2019年6月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2019年6月のブログ記事

 このタイトルでブログを書こうと思うきっかけになった経験は、酒を飲むという行為に関するものです。

 結論から先に言ってしまうと、酒を飲むという行為に強迫性が入っているのを発見したと同時に飲酒量が激減した、です。

 昨年の暮れのクリニックの忘年会でこの話をしたら「年を取って飲めなくなっただけではないか」と茶化す人がいました。確かに老いと関係しているには違いないと思います。茶化した人の意図は、飲酒量の減少が強迫性の発見とは無関係に単に身体的な老化現象の表れではないかというもので、老いを否定的にとらえる気分が入っていると想像します。僕は新たに、この経験から、老いを肯定的にとらえる視点を提供してみたいとも考えています。

 このブログの『生きているのが辛い』で、酒の醒め際に不整脈が出ることにきづいた、と書いています。そして、専門家に相談してその不整脈は気にしなくてもいいと言われたのに気になってしまう、止まるんじゃないかとの想像が走って心臓を見張ろうとしてしまう、と続け、それは自分の力で何とか生き延びようとする気持ちのあらわれではないか、委ねられなさと言ってもいい、無意識のうちに常に働いている心理ではないか、実は生きる辛さの元はここにあるのではないか、との仮説を述べています。その仮説は、自分の中で徐々に確信へと変化し、『不安 その五』では、自分の力で何とか生き延びようと必死になることが自己中心性の元だ、と書いています。そしてここで、強迫性の元もここにある、と付け加えようと思います。

 早く行動しなければならないという僕のメインの強迫性が、母との付き合いにその根があるのは、『強迫性と自発性 その三』で述べたように、僕にとっては確信です。生き延びるために必要なものだったに違いありません。

 さて、不整脈の話に戻ります。不整脈が原因となって心臓が止まるかもしれないとの不安に駆られ、心臓の動きを見張ってそれを何とか食い止めようとする心理(まさに強迫性)を発見したのと同時に、酒の醒め際に起きるんだから、不整脈を酒の飲み方への警告だと捉えようとの考えも浮かびました。意識的に酒量を減らそうと試み、まずは週2回を禁酒日にしました。

 ここまで書いて、気づいたことがあります。これって、書くという行為にある強迫性を発見した経緯と似ているなあ、というものです。意識的に丁寧に書こうと試みたことがそれを妨げる強迫性に気づく契機になった。意識的に酒を減らそうと試みたことがそれを妨げる強迫性に気づく契機になった。そして強迫性に気づくと、丁寧に書くのが楽になる。酒を減らすのが楽になる。僕は今まで、強迫性に気付けば自然に自発性が増すと言い過ぎていたかもしれません。片手落ちだったかもしれない。強迫性に気づくためにも、意識してそこから抜け出す方向を模索するのが大事なのかもしれません。

 さて、また酒の話に戻ります。週2回を禁酒日にすること自体はそれほど苦痛ではありませんでした。でも、飲んでもいい日になると、毎日飲んでいた時より酒量が増える傾向が出てきた。そして、やっぱり、翌朝、醒め際に不整脈が起きる。その頻度が増した感じもありました。そこで、どのぐらいの量を飲むと不整脈が起きやすくなるのか、酒量と不整脈の関係を観察研究してみようという気になりました。

 そんな気持ちで過ごしていたある日、ある感覚がふと出てきました。表現すれば以下のような感じです。酒を飲もうとする衝動には何か無理がある。頭からのものだ、身体からのものじゃない。飲まなきゃいけないと思って飲んでいる。

 この感覚の出現は僕には結構な驚きでした。酒が好きだから飲んでいる。酒自体の味もおいしいと感じるし、いい気分になって時間がゆっくり過ぎていく心地よさを味わえる。酒に強いから量がついついつい多くなるだけだ。酒の上で問題を起こすこともまずないし、自分の酒はいい酒だ。大体そんな風に思っていたのです。それが、好きには違いないが、それだけじゃないものが混ざっている。無理に頑張っているところがあるのは間違いない。飲むペースが速いのは、「早く行動しなければならない」につながっている。頑張る感じは歯磨きの時の力む感じに通じる。

