い直します。「世間に恥ずかしくないように頑張りなさい」との激励がよくあると思います。これは、狭義のナルシシズムを目指せと言っていることになります。狭義のナルシシズムを目指す気持ちがベースにあって、かつ自意識が無意識になっていない状態を、広義のナルシシズムと定義します。理想の自己イメージに同一化したいが出来ないでいる状態と言い直しても同じだと思います。

 ご質問のポイント1には、答えたことになったんじゃないでしょうか?恥ずかしいという感情は、たいてい、僕の言う広義のナルシシズムです。恥ずかしいというのは、こうなりたいという理想イメージからのずれを感じた時に生ずる、と言えそうだからです。

 健康的な自己肯定感とは、我々を超えた大きなものに生かされていると感じることだと思います。これ以外の自己肯定感には、程度の差はあれ、すべてナルシシスティックなものが含まれている、というのが僕の考えです。

 相手を思いやる場合も、ナルシシズムが含まれていない場合はないと思います。医療関係、福祉関係に従事する人たちの利用者への思いやりにもそれを感じます。思いやっている自分にうっとりしている場合も決して珍しくないし、うっとりしていなくても、これでいいんだと思っていれば、それは僕の言う狭義のナルシシズムです。さらに広義のナルシシズムのない人、つまり、同僚、上司、利用者から、自分の思いやりの態度がどう評価されているかを気にしない人を、僕は想像出来ません。

 僕のナルシシズム論を言い換えると、人間というものはそもそもナルシシスティックなものだ、そこから逃れられない、ただ、ナルシシズムを自覚する度合いを増やすことは可能だ、ということになります。

 質問者に対しては、自意識を自意識として感じることを当面の目標としたらどうか、とのアドバイスが浮かびました。

生かされている感じ

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日常生活の中で 生かされていることを感じられるとはどんな感じか、という質問をいただきました。

 

 この質問にはちょっとひるみます。想像するに、このブログで紹介した「我々を超えた大きなものに生かされ自然や他の人達との平等性を体験することが大事だ。体験がないならそういう体験がありうるとの信念を持て」との近藤先生の言葉を踏まえての質問だと思われます。一瞬、「自分はその体験に至っていないから、この質問に答える資格はない」との返事が浮かびました。

 気持ちを取り直して、現時点で思い浮かぶことを書いてみることにします。

  まずは、生かされていることを感じるために、改めて、呼吸法をやってみることをおすすめします。前回、清々しい気持ちになる、と書きました。実は、今のところ、その感覚はそんなに強いものでも長く続くわけでもありません。大きなものに生かされている感じだ、とはとても言えません。でも、その体験を覗いている感じがある、そこに続いていそうな予感がある、と書いて、嘘をついている気にはなりません。

 お風呂とトイレを大事にするといいよ、というのも近藤先生に教わった事です。お風呂で呼吸を意識しながらゆっくり半身浴、僕も毎朝やっています。

 呼吸法をする時間の取れない、どんなに忙しい人でも、トイレには必ず行きます。その時だけでも慌てないことにしようと心を決めて、ここでは呼吸に意識を向けるのではなく、ゆっくり、小便や大便の出る気持ち良さを味わう。これもオススメです。

 クリニックまで歩いて15分のところに住んでいます。少し回り道をし、公園を二つ通るルートを歩くと、ちょうど一時間ぐらいになります。雨の日以外はそうしています。少し早めに出て公園のベンチにしばらく座っている日もあります。年ごとに、木々の緑や花々を美しいと感じる感じ方が強くなっている気がします。身体に染み入ってくる感じがし、この感じも、生かされている感じに通じていそうです。こう書くと、何かひっかかります。それほどのもんじゃないのにそれらしく書くなよ、という声が聞こえてきます。つい先日の体験を書きたくなりました。いつものベンチに座って、呼吸を意識しながら、池や木々をぼんやり眺めていました。池の向こうに人影が見え、どうも若い女性のようだと気が付いた時の、そっちに目が向く勢いの強さ。木々や花々に感じる感じ方が年ごとに強くなっているとは言ったって、それは元々微かな感覚で、強さの観点からだけ見たら、こっちに向かう方が圧倒的に勝っているんだと実感させられました。

