2012年3月のブログ記事 | 津川診療所 福島県 福島市 精神科 カウンセリング 精神療法 心理療法 精神分析 カウンセラー

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2012年3月のブログ記事

薬物療法

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薬物療法をどう考えますか、との質問がありました。

 

 これまでこのブログの中で、私の考える治療を、人間としての成長を助けることだ、と言ってきました。人間として成長する。自己実現をを遂げる。感じる力を育てる。内部感覚(近藤先生の言葉です。そのうち詳しく触れることになると思います)を育てる。直観力を磨く。内省的になる。自己観察力が増す。パーソナリティーが変化する。これらの表現によって意味されるものは、みな似たものです。これらのことの延長線上に、悟る、救われる、大きなものによって生かされていると感じるといった宗教的な体験があるのではないか、というのが僕の考えです。もしその考えが正しいなら、そのプロセスを出来るだけ言葉にしていきたい、ひょっとしたらそれが自分の使命かもしれないとの気持ちがあります。実はこれがこのブログを書きだした本当の理由です。治療経験を通して、悟っていない自分が悟る方向に進んでいけたら、まさに現在進行形の自分の体験と重ねてそのプロセスを描写出来ることになるかもしれない、と考えたわけです。

 薬物療法が、上記のプロセスに直接的に影響を与えることは、全くと言ってもいいぐらいないと感じます。

 一方、以下に列記するようなものには、薬物療法が直接的に効果を発揮します。不安感。焦燥感。パニック発作。強迫観念や強迫行為。うつ状態。そう状態。幻覚妄想状態。イライラ感。激しい攻撃。興奮状態。などなど。

 上記のような、いわゆる症状と呼ばれるものが良くなるのは、それらの底にある不安が薬物によって減少することによるのではないか、それが僕の印象です。本人には不安感が全く自覚されていないうつやそうも少なくありません。その場合も、潜在的不安が存在し、それが減少することによって気分の変化がもたらされると考えることが出来そうな気がします。不安の質や量の違いに対して、抗不安薬、抗鬱剤、メジャートランキライザーが使い分けられているだけだ、薬のターゲットは結局は不安だ、と言えそうな気がするのです。

 私の考える治療が進展し、ある程度の信頼関係が出来、クライエントの安心感が増してくると、だからこそ不安を自覚できるようになる、ということがあります。ここで自覚されるようになる不安は、その後の治療の進行にとって非常に重要なものです。この不安にセラピストとクライエントが一緒に耐えていくのが治療だ、と言ってもいいぐらいです。

 上記の症状の程度が激しいと、症状の底にある不安を自覚しそれに耐えるというのは困難です。薬物療法というのは、不安に働きかけ症状を軽減することで、もともとある不安を自覚しやすくまた耐えやすくするところに本来の意味があるのではないだろうか、それが僕の薬物療法観です。

 少し現実的なことを書きます。薬物療法が必要な場合、精神療法に理解がある精神科医に薬物療法を受け、このクリニックでの治療と二本立てで治療を進めていくのが理想的なやり方だと思います。ご希望があれば信頼できる医師を紹介します。

 

 

クリニックの特徴

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当クリニックの特徴を書いてみたらどうか、とのおすすめがありました。

 

 箇条書き的に書いてみることにします。

 一番目は、近藤先生の考え方を継承発展させようとの意図がある、ということです。精神分析の歴史の中で、カレンホーナイ、近藤章久と続く流れを汲んでいる、と言ってもいいと思います。

 二番目は、ホームページに載っているセラピストの全員が教育分析を受けた経験がある、ということです。セラピストがセラピーを受けることがセラピストの訓練として最も基本的なことなので、これは本当は特徴として書くようなことではないのかもしれないのですが、多分、日本では珍しいと思います。

 三番目は、クリニック内で定期的にケースカンファランスを開き、それぞれのセラピストがケースを出し、お互い刺激し合って研鑽に努めている、ということです。一年に一度は、『近藤章久記念精神療法セミナー』と題し、外の会場を借りて、普段より少し大がかりなケースカンファランスを開いています。近藤先生存命中は、この会に必ず出席して下さっていました。