 そう感じたことと相前後して、ちょっと飲むとすぐ酔いを感じるようになりました。飲む時はビールから始めるのが習慣です。ビールはほんの前座、本格的に飲むための勢い付けのように位置付けていました。ビールなんて酒じゃないという感覚だった。それがビールを二口三口飲んだだけで、胸がドキドキして頭部がポーっとしてくる。あれっこんなに酒が弱かったんだっけ。これも驚きでした。今でも、そこを越して飲み続ければ、最初の酔いの感じがなくなって、結構な量を飲める。それも確かめてみました。でも、敢えてそうしようとは思わない。結果として、現在、350㏄のビール1缶と冷酒ぐい飲み1杯が定量。2年前までと比べるとまさに激減です。

   若いうちは無理が効く。一つの行動に混ざっている強迫性の程度が強くても、その不自然さを体力が補ってくれる。不自然だと感じにくい。麻痺させやすい。歳をとるにつれて体力が衰えると、それが通用しにくくなる。それはしかし、不自然なものを不自然だと感じるチャンスを与えられたことでもある。強迫性に気付きやすくなり、結果としてより自然な方向への変化が起きやすくなる。自発性の占める割合が増すことになる。

   これが老いを肯定的に捉える視点です。

 次は書くという動作についてです。

 僕は字を書く時に手が震えます。落ち着いて一人でいる時でも字を書こうとすると震えますが、緊張したり、人に見られていたりすると震えがひどくなります。冠婚葬祭とか何かのパーティーとか、割とフォーマルな雰囲気の場所で、向こうに受付の人が何人か立っている前で署名しなければならない時が最も苦手です。妻が一緒に出席する時は、妻に書いてもらうのが常でした。

 字を書く時にも僕の強迫性、「早く行動しなけらばならない」、が働いているに違いありません。働いていて、それを感じる機会が増えています。ここまでの文脈からすると、それを直接感じる度合いが増し、その結果強迫性が和らいでゆっくり書くようになった、ということだと都合がいい。しかし現実はそれとはちょっとだけ違います。書くことに関しては、大分以前から、意識してゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせている場面がありました。そうしないと、手が飛び跳ねるように動いてしまい、全く書けなくなってしまう。呼吸法の経験を生かして、ゆっくり息を吐きつつ下腹部を意識しながら書く。そうすることで、人前で署名する場に一人で出席する非常事態を何とかしのいできました。

 若いころから字が下手でした。一つ一つのの字のバランスも、文を書いた時の全体のバランスも、どこか変、何より丁寧さがない。悪筆の典型と言っていいと思います。きれいな字を書く人を羨ましいと思ったことはずいぶんありましたが、字がうまくなるように練習してみよう努力してみようと思ったことは記憶にある限りない。相当昔からあきらめていました。

   カルテの記載は、話を聞きながら速記的に書くのが習慣でした。読めないとはよく言われましたが、内心で、震えるんだから仕方がない、自分では読めるからいいじゃないか、と開き直っていました。年をとるごとに、自分でも読めなくなってきていましたが、キーボードに打ち込むことができるようになって、あまり深刻なものではなくなっていました。

   多くの日常的な場面では、綺麗に書こうとの気持ちは捨てて悪筆を堂々と晒し、どうしてもある程度はちゃんと書かなければならない場面では、少し真剣モードになる。何れにしても、その場をしのいでいただけ、とまとめることができると思います。

   いつの頃からかはちゃんと記憶していませんが、『その二』に書いた、いわきの病院での体験の頃からだったような気もします。非常事態を凌ぐ為の方法を、日常場面でも用いるようになってきました。その頻度が少しづつ増してきていた。字を丁寧に書こうとの意図の元、吐く息とともに丹田の辺りを意識しながら書く。そうすると、早くチャチャチャっと書いてしまおうとする衝動が自分の中にあり、それに引っ張られそうになるのを感じる。引っ張られてしまうことも少なくない。たまに、それが減ってゆっくり落ち着いて書ける時がある。そういう時は字の震えも少ない気がする。そしてある一瞬、早く書こうとする動きと同時に、堪えている感じ、ぐっと歯を噛みしめるような感じの力が働いていると感じることがありました。「ああ、早く行動しようっていうのは一種の力みなんだなあ」とちょっとした発見をした気分になりました。

   この力みは、歯磨きにも出ているんだと知らされる場面がありました。歯磨きをしている自分が、鏡の中で、顔をしかめて苦痛に耐えているかのような表情をしているのに気づいたのです。その時、ああこれだ、ここに力みがでている、と感じたと同時に、「お袋にやらされている」との感じが湧き上がりました。この感じも、いわきの病院の時と同じように、昔の具体的な場面を思い出しているわけではない。でも、昔こうだったこと、母の圧力を感じながら嫌なものを無理やりこなそうとしていたこと、を確信できる感じ。