 食事をする、お茶を飲む、そういう時にも、美味しいと感じる感じ方が深まり、そのことが生かされている感じにつながりそうだ、との予感があります。

 酒を飲んでいる時、そんなに量を飲んでいないのに、全身に、幸福感が満ちるように感じる時があります。この感覚は結構強烈です。そして、ナルシシスティックなものだけではなく、さっきの、木々や花々に感じる感覚と共通するものも含まれている感じがします。

 最後に、ナルシシズムからの連想を書きます。ナルシシズムへの自覚が増すこと、そして減っていくこと、それが、生かされている感じが増すことと全く同じプロセスではないか、そんな仮説を持っています。この仮説を自信を持って主張できるようになりそうな予感があります。

 

不安

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不安について書いて欲しいとのリクエストがありました。

 

 不安について、僕が一番言いたいことは、「不安と友達になれ」です。不安と一言で言っても、一様ではありません。強い、弱い。浅い、深い。頭で考えることとの結びつきの強いもの、身体で感じるもの。色々な不安があることは一応わかった上で、あえて大雑把に「不安と友達になれ」と言いたい気持ちがあります。「友達になれ」とは、排除しようとするな、一緒にいることを目指せ、長く付き合うつもりになれ、何かのメッセージを与えてくれるものだと捉えろ、などの意味合いです。

 不安というのも感情の一つだと言っていいと思います。怒り、喜び、悲しさ、悔しさ、嫉妬、楽しさ、幸せ感、絶望感、孤独感など、色々な感情の中で、不安と,不安に近縁の緊張や恐怖は、特別なもののように思えます。どのような意味で特別か、そう考える理由を少し詳しく説明してみます。

 僕は、分析を受けるまで、不安を体験したことがありませんでした。もちろん、人前に立たなきゃいけない時とか、試験前とか、そういう時には不安や緊張を感じていました。ここでは、そういう不安とは別の、個人的不安、主観的不安のことを言っています。今、存在論的不安という言葉を思い出しました。そうも言えるのかもしれません。分析を受け出して間もなく、不安を自覚するようになった頃、近藤先生から「今感じている不安は最近現れたものなのかそれとも以前からあったものか」と質問されました。そう質問され、自分に聴いてみると、自覚していなかった頃にも不安が存在していたことは間違いないと感じました。その感じが新鮮というか、ちょっと不思議だったのを憶えています。それはともかくとして、それ以降は、ただ不安に耐えているか、自覚しているかしていないかの違いだけで結局は不安を紛らわして過ごすか、そのいずれかの時間がほとんどでした。そのうちに、たまには不安に静かに向き合えるようになり、その時間が少しづつ増えてきました。いずれにしても、不安がほとんど常に存在し(意識から離れない)ているには変わりなく、不安との付き合いが自分の人生だったと言いたくなるぐらいです。そして、不安がなければ自分は変わることが出来なかったと、確信的に言える気がするのです。

 「不安というのは氷河のクレバスのようなものなんだよ」これは30年以上前の近藤先生の言葉です。氷河の下には大地があり、クレバスは大地に至る通り道だ。それと同じように、不安は無意識を掘っていくためのトンネルのようなものだ。そういう意味だと思います。今述べた僕の個人的体験からも、大いにうなづける感じがあります。このたとえを使うと、自分の変化を次のように言えるかもしれません。分析を始めたころは氷河の上を歩いていて、クレバスにはまらないように気を付けていた。不安と付き合っているうちに、大地に届くところには至っていないが、「そうか、自分の心は氷河のように凍っているようなものなんだ」と感じるようになった。

 次は少し理屈が入ります。人が生きていくために必要な活動を、意図してやるものとそうでないものに分けると、呼吸という活動には特別な位置を与えることが出来るように思います。眠っている時(無意識の時)、原則としては、見たり、聞いたり、歩いたり、食べたりは出来ません。しかし、心臓は動いているし、消化活動も行われています。呼吸もしています。起きている時(意識がある時)、見たり、聞いたり、歩いたり、食べたり、やろうと思えば出来ます。しかし、心臓を思い通りに動かすことも、消化活動をコントロールすることも出来ません。呼吸はやろうと思って出来ます。意識的にコントロールできるもので、かつ、コントロールを離れても自動的に機能できるもの、呼吸以外には思いつきません。呼吸が特別だというのはそういう意味合いです。意識と無意識との仲介役を果たせそうです。