 四番目は、希望があれば色々なセラピストと会ってみることが出来る、ということです。一人のセラピストと会って相性が悪いと感じたら、他の人と会ってみてください。

 五番目は、セラピストの資格にこだわっていない、ということです。医師や臨床心理士の資格を持っていることとセラピストとしての実力とは全く無関係だと考えています。料金は、セラピスト一人一人が自分で決めています。薬の処方だけは例外です(種類は多くありませんが、抗不安薬、抗うつ薬などを、医師の資格のあるセラピストが処方しています)。

 

近藤先生 その三

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 その一、その二で、出会いと別れの場面を思い出そうと試みてみました。その間の21年間については、書き出すときりがないので、そしてまたこれから他の題で書く時に必ず出てくると思うので、ここでまとめて書くのはやめることにします。

 全体的な印象だけを書いておきます。

 その前に年齢ですが、僕より38歳年上です。存命ならちょうど百歳ということになります。

 21年間、毎週一回、よく通ったなあ、という感慨がまず浮かびます。その間約7年間は、福島県いわき市の病院に勤めていたので、そこから、特急を利用しても、通うだけで3時間以上かかりました。21年間、休んだこともほとんどなかったと思います。先生が風邪などの病気で休みになることも数回しかありませんでした。そういう時は、受付の内田さんから事前に連絡があるのですが、一度だけ、行ってみたら今日は休みだと言われたことがあったのを憶えています。

 先生の態度というかたたずまいというか、そういうのが残っている感じがします。暖かいエネルギーをずっと注ぎ続けてくれたというか、歩みの鈍い僕をよくぞまあ待ち続けてくれたというか、そういう表現が浮かびます。さらに、生き生きとしている、力強い、自由、自然、というような言葉が浮かんできます。

 自然と書いてみて、今まで先生を自然だと思ったことがなかったなあと気が付きました。そして書いてみると、自然な人だというのがもっともぴったりした表現かもしれないという気がしてきました。津川クリニック開業時に先生が書いてくれた『自然』という書が、僕の診察室にかかっています。最も目に付くところにかけてあります。意識してではなくても毎日目にしている筈ですが、これからは今までと少し違った気持ちで見ることになるかもしれません。

 もう一つ僕にとって面白く感じることは、セッション中の先生の饒舌さです。こちらの連想を引き出そうという意図もあるのでしょうが、僕が少し黙っていると、先生のほうが話し始める、という印象が残っています。しゅっちゅうではありませんが、もっとこっちが喋りたかったのに、と思うこともありました。

 そういう時、ご自身が感じたこと、時にはプライベートな話も結構出てきました。「今度の休みに三陸に行って来たんだよ。海を見たら急に泳ぎたくなってね、水泳パンツに着替えて岩の上から飛び込んだんだよ。気持ちがよかったねえ。」という例を今一つ思い出しました。他にも沢山ありますが、繰り返しになる(別の機会に全く同じ話が出てくる)ことがほとんどなかった、というのを不思議に感じていました。他の人に同じ話をしていたと聞くことはあったので(僕が受け始めたあと、知人や後輩の相当人数が先生の分析を受けるようになりました)、この話をこの人にしたという記憶というか感覚というか、そういうのがあったんじゃないかと思います。

近藤先生 その二

  先生が亡くなる直前まで、つまり物理的に分析を受けることが不可能になるまで通い続けたということは、終了にはならなかった、卒業できなかった、ということでもあります。分析の終了について、先生が、「師匠を理解するということだよ」とおっしゃっていたのを記憶しています。1998年の最後のセッションの頃、とても先生を理解出来ていたとは思えません。亡くなられてから13年経つのですが、いまだにはなはだ心もとない感じがします。それでも、その頃と比べて見え方が違ってきていることも確かなので、現時点での先生理解を試みてみることにします。

 知的であること、クラシック音楽の鑑賞力が相当深そうなこと、僕が聞いているとネイティブが話しているとしか聞こえない英語力があること、学校経営に長く携わっていたこと、精神分析の歴史の中で一つの流派の創始者(カレンホーナイ)に認められたおそらく唯一の日本人分析家であること、森田療法家でもあることなど、多才というか、色々な面があるので、先生の本質がかえってわかりにくくなっていると言えるかもしれない、この頃そんな風に思うことがあります。