 頂き物のお礼状も妻に書いてもらっていました。去年か一昨年か、ふと、自分で書いてみようという気になり、参考書を見ながら実行しました。この年になっての初体験です。それができたこと自体、自分でも悪くない気分でした。相手の方から字を誉められたのは驚きでした。望外の喜びでした。

 最近友人が立て続けに入院し、お見舞いに行く機会がありました。二つの病院の面会受付で名前を書かされました。その時、あれっという感じがありました。『性格を変えられるか?』に書いた、髭剃りの感じと似ています。なんだか今までと違う、すんなり書けるなあ、という感じ。これも嬉しい出来事でした。

 

 
 
 
   

 

 

 

 

 

 
 『性格を変えられるか?』以降の強迫性をめぐる体験を書こうとしてますが、これを言っておかないといけないということがあるのに気付きました。それは、今から書こうとしている強迫性は主に人間関係以外のところに出ているものだ、ということです。人間関係の場面での僕の強迫性は、このブログにこれまで何回も書いている"こび"です。今回はそこにはほとんど触れません。

 『性格を変えらるか?』を書いた頃、以前勤めていた福島県いわき市にある病院を、震災後の応援のつもりでほぼ20年ぶりに訪れ、その後もしばらく1、2週間に一度の頻度で通っていました。病院の建物は何年か前に新築され、震災でも、ハード面の被害はほとんどなかった、とのことでした。放射能被害を怖れて退職する常勤医が続き、医師不足が深刻となっているとのことで、数合わせのためにいくらか役に立つかもしれないという思いでした。

    何回目の訪問の時だったか、僕にとっては目新しい更衣室で、入院患者との面接のために白衣に着替えている時のことでした。急いで着替えを済ませて慌てて更衣室から出ていこうとしている自分に気が付いたのです。更衣室にいるのは僕だけ、誰にも気を使う必要はありません。時間は午前10時ごろ、その更衣室を使っているドクター達はもう着替えを済ませていて仕事中、外の廊下には人の気配がなく、誰かが入ってくる可能性はほぼない。仮に誰かが入ってきたところでゆっくり着替えていてなんの問題もないのはわかっている。僕に急ぎの仕事があるわけでもない。つまり、全く慌てる理由がないのです。

    全くその必要がないのに、慌てて着替えてすぐに更衣室の外に出ようとしている。落ち着かない。病院の職員か誰かが入ってきそうな気がする。その前にそこから出ていかなきゃいけないような気になっている。

     そういう自分を意識した時、誰かというのはおふくろだ、昔からおふくろの目を意識してこんな風な気持ちになっていたなあ、というような感じが生じました。具体的な過去のエピソードを憶えているわけではない。でも今のこの感じは過去の母親との間の再現であることは疑いようがない。そういう強い感覚です。侵入され見られて何か言われる前にチャチャっと済ませおかなきゃいけない。済ませて整ったところを見せなきゃいけない。

 そしてまた同時に、以前から気が付いていた自分の強迫性「早く行動しなければならない」の元がこれだ、という感覚も生じました。

 同じ頃、やはりその病院でのことでした。清潔で居心地のいいトイレで大便をした後、更衣室でと同じように、慌てて身支度を済ませてトイレの外に出ようとしている自分に気が付いたのです。これも全く急ぐ理由がない。なのに、何かに追い立てられるようにそうしてしまう。

 この出来事が僕にとっては大きいものでした。

 普段とは別の環境だったこと、しかも昔しばらくいた場所を久しぶりに訪れていたこと、更衣室とトイレが医師専用スペースのような位置にあり人の気配が少ないところだったこと、それらの条件が重なったことが、この気付き体験のために必要だったのではないかと考えます。普段と違う環境だからその現象が起きているわけではない。いつでも同じ強迫性が働いているが、そのような条件が整ったことでそれに気づくことができた。

 その後、普段の日常生活の中でも同じ強迫性に気が付く機会が増えてきました。

 小便をした後、多くの男性が、ペニスを何回か振る動作をすることには以前から気が付いていました。残尿がないように、後から漏れることのないように、という意図からのものだと察しもついていました。自分はそれをしないことを分析の場で報告し、近藤先生から「そこには何かありそうだね」と言われた記憶が今でも残っています。解明されないままになっていました。ここにも同じものが出ている。