 呼吸を意識する。意識してゆっくり吐き、吐き切ったところで、力を入れずに空気が入ってくるままに吸い、その間の息の出入りを味わう。近藤先生から教わった呼吸法です。「内部感覚を磨く(自己観察力が増す)ために役に立つから是非続けるといいよ」とすすめられ、心がけています。

 出る息入る息に注意を向けることと、さっき書いた、不安に静かに向き合うというのは、僕にとっては、実は、ほとんど同じことなんです。全く同じではなくほとんどと書いたのは、息の出入りに注意を向けていると、いつのまにか不安が消えてしまうことがあるからです。さっきのようなゆっくりとした呼吸を3,40回続けると、手足の先が暖かくなり、山歩きをしている時のような清々しい気分になります。

 不安を自覚するようになり、不安になんとか耐えているところから、呼吸法の助けを借りて不安と静かに付き合えるようになってきた。この変化と並行して、内部感覚が磨かれてきた気がする。これが、不安を特別なものだとみなす理由です。

 僕の経験からも、不安が強い時には、呼吸法をやろうという気になりません。ただ耐えているだけしか出来ません。でも、ただ耐えているだけで、意識と無意識との間の疎通を維持していると感じます。そのうち呼吸法が出来るようになるのを信じて、待っていて下さい。

 

 

 

 

 

自己観察力

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自己観察力について詳しく書いて欲しいとのリクエストと、自分に向き合うとはどういうことかとの質問がたまたま重なったので、一緒に応えます。

 

 自己観察を、自分に向き合う、内面の声を聴く、内面を見る、などと言い換えることが可能だと思います。この態度が定着し、自己観察力が育ち、セラピストの力を借りず、一人で自己観察を続けていけるようになること(これを自己分析が出来るようになると言ってもいいと思います)が分析治療のゴールだ、との考え方があります。僕も、反対ではありません。

 意識が内側に向かうわかりやすい例を挙げれば、腹が減ったと感じる、便意を感じる、眠気を感じる、不安や緊張を感じるなど、いろいろ思いつきますが、普通の日常生活では、そっちに意識が向いているのは短時間で(一瞬で)、向かう力も弱い。そして、人間関係の場面、仕事、家事、学校での場面、本を読む、テレビを見る、何をしているにしろ、時間的にも強度においても、人間の意識はほとんど常に外側を向いている、と言っていいのではないでしょうか。

 自己観察力を育てていこうとする時、カウンセリングだけでは不十分だという気がします。忙しく外側ばかり向いている日常の中で、どこかで意識して、そういう時間を作ることをお勧めします。外側からの刺激を断って、自分の内面から浮かんでくるものを感じる、自分の中で今動いているものを感じる、そういう時間です。

 クライエントに、そういうことをよく話します。それがうまく伝わらず、僕が言いたいのとちょっとずれた自己観察になる場合があります。そう感じた例を三つ思いつきました。

 一つ目は、傍観者的態度です。自分のことについて、こういうところが問題だ、わがままなところだなどと、内省的な内容の話をしながら、他人事のようにしか聞こえない言い方をする場合です。批評家的、評論家的態度とも通じます。

 二つ目は、例えば、こんな感じです。「友達は社交的で誰とでも仲良くなれるのに、僕はそういうことが出来ないんです」「どうも僕は不愛想に見えるらしいんです」「あの人と比べて気の使い方が下手なんです」などと、自分について考えようとはしていますが、他人と比較したり、他人にこう見えているのではないかとの意識(自意識)が混ざっている場合です。

 三つ目は、ある一つの感じにとらわれてしまう場合です。前二つと違って、内側から湧いてきているものを直接感じるところまではいいのですが、そこにさらに何か、例えば、その感じがなくならないと嫌だ、というような気持ちが加わることによって起きます。

 自己観察とは、内側にあるものを直接感じてしかもいじらない態度だ、と言いたいのです。

 自己観察力が増すプロセスを、緊張を例にとって、やや図式的に述べてみます。初めは、あの時緊張していたと事後的に気づくようになり、次に、緊張している最中に緊張している自分を自覚できるようになる。緊張している自分を感じながら、緊張をなくそうとせず、緊張したままで、やれることやる、あるいは何もしない。更に、夢の中に、緊張している自分とそれを見ている自分とが両方現れるようになる。

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