 先生の本質は、信仰心の深いところにある、本当の意味での宗教者であるところにある、そう言うのが最も近い気がします。

 亡くなったのが1999年2月3日ですが、一月の半ばごろ、先生の秘書的な仕事をしていた根戸内さんから電話をいただきました。先生が私たち夫婦に会いたい(私の妻も先生の分析を受けるようになっていました)とおっしゃっているとのことでした。さっそく病室に二人で訪れると、痩せてはいても張りのある声で、主治医から余命が少ないと宣告されたとの話のあと、「自分には息子がいない。葬式のことを頼めるとしたら、女房の親戚の純ちゃん(小泉純一郎氏)ぐらいだが、彼は忙しいだろうと思う。君にやってもらいたい。」ということでした。その話が一段落した後、「津川君、最近面白い夢を見たんだよ。僕が二つの人生を歩んでいるんだ。一つは政治家の人生。総理大臣になって、この国を変えようと一生懸命働いているというもの。もうひとつは、実際に僕が生きてきた人生なんだ。夢の中で、こっちで良かったと思っているんだよ」とおっしゃいました。

 それを聞いた時にはそんな言葉は浮かばなかったのですが、最近、先生が実際に生きた人生は信仰の道だった、と思うのです。

 先生の葬儀の時、小泉純一郎氏が参列していました。ガードマンもつけずに一人でだったので、その時はどこの大臣でもなかったのかもしれません。後に小泉氏が総理大臣になった時、先生の夢を思い出し、もう一つの人生を先生に縁のある人が実現したことになったと、ちょっと不思議な気分を味わいました。

 先生ご自身が信仰という表現をなさることはほとんどなかったと記憶しています。宗教という言葉もあまり使わなかったと思います。手垢が付いた言葉で、誤解を招きがちなのを恐れたのかもしれません。「我々を超えた大きなものに生かされる」という表現はよく耳にしました。「死ぬまで真実を求め続ける」「60過ぎてからも何回も脱皮を繰り返している感じだ」との言葉も耳に残っています。それらを僕は、宗教的な体験を深める、という意味だと解するのが正しいのではないかと考えるようになりました。特定の宗教の信者であるかどうかもどうでもよかったのだと思います。キリスト教の信者でも仏教者でも、その信仰が本物であるなら、それぞれの体験(境地、感じ方)には共通のものがあるとお考えだったのではないかと想像します。

近藤先生 その一

近藤先生についてシリーズで書いてくれとのリクエストがありました。

 

 まずは近藤先生に出会った頃の記憶をたどってみることにします。 

 大学病院での研修医の期間が2年間で、その後、1976年に、川崎にある私立の精神病院の常勤医になりました。医局の本棚に河合隼雄先生の『ユング心理学入門』がありました。気になっていたのになかなか手に取らなかったことを憶えています。読んだのは1977年になってからだったかもしれません。すーっと一気に読んだ、読みやすかった、わかりやすかった、という印象が残っています。

 次に記憶に残っている場面は、河合先生の奈良のご自宅の応接室です。1977年の9月頃だったと思います。川崎の病院で知遇を得、その後も色々と応援を続けて下さった空井健三先生の紹介です。

 河合先生と面と向かって座り、精神分析学会に参加してみての感想、つまり、権威的、知性的な感じがし、この人から分析を受けたいと思える人がいなかったとか、『ユング心理学入門』を読みユンギアンである先生の分析を受けたいと思ったとか、そういうことを言った筈ですが、憶えてはいません。自分の発言の中で、うっすらと憶えていることがひとつだけあります。自分は精神医学的な診断が嫌いだという話の流れだったと思うのですが「分裂病に欠陥状態があるというなら、神経症にもあると思う」というような内容です。それを面白そうに聞いてくれたという印象が残っています。

 その時の河合先生の発言は、大体以下のようなものだったような気がします。「教育分析を受けるというのは、時間が長くかかるし、変化が目に見えないから、つかみどころのない感じのするものだ。そういうもののために毎週新幹線で数時間かけて通うのは大変だ。思い当たる人が東京にいる。あまり有名じゃないけど凄い人だ。河合から紹介されたと言って、一度会ってごらん。料金は僕より高いと思うけどね」