 入浴後身体を拭いて着替えを手にもって自室に戻ろうとしている。その時、足ふきマットを片づけていないことに気づいた。頭では、今手に取っている着替えを一旦置いて、マットを仕舞えばいいのはわかっている。でもそうは身体が動かない。着替えを持って自室に戻ろうとする勢いが強い、その動きを止められない。その強い力が自分の中に働いているのを感じた時、ああこれだ、いつものやつだ、と思い当たりました。今の動作をさっさと済ませて早く早くと先を急ぐ、そしてその動作を始めたら終了までそれもまた早く済まそうとする。

 飲みかけのカップとか、読みかけの本とか、車のカギとか、そういうものを右手に持ったまま何かの動作をする。邪魔だし、その作業が雑になってしまう。右手に持っているものをそばに置いて両手をフリーにしてからにすればいいのにそのままやってしまう。そういうことがしょっちゅうあることも、かねてから気にはなっていました。何かありそうだ、とも感じていました。マットの件の後、すべての現象に同じ力が働いている、早く早くという強迫性がこれらの現象を引き起こしているんだと腑に落ちる感じがしました。

 これらに気づいた後、すべての例で、強迫性が緩んでいるのは間違いないと思います。具体例を一つあげるなら、足ふきマットはほぼ毎回片づけられるようになりました。

 


 

 

 
 
    

 

 

 
 精神分析は宗教か?のお題は、少し置いておくことにします。必ず書き続けます。

 強迫性と自発性。この題も、僕の関心事の一つです。

 この題でブログを書きたくなったのには、実はきっかけとして、最近の僕の日常生活での出来事があります。それは後ほど述べることにして、どのような関心を以前から抱いていたのか、まずそれを書いてみます。

 人間の行動のほとんどすべてに、強迫性と自発性が、両方同時に働いている。どちらか一方だけ働いていということはほぼないと言っていい。これが僕の最初の前提です。

 ここで言う強迫性とは、「...しなければならない」と表現されるもの。自発性とは、「...したい」と表現されるもの。とりあえずはそう定義しておきます。

 例えば今僕がブログを書いている行為。大分間があいた、待っていてくれる人がいるかもしれない、そろそろ書かなきゃ。そういう気持ちが働いています。自分の中に自然にたまったものを表に出そう、出したくなった。それだけではありません。前者を強迫性、後者を自発性と呼ぼう、というわけです。

 そして、人間としての成長を、人間の行動のあらゆる面に存在する強迫性と自発性の比率が変化していくことだと言っていいのではないか、との考え。これが次の前提です。人間として成長するということは、その人独自の自発的なものが日常生活の中により多く豊かに表現されるということだ。

 この考えは『性格を変えられるか?』(2012年6月3日)の中でも書きました。そしてそこでは、山歩きや髭剃りでの体験から、僕自身のメインの強迫性が「早く行動しなければならない」との表現がぴったりするものだと述べ、分析の経過を通じてその強迫性の程度が減ってきたと書いています。

 「分析の経過を通じて」のところをもう少し表現したい気持ちが生じます。ここに僕が強調したいポイントがあります。

 「分析の経過を通じて」を、自分の強迫性をそれとして見る(感じる)経験を積み重ねる、と言い直したいのです。

 そして更に、強迫性をそれとして見る(感じる)回数が増せば増すほど、その感じ方が強ければ強いほど、あとは自然にその程度が減じ、自発的なものの比率が増す、と言いたい。

 僕の髭剃りの例は(いつもと違ってゆっくり快適に髭剃りをしている感じがする)、自発性の方を直接感じている体験だと言っていいと考えます。僕の経験では、こういう方が珍しい。多くの場合、強迫性の方をそれとして感じる。

 その時に、そうであることを責めないでそのまま感じるのが大事。やめられそうなら意志の力で止めようとするのは勿論ありですが、でも、それですんなりやめられたり減ったりするならそれはラッキーだと考えた方がいい。大抵はそう簡単に減りもなくなりもしない。場合によっては、やめようとすることが空回りを呼び罪責感を強めてしまう。だから、コツは、繰り返しになりますが、強迫性の存在を責めないでただ見る、感じる。そうすると何だか知らないうちに自発性が増す。自然治癒力が働く。強調したいのはこの点です。

 ここまでを前置きとして、今回は、『性格を変えられるか?』を書いた以降、最近の出来事までの、強迫性をめぐる僕の体験を、思い出すままに述べてみようと思っています。

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