 それが近藤先生でした。近藤先生宅を初めて訪問したのは、たぶん10月だったと思います。なんだかすっと引き受けてもらえたなあ、との印象が残っています。あとはほとんど記憶にないのですが、一つだけ憶えている近藤先生の発言があります。河合先生にこんなことを言われましたと、さっきのようなことを僕が話したことに対して、即座に、「そりゃあ河合君らしいね」と言ったことです。

 これは大分後になってわかったことですが、僕が河合先生に会えた日のすぐ前に、京都大学の河合先生の主宰する会に近藤先生が参加し、講演か何か、とにかく参加者に感動を与えるような話をしたらしいのです。後にその時の参加者と知り合いになって聞いた話です。その会での印象のおかげで近藤先生を紹介してもらえたのかもしれません。その時に、近藤先生も河合先生に対して、何か感じるところがあったんだろうな、と思います。

 初回は対面で、二回目から寝椅子(ベッド)になりました。毎週一回、以後21年続くことになるわけです。ここまで書いて、初回時の近藤先生の言葉をもう少し思い出しました。「感じたことを話すように」というのと「秘密が漏れることは絶対にないから安心して話すように」というものです。その後、自分がセラピストとしてクライエントとの契約が成立した時、僕も全く同じことを皆さんに言っています。

 

 

 

 

 

 

 

生きているのが辛い

生きているのが辛いという質問があったとするとどう答えるか、と質問されました。

 

 最近、酒を飲みすぎた翌朝、酒の醒め際に、不整脈が出ることに気が付きました。気が付いた時は、不整脈の頻度が相当なものだったのですが、昨日飲みすぎたからおきているんだと言い聞かせ、それほど気にしないでいたつもりでした。ところが、いったん意識したことがきっかけになって、胸の鼓動に注意を向けるようになり、酒の醒め際でなくても、結構不整脈がおきていることに気がついてしまいました。しょっちゅう自分の脈をとるようになり、友人の循環器内科の専門医に相談し、「心配ないと思うよ」と言われたのに、「大丈夫だと太鼓判を押してくれる口調じゃなかった」「本当にそんなに気にしなくてもいいんだろうか」「ちょっと頻度が多すぎるんじゃないか?」「何か心臓に疾患があるんじゃないか」「急に心臓が止まるんじゃないか」と想像が膨らんでいくのとともに、ほかのことで気が紛れている時はそれほどではなくても、意識が胸に向かうと、身構えるというか、見張っていて脈が止まりそうになったらなんとかしなくちゃという気持ちになるというか、そんな心理状態を経験しました。

 パニック発作の心理とそっくりだ。生き延びたい気持ちが強いんだな。コントロール出来ないものをコントロールしようとしている。自分の力で何とかしようとして、委ねるしかないという気持ちになれない。などの考えが浮かびました。

 ここまでは自分の体験です。ここから先は、頭で考えたことだというか、仮説です。

 委ねられなさ、"自分の力で"何とか生き延びようとする気持ち、ここに注目したいのです。これは、すべての人に、意識されないことはあっても常に働いている心理ではないでしょうか?そして、生きているのが辛い、そういう辛さが、本質的なところでこの気持ちと関係していない場合はない、そう断言できるような気がするのです。言葉を変えれば、無意識のうちに働いている、"自分の力で"生き延びようとする気持ちが、生きている辛さを生じさせている、ということになりそうな気がするのです。

 この仮説が正しいとしたら、なんとも皮肉です。皮肉ですけれども、辛さが減るための道は示されたことになるのではないでしょうか?、無意識に働いている"委ねられなさ"への気づき方が増し、委ねられる方向へと進んでいけばいいんだと。

 近藤先生が、我々弟子達に伝えたかった最大の点は、「我々を超えた大きなものに生かされ自然やほかの人達との平等性を体験することが大事だ、体験がないならそういう体験がありうるとの信念を持て」ということだったと僕は感じています。それはさっきの僕の表現だと、"自分の力で"生き延びようとしないでいられる、ということになりそうな気がします。

 

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